交流企画作品投稿用BBS
【エデン】湖畔を臨む
- 淡島かりす
2026/08/24 (Mon) 21:51:22
湿気た空気が首あたりにまとわりつくような気候だった。捻くれた雲がかろうじて絞り出した水分が、空にも地にも還れずに仕方なしに人間にしがみついているかのような。
コトワリはいつもの服とは別に、広いつばを持った黒い帽子を身につけていた。帽子の後ろからは首を守るための布が長く垂れている。それは日差しからではなく、湿気から人を守っていた。
「これがダンジョンなんですか?」
コトワリは案内人にそう尋ねた。案内人と言っても自分が頼んだわけでもなければ帯同したわけでもない。ここに簡易なテントを張って住み込み、訪れた人間に場所の説明をする役割を担っている者たちだった。
「えぇ。湖の中心に入口が」
コトワリと同じような帽子を身につけた案内人の女が言う。帽子に加えて黒い布地のフェイスカバーもつけているので殆ど顔が見えない。
「ですが湖の底なので、普通の手段では入れません。入れるのは潜水用のハロを持った方か、もしくは……」
「サルベージ船、ですよね」
コトワリがそう言うと相手は頷いた。別にコトワリが詳しいわけではない。ここに居る者の殆どは、それを知った上で集まっている。
湖畔にいる人々の数は五十は下らないと思われた。皆湿気避けの格好をしていて、湖を見たり近くの誰かと話をしたりしている。湖の中央には大きな、鯨のような形をした船が止まっているのが見えていて、皆の興味はそれに注がれていた。
湖の底にあるダンジョン『オケアノス』は、到達困難なダンジョンとして知られていた。何があるのか知りたがるのが冒険者の性というもので、潜水向きのハロを持つ者や、瞬間移動のハロを持つ者などが挑戦してきたが、成功には至らなかった。
一度だけ、白羽に依頼が来たことがある。イロハの持つ『千里眼』の能力なら、何かダンジョンに関する情報が掴めるのではないか、という考えによるものだった。イロハは単身で湖まで訪れて、湖の底を視た。ダンジョンの中までは見れなかったようだが、入口付近に空気の塊があって、その中に古めかしい食器やら装身具の類がいくつもあるのを確認した。
その情報を聞いて俄然やる気になったあるクランが、サルベージ船を作り上げたのが数日前のこと。噂を聞きつけた他の冒険者たちは、そのお零れに預かろうとしてダンジョンに押し寄せた。だがクラン側はそれすらも利用して、サルベージした物をその場で公開すること、買い付けなどを行う権利を抽選で与えることを発表した。
「随分、抽選の申し込みが多かったようですね」
「えぇ、とても」
つまりここに居る者は厳選なる抽選により、サルベージされた品物を取引する権利を得たということになる。
コトワリはと言えば、確かにこの場所に立ち会う権利は持っているが、抽選に応募はしていなかった。クランの方から招待状を送ってきたのである。つまり、イロハの情報への感謝という形で。
イロハは興味がないからと誰かにその権利を譲ろうとした。クエルクスは用事あるからと断り、アロは何をするのかよくわかっていない様子だった。ティトンは興味津々だったものの、申請書が五枚も必要な特殊なダンジョンに行く日と重なってしまっていた。結果として、「雑貨屋に置けるものがあるかもしれないぜ?」というイロハの一言と共にコトワリへと譲渡された。
「まだサルベージ船が戻るまでは時間があります。あちらに出店がありますので、よろしければ」
「はぁ」
視線を動かすと、湖畔に沿っていくつかテントが建てられていた。どうやらそこで食べ物を販売しているらしい。コトワリは半ば呆れつつ、半ば感心しつつ口を開いた。
「商売熱心ですね」
「それが我々のクランの持ち味ですので」
ハビラなどでイベントが開催される時、その経営を一手に担うクランがある。場所の飾り付け、必要な物品の調達、訪れる人達の案内などなど、その仕事は多岐に渡る。彼らがいないと、ただ騒ぎたいだけの者や利益優先の者ばかりが集まってしまい、収集がつかなくなる。かといってイベント自体を止めてしまうとハビラに活気が無くなるだけでなく、クラン同士の交流も少なくなる。
「今回は、あなた方から持ちかけたと聞きましたが」
「我々も、仕事が来るのを待つだけでは干上がりますので」
相手は可笑しそうに笑う。ダンジョンからのサルベージを「お祭り」にしてしまおうというのは、なかなか考えつくことではなかった。
コトワリはその場を離れてテントの方へと向かう。近づくにつれて色々な香りが鼻腔をくすぐった。すれ違う人々は、串に刺した肉やら、カップに入ったスープやらを持っている。どこかに腰を落ち着けて食べるものより、サルベージ船を眺めながら片手間に食べられるものを売っているのだろう。
「何にしましょう……」
特に空腹という訳でもないが、これからのことを考えると何かしら腹には入れておきたかった。サルベージ船が岸に戻って引き揚げたものが並んだら、このあたりは戦場に等しい状況になるだろう。虚弱な自分が不用意に近づいたら揉みくちゃにされて、恐らく最後は湖に落ちる。せめて落ちた時に泳げるくらいの体力は必要だった。
スープ、肉、揚物。様々なものが並ぶが、どれもあまり食指が動かない。恐らくこの湿気た空気のためだろう。食べ物の前をただ淡々と通り過ぎていくと、最後にあるものが目に入った。
「あの……こちらは何ですか?」
「ゼリーです」
台の上に並んだガラスの器に目を向ける。平素食べることのない食べ物だが、妙に美味しそうに見えるのは、それが唯一清涼感を出していたためだろうか。コトワリはそれを一つ買ってテントを離れた。
湖畔に沿ってサルベージ船の方へ近づく。見学用にベンチまで並べられていて、もはやここがハビラに新しくできたエリアだと言われても信じてしまいそうだった。
人が少なく、そして木陰になっているところを探して腰を下ろす。そこは偶然周りより少しだけ高くなっていて、湖の上のサルベージ船が良く見えた。
「さてと」
手に持ったガラスの器に目を向ける。四角く切られた黒いゼリーが入っていて、上から濃厚なクリームが掛けられていた。コーヒーをゼリーにしたと言われて最初は少し怯んだものの、こうして見ると美味しそうに見える。
添えられたスプーンでゼリーとクリームをすくい上げて口へと運ぶ。甘い味が口の中に広がり、あとからコーヒーの苦味が追ってくる。悪くないどころか、好みの味だった。
「これは皆さんも好きでしょうね」
今度作ってみよう、と思いながら次々に口の中にゼリーを入れる。もし今日、特に得るものがなかったとしても、このゼリーを知れただけで収穫だと思っていた。
あのクランが関わるイベントではいつも何かしら美味しそうなものが見つかる。どこでレシピを手に入れ、あるいは思いついているのか。
「侮れませんね。「ウンエイ」は」
そう呟きながら、コーヒーゼリーを口に入れた。サルベージ船はまだ戻りそうになかった。
【エデン】秘密の箱の鍵 - 秋待諷月
2026/08/22 (Sat) 19:34:59
「受け取れ、コトワリ!」
涼やかなイロハの声とともに、空中へ放られた「それ」が綺麗な弧を描く。篝火に照らされて一瞬きらりと光を弾いた小さなものを、一度はお手玉をしながらもコトワリはなんとか受け止めた。即座にその場に片膝を突き、床に置かれた大きな宝箱の前面に貼り付くと、金属製の錠の穴にイロハから託された鉛色の鍵を差し込んで回す。
カチリと漏れる小気味良い音。杖の石突を箱本体と蓋の隙間に挟み入れ、重たい蓋を梃子の原理で持ち上げ開け放つ。体を曲げれば大人でも入れそうな広々とした空間の底には、赤っぽい色の鍵が一本転がっていた。
「ありました、赤銅色です!」
箱の縁を掴んで中を覗き込みながらコトワリが告げると、「それじゃない!」と遠くからクエルクスの怒号が飛ぶ。
「金色だ! それ以外の鍵には手を出すなよ!」
「コトワリ、すぐにそこから離れて!」
床や柱が割れ砕ける派手な音が次々と上がる中、クエルクスの執拗な念押しが、続けてティトンの指示が、コトワリの焦燥に拍車をかける。「言われなくても!」と返しながら、鍵は置き去りに宝箱から飛び退き、その場から離脱しようとしたところで。
「ねーねー見てー、PIYOいっぱいいたー」
コトワリの正面から足取りも軽くやって来たのは、両手いっぱいにPIYOを抱えてご満悦のアロである。勢い余ってつんのめり、どうにか踏みとどまってから、コトワリは呆れ顔で尋ねる。
「アロさん、何をしているんですか?」
「PIYO集めー。オレを見るなり逃げるから、つい追いかけちゃったー。みんなで何か運んでたよ。何が入ってるんだろー?」
物言いたげなコトワリを気にすることもなく、アロはPIYOと一緒に拾ったと思しき小さく細長い木箱の留め金具を外すと、蓋を開いて中身を掌に落とした。
鍵である。
「……鉄色ですね」
鈍く青みがかった黒色の鍵を見て、コトワリは遠い目をして報告する。異変を察知して駆けつけたクエルクスとティトンが、その色名を耳にするなり「げっ」と顔を引きつらせた。
二人の後方からは、ティトンの倍近くもの背丈がある全身鎧が、重々しい足音を響かせながら斧を振りかぶって迫り来る。そしてアロの後ろからも、戦槌を担いだ別の鎧が一体。中身は空洞、鎧だけで生き物のように活動する鎧型魔獣「リビングアーマー」である。
アロが抱えるPIYOたちと宝箱にビシリと指を突きつけ、怒髪天の形相でクエルクスは命じた。
「拾った場所に返してこい!」
クラン「エル・ブロンシュ」――通称「白羽」の五人が現在挑んでいるのは、「鍵の六角部屋」と呼ばれる単層型密室ダンジョンだ。エデンの街中にある広場から直通になっている大広間と、そこから通じる五つの小部屋で構成されている。安価で市場流通している完全マップは一枚だけのシンプルなもので、攻略難易度はC。その難易度の低さは、同時に、攻略で得られるうま味が少ないことも示している。
そして、難易度の割には攻略が面倒であることも、このダンジョンの特徴の一つ。
「挟撃されると厄介だ、早く箱から離れろ!」
石壁に囲まれた大広間の中心、鷲を模した大きな石像の最頂部。広間全体にくまなく視線を巡らせつつ、イロハが声を張り上げた。「六角部屋」の名のとおり正六角形の構造を持つこの部屋は広大だが、大声を出せば壁の端から端まで声を届かせることはできる。
木箱に鍵を収めつつも、アロはPIYOたちを胸に抱きしめ、さも残念そうに眉尻を下げた。
「PIYOも放さないとダメー?」
「その宝箱は、移動し続けるPIYOたちも含めて一つの仕掛けなんじゃないかな。だから一緒に放さないとアーマーは止まらな……アロ、避けて!」
本能とティトンの声に従い、アロは大きく横っ飛びした。直後、彼が今まで立っていた場所にリビングアーマーが槌を叩きつけ、西瓜のように砕けた床石が四方八方に飛散した。衝撃で起こった揺れで転倒したコトワリが慌てて身を起こせば、頭上ではもう一体のアーマーが、錆びた鎧を軋ませながら斧を振り上げている。
「退避だ、ガキども!」
脱いだコートを盾にしながらアーマーとコトワリの間に割って入ったクエルクスの号令で、ティトンとアロが散開し、一瞬遅れてコトワリも続いた。十分に時間を稼いだと判断したところで、クエルクスも敵の攻撃を躱しつつ、バックステップでその場を離脱する。
白羽の面々と、コトワリが解錠した宝箱との距離が十歩以上離れたところで、斧を持ったアーマーの動きがぴたりと止まった。ほぼ同時に、槌のアーマーも追撃をやめる。アロが「またねー」と手を振っていることから、PIYOと木箱を解き放ったのだろう。
二体のアーマーはやがて踵を返し、ズンズンと重々しい足音を響かせながら、それぞれが元いた場所――壁際の扉の前へと戻っていった。
足音の代わりに広間を満たしたのは、緊張感を伴う静寂だ。ひとまず脅威が去ったことを確認し、周辺の柱の陰に身を潜めていたティトンとコトワリが、はー、と、安堵の息をつきながらクエルクスの傍に寄ってくる。逃げていくPIYOたちを名残惜しそうに見送るアロを、三人は三者三様のジト目で睨み付けた。
「アーロー? ずいぶん自由なこったな、あ゙?」
「もう! 宝箱を開けるなら一つずつ! 二つ以上には同時に近付かないって決めてあったでしょ?」
「ごめんなさーい。ただのPIYOの群だと思ったからー」
「だとしても、どうして鍵を探さずPIYOを追いかけているんですか……」
クエルクスに両頬を掴まれてモチモチされ、ティトンに叱られても反省する様子が微塵もないアロに、コトワリは控えめにツッコんだ。そこに、石像の上から飛び降りてきたイロハが合流する。
「今の二体は大人しくなった。これでハズレが二つ分かったから、多くてもあと三つだな」
イロハは楽観的に励ましたが、すでに疲労しつつあるコトワリのげんなり顔が、「あと三つ」の厄介さを如実に物語っていた。
このダンジョンの「攻略」、即ちクリア条件は単純だ。「扉を開き、大広間から脱出すること」。扉の先にある小部屋で手に入れることができるアイテムが、このダンジョン攻略の最終目標である。
部屋の作りも、また単純だ。六つの壁に六つのアーチ扉。扉はいずれも大広間側から押し開けるタイプの両開き戸で、クエルクスが余裕でくぐれそうな高さと幅がある。うち一つはこの大広間への入り口であり、攻略を諦める場合、この扉から脱出することで街の広場へ戻ることができる。ただし、誰か一人でもひとたび入り口から外に出てしまえば、強制的にパーティー全員が広場に戻されてしまう。
大広間は、床も壁も天井も石造りだ。窓は無く、明かりは壁際に等間隔で灯された篝火が頼り。ホールからは天井を支えるように無数の円柱が伸び、その間には、人や動物を象った大きな石像がいくつも立ち並ぶ。柱と石像の密林の中には、大小様々な「宝箱」が何十個も隠されていた。
ティトンが事前に入手した、このダンジョンの基本情報をまとめると次のようになる。
一、パーティ編成規定人数は五人以上。
一、出口となる五つの扉には、鍵がかかっている。
一、扉の鍵は、大広間の中にある宝箱のどれかに入っている。
一、五つの扉は、対をなす五体のリビングアーマーによって守られている。
一、リビングアーマーは、挑戦者が「リビングアーマーに近付く」「対をなす扉に近付く」「対をなす扉の鍵の入った宝箱に近付く」「対をなす扉の鍵を宝箱から出す」の条件のうち一つでも満たすと襲撃してくる。
一、一つの扉を開けると、対をなすリビングアーマーと、残る四つの扉に対応する鍵が消滅する。
「『近付く』の判定がここまで厳しいとはな。アーマーもあの図体の割に動きが速いし、舐めてかかると痛い目を見そうだ」
扉の前に落ち着いた二体の鎧を疎ましげに睨み、クエルクスが乱れた前髪を掻き上げる。
挑戦者が条件を満たしていない間、リビングアーマーは扉の前で置物と化しているため、こうして意図的に休憩や作戦会議の時間を設けられるのはこのダンジョンの易しいところだ。
「だがまぁ、そのおかげで、狙いの扉も見極めやすいな。赤銅色の鍵が左から二番目、アロが見つけた鉄色が右端だった」
「オーケー、その二つは無視だね」
イロハの報告を受けたティトンがマップ上の扉にバツ印を記し、念のため鍵の色も書き入れる。どの色の鍵がどの扉に対応するかは、扉の外見だけでは分からない上、挑戦する度に不規則に入れ替わるらしい。だが、鍵が入った宝箱に近付けば対応する扉の前のアーマーが動き出すため、その時点で「この宝箱に入っている鍵でどの扉が開けられるのか」は判別可能だ。
ダンジョンを攻略するだけであれば、開ける扉はどれでも構わない。しかし白羽の面々が今回狙っているのは、「金色の鍵で開ける扉」の先にある。
そもそも、単純過ぎる故にダンジョンマニアのティトンですら関心が薄かった「鍵の六角部屋」に彼らが挑むことになったのは、とあるブツをここで手に入れたという情報が、さる筋からもたらされたためだ。このダンジョンでは、扉を開けた先の小部屋で何かしらのアイテムを入手できるが、貴重度はいずれも中の上といったところ。どのアイテムが手に入るかは、どの色の鍵を使って開けたかに関係していることが判明しており。
「うーん、どの扉かなー? アン肝缶さーん、返事してー」
残る三つの扉を見比べながら、歌うようにアロが呼びかけた。返事があるはずもなく、イロハ、コトワリ、ティトンは生温く微笑ましげだが、クエルクスの表情だけはキュッと凜々しく引き締まる。
そう。今回の目的は、さる地底洞窟ダンジョンに棲むという希少魔獣「カンテラアンコウ」の肝の缶詰だ。希少は希少だが、肝心の肝は臭みが強く味はいまひとつという代物らしく、欲しがるのはよほどの変わり者くらいだろう。
このダンジョンへの挑戦を提案したのはクエルクスである。彼の情報源――缶詰マニア仲間曰く、アン肝缶を手に入れた挑戦者が使った鍵が金色だったらしい。
「よし、仕切り直しだ。気合い入れていくぞ!」
意気揚々と拳を掲げるクエルクスに、アロとティトンが「おー!」と元気に応じる横では、コトワリとイロハがなんとも評しがたい薄笑みを浮かべている。
ダンジョンに挑む目的や理由がどんなにくだらなくとも、仲間への協力は惜しまない。白羽の絆が固い由縁である。
ダンジョンには、ルールがある。
特殊なものであれば明文化されて示されている場合もあるが、大半のルールはエデンの住人にとって暗黙のものだ。ダンジョン内でしばしば発見され、貴重なアイテムが入手できる「宝箱」もその一つ。
どんな怪力や道具やスキルを使っても、宝箱は正しい手順でなければ開けることができない。例えば、ティトンのスキルで燃やしたり、クエルクスのスキルで強化した武器で攻撃したり、アロのスキルで素材の状態を脆く変化させれば、理論的には宝箱は容易く破壊できるはずなのに、実際には小さな傷一つ付けることができない。宝箱はダンジョンの中でも特別な――「神様」の息がかかった存在なのだ。
それが「変だ」とは、誰も言い出さない。宝箱の不可侵というルールは、それだけ、エデンにとっての常識として強く根付いているのである。
そして時にダンジョン攻略者は、その常識を逆手に取る。
「クエルから見て十時の方向、およそ三十歩先の柱の中。中身が『視えない』箱がある」
広間中央、先と同じ石像に再び登ったイロハが指差した先を、下で待機する四人の視線が追いかける。
この大広間の中にある宝箱は、九割がフェイクだ。そのほとんどは単なる空き箱だが、中には宝箱に擬態した魔獣「ミミック」も紛れている。その上、このダンジョンでは「アタリ」の鍵が入った宝箱に近寄るだけでリビングアーマーが起動してしまうため、手当たり次第に開けるのも憚られる。
そこで活躍するのが、イロハのスキル・千里眼だ。いかなる遮蔽物も問題にしない彼の能力は、遠くからでも箱の中身を見透かし、魔物を見分けることができる。だが彼の力を持ってしても、「正しい手順で開ける」前の宝箱の中身までは分からない。逆に言えば、彼が見透かせない宝箱こそが「アタリ」というわけだ。
「あそこー? わーい、開けてみよー」
「おいコラ待て、安易に近寄るなと言ったばかりだろうが」
嬉しそうに駆け出そうとするアロのシャツの後ろ襟ぐりを、クエルクスが掴んで強引に引き戻す。「でもー、近付かないと開けられないよー?」とアロが反論するのは尤もで、鍵の入手とリビングアーマーの襲撃を切り離せないことが、このダンジョン最大のジレンマである。
「できれば開ける算段が付いてから近付きたいよね。今度こそ計画どおりに行こう」
ティトンの念押しに一同が頷き、見張りとしてイロハを残すと、四人は目的の場所へ慎重に進み始めた。
五つ存在する「アタリ」の宝箱の大きさや見た目、そして開け方は、全てが異なっている。その上、挑戦の度にそれら全てが入れ替わるため、攻略マップは参考にならない。
先ほどコトワリが開けた大きな宝箱は、ダンジョンに入って最初に目に入ったものだ。不注意に手を出したわけではなかったが、開け方を探るために近寄ったところ、想定していたよりも早くリビングアーマーが反応してしまった。どのみち、扉を開けるための鍵の色を確認するためには、一度はアーマーを呼び起こすことを避けられない。腹を括ったクエルクスとティトンがアーマーの足止めを買って出て、他の三人が宝箱の開封に回ったという顛末である。
ちなみにこの宝箱は開けるために別の鍵を要したのだが、鷲の石像の嘴に挟まっていることにイロハがいち早く気付いたため、さして時間をかけずに開けることができた。宝箱が目立つ場所にあったことから考えて、五つの鍵の中でも最も入手しやすいものだったと推測される。
なお、アロが見つけた小さな宝箱は鍵がかかっていなかったが、ティトンが指摘したとおり、PIYOが移動し続けているため本来は発見しにくいはずだ。アーマーを二体同時に覚醒させてしまったことはアロ以外の面々の寿命を縮めたが、結果的には攻略の手間が少し省けたとも言える。
さて、三つ目の宝箱は。
「これは、ティトンさんの専売特許ですかね」
アーマーが反応しないよう、宝箱から十歩以上を置いて遠目に観察しながらコトワリが言った。
件の宝箱は、太い柱をくり抜いて作られた四角い窪みの中に嵌め込まれていた。宝箱の前面には、金属製のカラクリのようなものが取り付けられている。素手で上下左右に動かせそうな部品が複数見受けられることから、おそらくはパズル式の錠だろう。
仕掛けや罠の解除は、シーカーとして名が売れているティトンの十八番だ。とは言え、宝箱に近付かないことには解除もできない。ティトンは顎に手を当て、ムム、と唸った。
「見たところ単純そうだけど、一瞬でとはいかないかなぁ。どのくらい足止めできそう?」
「お前抜きで、か? 四人がかりなら、しばらくはもつだろうが」
ティトンに問われ、リビングアーマーをちらりと見やったクエルクスが眉間に皺を寄せる。
頑丈な鎧そのものが本体であるリビングアーマーは、白羽の五人にとって部が悪い相手だ。イロハの矢やアロのチャクラム、クエルクスの短剣の刃は通らない。コトワリの溶解・腐食系ポーションや、アロの状態変化スキルは通用するが、相手の大きさ故に大したダメージにはならない。唯一、アーマーの動きを大がかりに妨害できるのがティトンの刻印魔法だが、それでも致命傷には程遠い。そもそも命のないリビングアーマーを倒すためには、鎧を完全に破壊しなければならず、五人の武器やスキルでは不向きなのだ。
「ひとまずこの箱は保留にして、別の箱を探しましょうか? もっと開けやすい宝箱に金の鍵が入っていれば儲けものですし」
「それも一手だが、逆にこいつがアタリなら、他の箱を探すのも開けるのも手間と時間の無駄だ」
目を凝らして宝箱を睨みながら「ああしてこうして……」と頭の中で仕掛けを動かすティトンの後ろで、コトワリとクエルクスが意見を交わすが、どちらも仮定の話であるため平行線になりそうだ。
するとそこに、すっかり石像の上が定位置になったイロハから、有益な情報にして新たな悩みの種が投げ寄越される。
「あと二つの宝箱も見つけたぞ。どれから開けたい?」
「見つけたなら早く言え? で、どこにあるんだ」
「一つは俺の真上。もう一つは中央の扉の前……というか、アーマーの足下だな」
「あ゙?」
「はぇ?」
クエルクスの声が汚く濁り、コトワリの声が間抜けに裏返るのも無理はない。
イロハがついと顎を持ち上げ、人差し指で示した大広間の天井の中心には、逆さまに固定された小さな宝箱が一つ。
そして大広間入り口から見て真正面の扉の前にそそり立つ、五体の中でも最も厳めしく巨大なリビングアーマーの足下には、一抱えほどの宝箱が鎮座していた。
天井の宝箱は、蓋の上部に押下できそうな突起状の仕掛けがあるように見える。イロハが登っている石像から天井までの高さはクエルクス三人分以上ある。
このダンジョンの攻略難易度はC。宝箱を開けることはさほど難しくないはずだ。予想するに、投擲や魔法攻撃を利用して突起を押せば蓋が開き、中の鍵が落ちてくる仕組みだろう。だが、落下させた鍵を箱の中に戻す手段が無いため、動き出したアーマーを止めることもできなくなる。
そして扉の前の宝箱だ。恐らく、開けるだけなら何の道具も手順も要らない。ただし当然、近付くだけでリビングアーマーの攻撃射程内に入る。
要するに、三つの宝箱のどれを選ぼうと、リビングアーマーとの長期直接対決は避けられない。
「どれも開けたくないですよ……」
「いっそ全部同時に開けちゃうー?」
コトワリがぷるぷると首を左右に振れば、ナイスアイデアとばかりにアロが提案した。そのまま扉へ駆け出しかねないアロの襟を、クエルクスが再びふん捕まえる。
「馬鹿言え。面倒が増えるだけで、何一つ良いことがないだろうが」
「でもー、せーので扉を開けたら、缶詰以外のアイテムも一緒に手に入るかもしれませんよー?」
「あ゙あ゙? そんな都合のいい話が――」
こめかみに血管を浮かび上がらせたクエルクスの怒声が、急に尻すぼみになっていく。数秒間の沈黙。嫌な予感に襲われたコトワリが、助けを求めるようにイロハを見上げると、苦笑しながら肩をすくめられた。
クエルクスとコトワリが、申し合わせたように首を横に回せば、いつの間にやらこちらへ顔を向けていたティトンが、澄んだ青い瞳をきらきらと輝かせていた。
「もし、五つの扉を全部同時に開けたら、どうなると思う?」
このダンジョンの攻略方法には、定石がある。アタリの宝箱に近付く段階で二手に分かれ、一方がリビングアーマーをおびき寄せて扉から離している間に、もう一方が鍵を手に入れて扉を開けるという方法だ。
だがそれは当然、開ける扉が一つだけである場合の話。
「気になってたんだよね。このダンジョンは、やろうと思えば一人や二人でもクリアできる。それなのに五人以上のパーティー編成じゃないと挑めない。リビングアーマーの危険度を加味しているなら、ダンジョン自体の難易度を上げればいいのに」
宝箱の仕掛けから目は離さず、解錠手順を繰り返しシミュレートしながらティトンが言った。そこから三十歩ほど離れた場所では、開けっ放しの大きな宝箱との距離を慎重に測りつつ、コトワリが緊張で顔を強張らせている。
「五人以上でないと達成できない行動が想定されている、と?」
「試してみる価値はありそうだな。うまくすれば、五つの小部屋全部のアイテムが回収できるかも」
コトワリの頭上では、石像の上で腰を落としたイロハが、弓に矢をつがえながら大広間全体を監視している。その余裕のある声を耳にして。
「逆に、全部の扉が開かなくなる可能性も否定できないがな。その時には再挑戦だ。缶詰を手に入れるまで付き合わせてやるから覚悟しろよガキども!」
最奥の扉の前に立ち塞がる、剣を持ったアーマーを正面に見据えながら、ややキレ気味にクエルクスが宣言する。「はーい」「いいよー」「りょーかい」「分かりましたよ……」と、広間のそこかしこから四人の承諾が飛ぶ。
五つの扉を同時に開くには、リビングアーマーとの対峙を極力避けるため、五つの鍵の入手のタイミングをできる限り揃えなければならない。宝箱への接近から鍵の入手までに最も時間を要しそうなのは、ティトンが任されたカラクリ式の宝箱。だが、その解錠に取りかかるより先に、やっておくべきことがある。
「……見つけた。アロ、お前から見て一時の方角の壁際を移動中だ」
「まっかせてー!」
石像の上から放たれたイロハの指示に従い、青い羽根に似た服の裾を翻しながらアロが走り出す。六角形の部屋の隅をぴょこぴょこと行進しているのは、先ほどキャッチアンドリリースした十羽ほどのPIYOの群だ。伸ばしたアロの指先がPIYOたちに達する、その寸前。
入り口から見て右端、槌を持ったアーマーが動き出す。
「始めるぞ!」
決定的瞬間を見逃すことなく、イロハが叫んだ。その声を合図に、他の四人が一斉に行動を開始する。
「つーかまーえたー!」
PIYOたちを両腕で囲うように抱え込んだアロが、小さな木箱を見つけ出し、鉄色の鍵を再び手にした。対となるアーマーは、すでにアロへと狙いを定めて前進を始めている。
「待って待って、早いですってぇっ!」
迫り来る地響きのような足音に怯えながらコトワリが宝箱に飛びついて、底から赤銅色の鍵を拾い上げた。左から二番目の扉の前、斧を持ったアーマーが、コトワリがいる方向へと歩き出す。
「アロ、コトワリ、俺の足下へ!」
不安定な足場をものともせずに真上に向けて弓を構え、ギリリと弓弦を引き絞りながらイロハが呼びかける。鍵を握りしめて転がるように駆け寄ってくるコトワリと、今度はPIYOを置いて鍵だけ持って戻ってきたアロ、そして二人を目掛けて突撃してくる二体のアーマーの到達予想時間を見極めながら、イロハは天井の宝箱に狙いを定めて矢を放った。鋭い一線は蓋の突起に的中し、ぱかりと開いた箱の中から青銅色の鍵が落ちてくる。
ほぼ同時、イロハの号令で宝箱に組み付いてから休みなく動き続けていたティトンの手が、全ての仕掛けを動かし終えた。カチリと歯車が合ったような音がして、開け放った箱の中から銀色の鍵を取り出すが早いが、ティトンもまた、広間中央目掛けて走り出す。
ティトンの背後まで迫ってきていたのは、右から二番目の扉を守っていた槍のアーマー。そしてイロハが鍵を受け止めたタイミングで覚醒したのは、左端、槌矛を手にしたアーマーだ。消去法により、中央の扉の前にある宝箱の中身が金色の鍵ということになる。
これで全ての鍵と扉の組み合わせが明らかになった。
「揃ったよ! 僕の銀色が右から二番目!」
「俺の青銅色が右端だ!」
「僕の赤銅色が左から二番目、アロさんの鉄色が左端です! クエルさん、早く!」
鍵を高々と掲げ見せ、ティトンとイロハ、コトワリが順に報告し合う。
四人と四つの鍵、そして四体のリビングアーマーが広間中央に集いつつあるこの瞬間、クエルクスは剣のリビングアーマーとの一騎打ちの最中だった。右手に短剣、左手には脱いだコート。スキルの効果を付与した二つの「盾」を構え、小虫を払うかのように剣を振り回すアーマーの攻撃を避けては弾き、いなして受け流す。耳障りな金属音とともに火花が散って薄闇に弾ける。
敵の一撃は重いが軌道は単純だ。真上から振り下ろされた剣をコートで受けつつ衝撃を逃がし、そのまま身を回転させてアーマーの足の関節部に短剣の刃を叩き込んだ。巨体がぐらりと傾いた隙に宝箱をアーマーの攻撃圏外へと思い切り蹴り飛ばし、自身もコートを投げ打って走り出す。彼の足を薙ぎ払うように襲ってきた剣を跳躍して避け、宝箱の脇へ着地すると、横倒しになった箱の中から金色の鍵を取り出して左手に握った。すかさず猛然と駆け出しながら、吠えるように叫ぶ。
「行くぞ、備えろ!」
その時すでに、アロとコトワリ、ティトン、そして床へ降りたイロハの四人は、あたかも石像を守るように囲んで円陣を組み、各々目掛けて襲い来るリビングアーマーを待ち構えていた。
クエルクスに先んじて辿り着いた合計四体のリビングアーマーが、ほぼ同時に攻撃を仕掛けてくるよりも、ほんの一瞬だけ早く。
「来ないでくださいっ!」
「チェーンジ、砂利《グラベル》!」
白羽の迎撃作戦が始まった。
コトワリが思い切り投げつけたスプラッシュポーションの水風船が、斧のアーマーの胸に直撃して弾け飛び、爆風でアーマーを大きく仰け反らせる。
さらに、その脇にしゃがみ込んだアロが両手で触れた周辺の石床が一瞬で砂場と化し、その上にいた槌のアーマーが足を取られてバランスを崩した。
その騒動の間隙を縫って、イロハの矢が立て続けに放たれる。矢は狙い違わず槌矛のアーマー、そしてティトンを追ってきた槍のアーマーの関節部の隙間に突き刺さり、動きを確実に鈍化させた。
四体の足止めを三人に託し、床すれすれに槌を構えたティトンが、アーマーの足の間をすばしこく擦り抜けて走り回りながら、色鮮やかな光の刻印を石の床に押していく。
「ブルー・ワン、ブルー・ツー、グリーン・ワン……」
三つ目の印を押し終えるのと同時、滑り込んできたクエルクスが槌矛のアーマーの股下をくぐり抜けて合流した。五人は瞬時に目線を交し合う。
「セット!」
ティトンの声と、三角形を描いて青緑色に発光するラインの完成が合図。
五人は各々が持っていた鍵を一斉に投げ合って交換すると、アーマーの攻撃を掻い潜って包囲網を抜け出し、受け取った鍵に対応する扉目掛けて勢いよく駆け出した。
襲撃対象が入れ替わったことで急に体の向きを変える羽目になった五体のアーマーが、勢い余ってぶつかり合い、大きくよろめく。それでも五人を追いかけようと体勢を立て直すアーマーたちを。
「トリガー!」
全力で走りながらティトンが発動した、水流と風による巨大な竜巻が襲った。
――五体のアーマーを同時に扉から引き離し、広間の中央にできるだけ長く引き留める。これこそ五人が導き出した、このダンジョンの新たな攻略法。
天井にまで達して渦を巻く水と風がアーマーを巻き込んで響かせる轟音を背中に聞きながら、五人はほぼ同時に五つの扉へ辿り着くと、五色の鍵をそれぞれ錠の穴に差し込んだ。だが鍵は回さず、そのまま全員が背後を振り返る。距離があるため互いの表情は見えないが、頷き合うのは確認できた。
重要なのはタイミングを揃えること。これだけ広い空間では、声を掛け合っても音の速さの影響で時間差が生じてしまう。故に。
「イエロー・ワン、トリガー!」
ティトンの一声が、予め床に押しておいた黄色の刻印を発動させる。
真上へと一直線に迸った雷撃が天井に達するのが見えた、その瞬間に息を揃えて、五人はそれぞれの鍵を回した。
キィン、と、音叉のような高く澄んだ音。
五つの鍵穴から白く眩い光が漏れ出したかと思うと、それはたちまち溢れ出して大広間を埋め尽くし、世界を真っ白に染め上げた。
白い光が収まったあと、目を庇っていた五人は、そろそろと瞼を開いた。
竜巻は余韻と微かな飛沫だけを置き去りに霧散している。五体のリビングアーマーも、竜巻に攫われたかのように忽然と姿を消え失せていた。
このダンジョンでは、扉を一つ開けると、対をなすリビングアーマーと、残る四つの扉に対応する鍵が消滅する。よってリビングアーマーが消えたのは想定通り。試したかったのは、五つの鍵を同時に回すことで、五つの扉がどうなるか。
扉は全て、消えていた。五人が握りしめていた五色の鍵も、感触だけを手の中に残して無くなっている。
アーチ型の枠だけになった穴の先は、五人同時に入るには窮屈な六角形の小部屋に繋がっており、その床の上には、五部屋それぞれに錠のない宝箱が置かれているのが見えた。
「うまくいった、みたいだな」
大きく肩を上下させて息を吐いてから、クエルクスは満足そうな笑みを浮かべた。
「わーい、宝箱だー。開けてみよー」
「じゃあ僕はこっちの宝箱! 何が出るかな、ジャガイモ入ってるかなぁ?」
「ちょ、ちょっと待ってください! これも同時に開けた方がいいんじゃないですか? というか軽率すぎやしませんか? トラップかもしれないですよ? 僕はもう疲れたんで例え誰かが怪我をしても治療しませんからね。そもそもここまで苦労してクズアイテムしか出てこなかったらどうしてくれるんですか、好奇心旺盛は結構ですけど人を巻き込むにも限度があるんですよ、揃って冒険馬鹿なんですからまったくもう!」
早速無邪気に部屋に駆け込んでいくアロとティトンの声を聞きつけ、コトワリが大声かつ早口で毒を撒き散らす。今回はハロを使い切るほどの精製はしていないはずだが、極度の緊張と恐怖にさらされたことで感情の制御のネジが吹っ飛んでしまったのだろう。
制止された二人が「えー」「そっかー」と踏みとどまり、実は早くも宝箱の蓋に手を掛けていたクエルクスもピタリと動きをとめたところに、広間の中央付近に戻ってきたイロハから声が掛けられる。
「トラップではなさそうだが……みんな、ちょっとこっち来てみろよ」
面白がるような口ぶりに、四人は目の前の宝箱はお預けにして、なんだなんだとイロハの元に集う。その途中で、全員が気付いた。
竜巻が消え、五体のリビングアーマーが消えた場所には、もう一つ、確かに存在していたのに今は消えているものがある。イロハが見張り台に利用していた、鷲を象った石像だ。
そしてその代わりのように、石像の土台があった場所――大広間の中心部に当たる床には、長方形の両開き扉が姿を現わしていた。
五人は扉の周囲に集まって床に膝を突き、身を乗り出して真上から扉を観察する。
「これは、地下室か?」
「五つの扉を同時に開けたときだけ出現する、とか?」
クエルクスの呟きにティトンが推測で応じた。五人で肩を組んだ円陣の中に収まりそうな大きさの扉は、どちらかと言えば窓のようだ。錠も仕掛けも無い。
「それこそ罠かもしれません。魔獣が飛び出してくる可能性も考慮して慎重に――」
「分かった、開けてみよー」
「なんでですかぁぁぁ!」
コトワリの進言も虚しく、アロが躊躇いなく手を伸ばし、二つの取っ手を掴んで引いた。抵抗なく扉は開き、ぽっかりとできた四角い穴を覗き込めば。
そこは空の中だった。
正確には、高い高い上空に浮かぶ雲の上から、地上を見下ろしたような絶景が覗いているのだ。眼下には綿雲が流れていき、扉から広間の中へと冷たい空気が流れ込んでくる。
雲のさらに下に見えるのは円形に近い半島だ。島の面積の大半は青々と茂る樹冠に覆われ、ところどころから塔のような建物が突き出している。樹冠は島の内周すれすれをぐるりと白壁に囲まれ、さらに、島の周囲は青々と輝く海に包囲されている。半島から陸地へと続いているだろう、細い道の先は見えなかった。
「エデンだ」
目を瞬かせ、イロハが呆然と呟いた。
彼が毎朝、日課として千里眼で「視る」、遙か上空からの視点で見下ろすこの世界の姿と全く同じ。
エデンのスキル保持者には飛行能力を持つものも少数存在するが、飛行高度はたかが知れており、この高度からの景色を目にしたことがある人物を、イロハは自分の他に誰も知らなかった。
「これがエデンだと? このダンジョンがエデンの上空に浮いているとでも?」
「それは分からん。ただ、地上から空を見上げたとき、こんな建造物が浮かんでいたらさすがに誰かが気付くはずだ。空間がねじ曲がっているのかもしれないな」
「じゃあ、ここから落ちても平気なのかなー?」
「わあああああぁぁぁぁぁっ!」
その場で軽く跳躍し、今にも四角い穴の中に飛び込みそうなアロを、四人が慌てて押さえ込んで事なきを得る。心臓をバクバクさせながら、コトワリはおっかなびっくり首を伸ばして扉の中を覗き込んだ。
「ではこの扉は、五つの扉を同時に開けたときにだけ見つけられる絶景スポット、ということですか?」
「確かに、イロハでなけりゃそうそう拝めない風景だろうが……特殊ルート攻略の褒美にしてはシケてるな」
不服そうにクエルクスが舌を打ち、まぁまぁ、とイロハが宥める。
「褒美はごっそり手に入れられそうだから、いいんじゃないか? そもそもの目的は缶詰だったろ」
「そうだった! さっさとアイテムを回収して帰るぞ、ガキども!」
「はーい。ドーナツとか入ってるといいなー」
「それは入っていたらダメでしょう……。ティトンさん、気が済んだら行きますよ?」
四人がぞろぞろと立ち上がる中、一人動こうとしないティトンに気付き、コトワリが何気なく声を掛ける。
床にべったりと腹ばいになり、初めて目にするエデンの全容を――四角い枠の中にすっぽりと収まってしまう小さな世界をその目に焼き付けながら、ティトンは誰にともなく呟いた。
「なんだか、箱庭みたいだね」
Fin.
【エデン】隠れ家ごはん - 淡島かりす
2026/08/17 (Mon) 16:33:06
アロは一人で自由に歩き回っていることが多い。非常にマイペースなので気付いたら一人になっているとでも言うべきか。白羽は基本的に個人行動を容認しているので問題はない。
「こんにちはー」
人懐こくて裏表のない性格、悪く言えば人の機微に疎い。しかしその性格ゆえに色々なところに知り合いがいる。今、ハビラにある噴水広場で話しかけたのも、そんな知り合いの一人だった。
「こんにちは、アロくん」
「ここに居るの珍しいですねー」
「たまに居ますよ。この格好でいるのは珍しいかもしれないですね」
相手はそう言って小さく笑ったようだった。灰色の丈の長いローブを着て、フードを深く被っているので表情は良く見えない。アロより背が高いのにあまりそう見えないのは物腰のせいと思われた。
「アロくんはお食事は済みましたか?」
「まだですよー。ご飯何にしようかなって」
「もしよければ、割引券ありますよ」
どうぞ、と相手は割引券を差し出してきた。鮮やかな色をした割引券には店の名前が書かれているがデザイン性が高すぎて読めない。
「オススメです」
「わー、ありがとうございますー。どこにあるんですかー?」
「ペンシル通りを抜けたところですよ」
ペンシル通りというのはハビラの一角にある細い通りのことである。人がすれ違うのが精一杯の幅しかない。
「そんなところにご飯屋さんありましたっけー?」
「少し分かりづらいところにあるんですよ。まずペンシル通りに入ります」
「うん」
「そうしたら後ろ向きに歩いて一度通りから出てください」
「出ちゃうんですか?」
「えぇ、後ろ向きですよ。そのあと、早足で通りを抜けると辿り着きます」
妙な道順だった。アロは理由を尋ねようか悩んだが、相手のフードの下から見えている口元が優しく微笑んでいるのを見てやめた。
「美味しいですかー?」
「僕は好きですよ」
「わかりましたー、行ってみますね」
言われた通りの道順でペンシル通りを抜けると、そこには小さな店があった。全体的に赤い装飾を施され、紐で作られた細工が天井や壁に下がっている。
油の匂いと香辛料の匂いが混じりあった空気が流れていて、直感的に美味しいことを感じさせた。
「いらっしゃいませー、カウンターのお好きな席にどうぞー」
壁沿いのカウンター席に座り、すぐ近くの壁に掛けられた黒板を見る。ランチセットがオススメらしいが、書かれている料理名は一部擦れてしまって読みにくい。
「うーん?」
少し悩んだものの、黒板の右下に可愛らしいエビの絵が描かれているのを見つけると顔を輝かせる。島育ちのアロは海産物が好きだった。
「ランチセットください」
「はーい、ランチセットー!」
暫くして四角いトレイに乗せられたランチセットが運ばれてきた。中央の丸い皿の上には赤いソースが絡んだエビ料理。湯気の立つ白米が入った椀と卵スープの椀が左右に。右上に置かれた小鉢には白いプリンのようなものがある。
「お待たせしました。ランチセットのボイルシュリンプの甘辛ソース炒めです」
「ありがとうございますー」
わーい、とアロはまず中央に座する料理にスプーンを差し込んだ。ボイルされた小さいエビにソースが絡んでいる。粘り気のある赤いソースはトマトか何かを使っているようだった。アロはそれを一口食べると、すぐに白米をかきこんだ。
甘辛ソースと言っていたが、酸味のほうが強い。それがボイルされたエビの食感もあいまって絶妙な旨味を出している。
「これ美味しいなー。作り方教えて貰えないかなー」
白米が進む。たまにスープを挟みつつ食べ進めていると、不意に後ろの席の会話が聞こえてきた。店に来た時は空席だったので後から来た客だと思われた。
「だからね、これって世界共通じゃないわけよ」
「別にそれはいいんじゃないか? ほら、世界観の設定としてもさ」
「でもあまりこの国贔屓だとバランスが悪いから、表記名は変えないと」
「あの絵じゃすぐわかるだろ。じゃがいもと人参と玉ねぎを煮込んで香辛料で味付けしたものなんて」
「だから名前をね、何となく汎用的なものにしたらいいと思うの。『スパイス煮込み』とか」
「汎用的か?」
「要は見た目と特性にフォーカスすればいいわけ。これだって肉団子でしょ。肉団子に豆乗ってる料理」
「じゃあこれは?」
「それはお粥でいいでしょ。リゾットだと何か変だし」
「適当だな。いや、でも確かにリゾットはあるもんな……」
その後、客が何人か入ってきて騒がしくなったため、会話は聞き取れなくなった。アロは特に気にもとめずに食事を進める。あっという間に白米を平らげてしまうと、白いプリンのようなものに手を伸ばした。
「アーモンド……ミルクプリンかな?」
味からそう判断する。これも美味しかった。値段やボリューム、それに味を考えるとお得と言う他ない。
大満足で食事を終えたアロは、伝票と割引券を持って入口に向かった。店員が愛想良く伝票を受け取り値段を告げる。
「これでお願いしますー」
「はい、お釣りをお出ししますね」
その間にアロは何となく自分が座っていたあたりを見たが、後ろで話していた客らしき姿は無かった。というよりアロの後ろは配膳用の大きな銀色のワゴンが置かれているため、客が入る余裕などない。
「お待たせしました。こちらお釣りと……」
「あ、はい」
「PIYOです」
反射的に差し出した手に、釣り銭とPIYOが置かれた。半球状の帽子を被った赤いPIYOは、アロの手のひらの上で小さな翼を広げた。
「……あれー?」
ふと気がつくとアロはペンシル通りにいた。辺りを見回すが、あの店は見当たらない。だが口の中には食べたばかりの食事の味が残っていたし、満腹感もある。手の中の小銭も自分がきちんと食事をしたことを物語っていた。
「変なの」
純粋な感想だけ口にして歩き出す。アロはあまり細かいことは気にしない。あの店からは嫌な感じもしなかったし、自分に対して危害を加えるような存在でないことを、生まれ持った勘で理解していた。
「あ、割引券!」
小銭と一緒に割引券が握られているのに気がついた。店の名前を確認するのを忘れたため、やはり何と書いてあるかはわからなかった。
「また行こーっと」
足取り軽く帰路につく。アロは店の中で聞いた会話を忘れてしまっていたが、覚えていたところで、その会話に疑問を抱くことはない。アロにとってはこの世界は毎日色々なことが起こるため、一つ一つにじっくり向き合う余裕はなく、一つ一つを楽しみたいという欲の前では多少の疑問は弾き飛ばされる。
「アーモンドミルクプリンの作り方誰か知ってるかなぁ」
とりあえず、アロの目下の関心は美味しいデザートのレシピだった。
【エデン】餌付け禁止! - 淡島かりす
2026/08/13 (Thu) 15:12:32
開けられた缶詰にPIYOが群がっていた。ピヨピヨ鳴きながら、中に入っている豆をつついている。クエルクスはそれを見ながら、ナイフに砥石を当てていた。
「それ食い終わったら、仕事しろよ」
PIYOたちは返事をしない。一心不乱に豆を食べている。クエルクスは溜息を着いて上を見上げる。そこには丸く切り取られた空間と、そこに重なる月が見えた。
「早く帰らないと、あいつらが煩いんだがな……」
クエルクスがいるのは井戸の底だった。右手には横穴があって、冷えた空気がそこから流れ出ている。一見するとただの枯れ果てた井戸だが、その穴の奥には金色に輝くダンジョンが見える。まるで井戸を掘っていたらうっかり豪奢な家の地下室にぶち当たってしまいました、とでも言いたげな光景だった。
金色に輝いているのは移動式ダンジョンと呼ばれる物である。定期的に入口を変えて決まった範囲を転々とする。その時間のその入口からしか入れない区画などもあり、攻略には時間がかかる。
今回、クエルクスは別の入口から入ったわけだが、中を探索しているうちにダンジョンが移動したために元の出入口を使えなくなった。すぐに別の出入口を見つけて喜んだのも束の間、そこには外に出るための手段が失われていた。
「なんで寄りにもよって、こんなところが崩れるんだ?」
崩れ落ちた井戸の壁を見て呟く。本来ならそこに、足を引っ掛けて登るための窪みが並んでいるはずだった。しかし何らかの理由で壊れてしまっている。
クエルクスがここに来た時、そこには既にPIYOがいたため、すぐに直して貰えるものだと思っていたが、どういうわけか全く仕事に取り掛からなかった。よくよく見ると全羽とも腹を空かせているらしく、「ピヨォ」と弱々しい声を出してぐったりしていた。
仕方がないので手持ちの缶詰を一つ献上したのが先程のことである。だんだら染めの煮豆、というよくわからない缶詰がこんな形で役に立つとはクエルクスも思っていなかった。
「こんなことなら誰か連れてくればよかったな」
この場合、誰かと言っても適合者は限られる。少なくともはしゃいでどんどん先に行ってしまいそうな青髪とピンク髪ではない。否、あの二人なら運と勢いだけで別の出入口を見つけてくれそうではあるが。
生憎とクエルクスは運任せという行為にそれほど信頼を置いていなかった。この移動式ダンジョンにはまだ謎が多い。最初に使った出入口は比較的安全とされているが、またそこを使えるようになるには丸一日かかる。中に戻って一日流離うよりは、ここでPIYOの腹が膨れるのを待つのが堅実というものだった。
「俺も腹ごしらえするか」
ナイフを研ぐのも終わったため、それをしまい込んで、代わりに別の缶詰を出す。手のひらと同じくらいの大きさの四角い缶詰だった。するとPIYOたちが豆を咥えたままクエルクスを振り向いた。
「あー、やらんからな。お前らにはその豆で十分だ。というかそれも俺のだが?」
PIYOたちは残念そうにしながら、また豆を食べ始める。そもそもPIYOという生き物はあまり食べ物を必要としない筈である。食べないというわけではないが、空腹という状態を見たことがない。それこそ先程までの様子はかなり珍しいとも言えた。
「腹を減らす原因でもあるのか?」
独り言として呟くが、勿論誰も答えない。仕方ないのでその答え代わりのように缶切りで缶詰を開ける。すると井戸の中に香ばしい香りが一気に充満した。
「ふん。高いだけあっていい仕事をしてる」
四角い缶の中には一口サイズの肉団子がいくつか入っていた。味のついた挽肉を円柱型に丸め、それぞれ周りとくっつかないように小麦粉で出来た皮で包まれている。何かのトレードマークなのか肉団子の上には緑色の豆が埋め込まれていた。
めくれ上がった蓋の裏には細い導火線がついていて、既に黒く焦げていた。缶はまるで火から取り出したばかりのように熱い。
瞬熱技法、というややふざけた名前のついた新種の缶詰は、開けた途端に導火線を使い缶の底に仕込まれた火薬に着火するという代物だった。『雪の降るダンジョンであつあつの食事を』という触れ込みだったが、流行るかどうかは怪しいものである。因みに白羽の場合はティトンかアロかコトワリがいれば火は操れるため、雪山でも暖かい食事にありつける。コトワリが吹雪で吹き飛ばされていない限りは。
缶の中に一緒に入っていた小さな串を手に取る。ややべとついたそれで肉団子の一つを刺して口へと運んだ。
「……悪くないな」
少しパサついているが、これ以上肉に脂身を足すと今度は熱した途端に形が崩れてしまう。欲を言うなら胡椒をもう少し効かせてほしいが、それでも十分な品質だった。
一つ、二つと食べ進めていると、いつの間にかPIYOたちが膝元に集まっていた。口から涎を垂らさんばかりに、期待に満ちた眼差しをクエルクスに向けている。
「豆やっただろうが。あれじゃ不満か?」
だんだら染めの煮豆の味を知らないため、一応不満かどうかを尋ねてみる。PIYOたちはそれには応じないまま、甘えるように嘴でクエルクスの膝を何度かつついた。痛くは無いがこそばゆい。振り払おうとしたクエルクスだったが、ふと思い直した。
「そんなに欲しいのか?」
尋ねてみると、PIYOたちは小さな羽を羽ばたかせるようにして飛び跳ねた。この肉団子がよほど気になるのだろう。PIYOが暖かいものを食べるのかは知らないが本鳥達が欲しがっているのだから問題は無いはずである。PIYOはただのヒヨコではない。
「なら取引だ」
人差し指を立てて、PIYOたちに告げる。
「俺は今すぐここから出たい。そのためにはお前らに仕事をしてもらわないと困る。つまり壁の修繕だ」
PIYOは「ふんふん」というように頷く。
「まず半分だけやる。お前らがきちんと修繕出来たら、もう半分やる。これでどうだ?」
PIYOたちは同意するように口々にピヨピヨと鳴いた。意思疎通ができるヒヨコは便利である。串で半分に切った肉団子を与えると、PIYOはそれを奪い合うようにして体の中に収めたあと、今度は競うようにして壁の修繕に取り掛かった。
「……使えるかもな、この手」
爆速で進められていく修理の様子を眺めつつ、クエルクスは肉団子を口の中に放り込んだ。
「そういえばキンキラキンの移動式ダンジョンわかる?」
「知ってるー。あそこにおっきいPIYOいるから見に行きたいんだよねー」
「それがどうやら、PIYOが冒険者たちに餌をねだった結果のようで……。要するに皆太ったPIYOですね」
「誰かが餌付けしたんだろうな。誰かが」
「……あいつらには美味すぎたか」
【エデン】ランチタイムの試練 - 淡島かりす
2026/07/31 (Fri) 20:03:58
このところハビラの一角にある飲食店「オブリーク」は、決まった日になると緊張が走るようになっていた。その日は朝から店長も店員も愛想の良い笑顔や何気ない雑談の影に一片の緊張感を拭いきれず、それぞれどこかぎこちなく食材を切ったり皿を拭ったりしていた。
「店長」
店員の一人が黒板とチョークを手に店長に話しかける。
「日替わりランチ、いつも通りでいいですか」
「あぁ」
店長はなるべく落ち着いた声を出そうとしたが、若干語尾が震えた。
日替わりランチにはルーティンがある。毎日毎日新しいものを作るのは不可能なため、五日毎や十日毎に必ず出てくるメニューというものがいくつか存在する。今日のもそのうちの一つだった。
「今日も来ますかね」
メニューを書きながら店員が言う。
「来るだろう。このところ毎回だ」
「来ると店の中がピリッとするんで嫌なんですよ」
「お客様にそんなことを言うもんじゃない。それにあのお客様は貴重な経験を与えてくれるからな」
「それはわかっているんですけど……。あの人、満足することあるんですかね?」
「それはこちら次第だろうな」
看板を外に出し、扉にかかっている札をひっくり返して開店したことを知らせる。それから暫くして、ドアについた鈴を元気よく鳴らして一人の客が入ってきた。
途端に店の中に、店員が言うところの「ピリッ」とした空気が流れる。しかし客はお構い無しに、店長からの挨拶に応じつつ、いつも座っている窓際の席に腰を下ろした。店員はメニュー表を形ばかり脇に抱え、水を入れたグラスを持っていった。
「いらっしゃいませ。ご注文お決まりになりましたら……」
「日替わりランチ」
間髪入れず客はそう言った。
「日替わりランチの、『じゃがいもゴロゴロスパイス煮込み』を下さい! 飲み物はコーンティーで!」
青い髪の小柄な冒険者の瞳は期待で輝いていた。その首にある大きな二重円のハロのように。
店員は接客用の笑顔を浮かべて一度そこを離れると、段々早足になりながら厨房の中に飛び込んだ。小さい店なので厨房と言ってもカーテン一枚隔てただけである。そのため興奮気味に発した声は小さく抑え込まれていた。
「日替わりランチ一つです」
「よし、今日こそは……!」
その客が現れたのはしばらく前のことだった。テンション高く店に入ってきて、さっきのように日替わりランチを頼んだ。それからと言うものの、毎回「じゃがいもゴロゴロスパイス煮込み」の日だけ狙ってやってくる。
別に誰かに迷惑をかけたり、長く居座る訳でもない。一人で食事をして、きちんと礼を述べて帰っていく。ではその客の何が店を脅かしているかと言うと。
「今日こそは美味しいと思わせるぞ!」
「はい!」
声量を抑えた意気込みが厨房の床に落ちる。
明確に「美味しくない」と言われたことは無い。寧ろ帰り際には「美味しかったです。ご馳走様」とまで言ってくれる。だが明らかに店に入ってきた時よりテンション低く帰っていくのが常だった。美味しいけど、少し物足りない。そんな雰囲気が感じ取れる。
一番最初に来た時はそれが顕著だった。スパイス煮込みを見るなり、少し悲しそうな顔をしたのを店長は覚えている。巣に戻ったら巣が無くなっていた狸のようだった。
何度かの来店で、その客がじゃがいもをこよなく求めていることがわかった。そして最初の悲しそうな顔の理由も。あの日のスパイス煮込みはじゃがいもが半分溶けてしまっていた。
「あれからじゃがいもゴロゴロスパイス煮込み、色々試行錯誤しましたからね」
「あぁ。丸ごと入れてみたり、切れ込みを入れてみたり、いくつか種類を混在させてみたり、本当に色々試した。試したのに、あのお客様を真の意味で満足させることはできなかった……」
店長は「クッ」と悔しそうに唇を噛む。因みに丸ごと入れた時は、中まで火が通っていなかったので流石に交換を求められた。
「素揚げにしたり塩漬けプラムと煮込んでみたり色々やりましたけど、あのお客様は「ゴロゴロ」感をお求めみたいですしね」
「その通り。しかし今回こそは自信がある」
店長は大鍋の中のスパイス煮込みを皿によそった。胃を刺激する匂いに、赤茶色のペースト。人参とじゃがいもと玉ねぎがその中に入っている。大きく切られたそれらの具材は、朝から煮込まれているのに全くその形を崩していなかった。
「見ろ、成功だ」
「おぉ、流石店長。これ何したんでしたっけ」
「沸騰したお湯に具材を放り込み、火を止めて放置しただけだ。情報屋に高い金を払った甲斐があった……」
感慨深く天井を仰ぎ見る店長から、店員は皿を勝手に奪い取る。
「出してきますね」
「俺も行こう」
「店長まで来たら変ですよ」
「変では無いだろう。店長なのだから」
「確かにそれもそうですね」
「待ってください、私も確認したいです」
「僕も」
結局全員で厨房を出て、店員はそのまま客の方へ。他の面々はテーブルのセッティングをする振りをする。
「お待たせしました。スパイス煮込みです」
「ありがとうございます」
何か小難しい本を読んでいた客は、それを閉じてテーブルの隅に置いた。そして目の前に置かれたスパイス煮込みを見て、目を輝かせる。少なくとも見た目は彼の眼鏡にかなったようだった。
スプーンを手に取り、まずじゃがいもをすくい上げた。煮崩れしていないのを確認するようにまじまじと見つめた後に口の中に入れる。店内にはますます緊張が走った。彼の数回の咀嚼が永遠にも感じられた。
「わぁ」
吐息を絞るような声だったが、確かにそう聞こえた。それからは客は淡々と、しかし加速するようにスプーンを動かし続けて、あっという間にスパイス煮込みも添えたパンも平らげた。
そして暫くコーンティーをゆっくり飲んで一休みしたあと、「ご馳走様でしたぁ」と言って立ち上がる。振り返った顔は満面の笑みだった。明らかに来た時より上機嫌になっているのを見た店の者は内心で喜びの拳を固める。
「お会計ですね」
店長が喜色をなんとか営業用スマイルの奥に隠して、支払いの額を告げる。客はいつもと同じように釣り銭の出ないように支払いを済ませた。
「美味しかったです。ご馳走様」
いつもの言葉も今日は感情がふんだんに詰め込まれているような気がした。
「またお越しください」
店長がそう言うと、不意に客の視線が動いた。向けられた先には壁に貼られたおすすめメニュー。そこに書かれた文字を、本当になんとなくといった風に客は口にした。
「……季節の蒸し煮」
客はそのまま店を出ていく。しかし店の中は喜び半分、緊張の空気が残った。
「店長、やりましたよ!」
「ついにあのお客様の舌を満足させられましたね!」
「あぁ、ありがとうみんな。だが、さっきの言葉を聞いたか? 彼は……今度は季節の蒸し煮を狙ってくるだろう」
ベーコンで出汁を取ったスープで、じゃがいもなどを蒸し煮にした料理。名称そのままである。調理時間が短いので人気も高い。
「同じ方法で煮込めばいいのでは?」
「いや、今度はスパイス煮込みとは違って素材の味が前面に押し出される。じゃがいもだけが目立つようなことはあってはならない」
「では……もしかして」
全員が息を飲む。店長は深く頷いた。
「今日からまた味の研究だ」
「おぉぉおおお!!」
彼らは知らない。
あの客がティトン・ディグダグという無類のじゃがいも好きであることを。そして彼には別にこの店の味付けには何も文句もないことを。最初の煮崩れしたじゃがいもに少し落ち込んだのは事実だが、物足りなさそうなのは単に量の問題で、今日は多かったから満足したことを。
毎回店に来る度に「このお店美味しいんだけど、空気がピリッとしてるのはなんでだろう。スパイス煮込みだから?」と疑問に感じていることを。
「目指せ! 究極の蒸し煮!」
「イエス! ポテト!」
そして、やがてこの店がじゃがいも料理専門店になってしまうことなど、今の彼らには当然知る術もなかった。
【エデン】「猫に小判、鈍感に嫉妬」 - あさぎそーご
2026/06/13 (Sat) 19:32:22
お題「かばん」の加筆バージョンです
元の文章も所々修正しましたが、キャラの言動に違和感などございましたらお知らせ頂ければ幸いですー!
*******
エデンは大樹を中心に構成された大型都市だ。
それなりに広大な上、所々空間が歪んでいる影響で迷子になる者も少なくない。
しかし慣れたら散策は苦にならないだろう。壊滅的な方向音痴や、類稀なる不運の持ち主でなければ。
というのも、エデンはいくつかの地区に分かれており、それぞれ定められた色に染まっているからだ。
例えばエデンの入り口にあたるクシュは緑、商業地区ハビラは赤、といった具合に。加えて地区ごとに大まかな役割があるのも特徴で、一度覚えてしまえば困ることはない。
白を基調としたフロアが連なるオフィルは、クランに関連する施設が点在する。
エデンの住民登録や、自分専用の空間《へや》貸し出しなど、役所のような役割を持つ管理局をはじめ。冒険者関連のあれこれを担うクラン会館など、大きな施設も多い。
中でも一番人が多く出入りするのは、ルームサークル……クランルームに繋がる扉が並んでいるフロアだ。
いくつもの円状の廊下が大樹の枝を囲う不思議な空間で、それぞれが階段や通路で繋がっている。フロアの壁に張り付いた沢山の扉の先は当然異空間になっており、外観と内装の容量は釣り合わない。
オフィルでの戦闘行為は禁止されているし、クランによっては部屋への立ち入り制限がかかっている。他にも、礼儀として部外者の出入りが遠慮されたりと、それなりに規律はあるものの、基本的には自由な空間である。
その沢山のうちの一つ。猫型の看板を掲げた灰色の扉を潜った先が、白羽専用のクランルームだ。
白羽の部屋は入ってすぐが森に囲まれた円形の草原になっており、季節や時刻で様相が変わる。
部屋の範囲は半径五十メートルくらい、うち草原は三分の二程度だろうか?
草原の中間左端に一軒家、右側に庭、奥には泉と盟主の畑(趣味)があり、各々自由に過ごすことができる。
一軒家の一階は玄関、風呂トイレキッチンリビング、一番奥に盟主の部屋と縁側。二階は客室と個室で、イロハ、クエルクス、コトワリがそれぞれ一部屋ずつ使っている上に、三部屋ほどあまりが存在し、アロも時々泊まりに来ていた。なお、残るティトンは屋根裏に巣を作っている。
さて、白羽一軒家の一階。
リビングの脇にある棚の中には、コトワリが宿代として制作したポーションがしまってある。クラン員が好きに持ち出し使えるよう、いつもなら基本的な回復薬三種類が整然と並んでいるはずが……
「ない……一個もない!」
ティトンが愕然としているように、現在、棚は見事に空だった。
これからダンジョンに潜ろうというティトンには死活問題。棚の前で呆然とする彼の背中に、リビングに入ってきたクエルクスが声をかける。
「あー、アイツここ数日帰ってないからな」
一目で問題を察した彼の言う通り、コトワリが帰らない日が続いた時には、ポーション切れになることも少なくない。
「そうなの? 僕、五日くらいダンジョンに入り浸りで、ここには補給と仮眠に来てるだけだったから気付かなかった……」
ティトンは帰らぬコトワリがなにをしてるかは知らなかったが、雑貨店の経営に関する何かがあるのだろうと思っていた。
「どうしよう! 困るよ……またすぐにダンジョンに戻らなきゃいけないのに。みんなコトワリの居場所知らない? 店にいるかな?」
「さぁ……あー、だが、昨日は店も閉まってたな」
クエルクスの答えにぐぬぬ、と唸ったティトンは、ソファに座るイロハにも助けを求める。
「確かに店にはいない。探してもいいけど、まあ……盟主が会議でいないから……」
「確かに」
「え……それがコトワリがいないのと関係あるの?」
ぼんやりな回答にティトンの眉が傾くも、二人は更に曖昧に繋げた。
「関係あるのかは知らん。ただ、盟主が会議の時には居ないことが多い気がするってだけだ」
「盟主がいても、いない時もあるし。プライベートな用事かもしれないから……」
「コトワリさんならオンナノヒトと歩いてましたよー?」
どこからともなく会話に混ざったアロの発言で、三人の目が丸くなる。
「女……ああ、仕事仲間か? 商人かなんかだろ」
「常連のお婆さんとか」
「えー? でもなんか可愛い人とイチャイチャしてましたけどー」
淡々としたクエルクスとイロハの憶測を潰すアロの発言で、場の空気が凍った。
「え……それって詐欺とかじゃ……」
「こ……コトワリ……とうとうハニートラップに?!」
「おいガキ共、物騒なこと言ってんな。本当にアイツの女だったら………それはそれで胸糞悪いな?」
「みんな酷いー、言いつけちゃおっかなー?」
冗談交じりにアロが笑うも、不思議な空気は収まらない。どころか加速した。
「だって! 数日帰ってないんでしよ? 僕達のこと放ってオンナノヒトと遊んでるだなんて! 浮気だ! コトワリの馬鹿!」
「う……浮気……」
ダンジョンハイなティトンの叫びで、我に返ったイロハが狼狽える。ダンジョンハイとは、ダンジョン好きのティトンがダンジョンにのめり込んだ時に時々陥る謎のテンションのことで、このように謎理論が展開されるがあまり実害はない。はず。
「どのみち女と遊んでたことに変わりはないんだろ? なあアロ」
当然のように謎理論がスルーされ、いつもはストッパー役のクエルクスが、無表情ながら楽しげに呟いた。
「んー? うん、楽しそうでしたよー?」
逆にアロは変な空気に身を任せることにしたようだ。悪ノリしたのか、クエルクスはアロとティトンの背を押して二階に足を向け、ついでのようにイロハを振り向く。
「よし、ガキ共。やっちまえ。ほれイロハ、あいつの部屋にポーションがあるか覗け。さっさとしろ」
「え……いや、それは流石にどうかと……うん? そっち? コトワリの心配は」
「コトワリは浮気だよ。楽しそうなんだよ? こっちは死活問題! イロハ、お願い!」
「ポーション取るだけならいいんじゃないですかー? コトワリさんも怒らないですよー」
「……分かった、後で謝らないとな」
全員、なにか変なスイッチが入ったというよりは、ポーションがない現状を解決するための動きにも見える。恐らく。いや、多分。
千里眼でも三人を止める術を見つけられなかったイロハは、最初より冷静な心持ちで後に続いた。なお、コトワリの行方もちらりと追いかけたが、アロの言う通り危険もなさそうなので途中でやめておくことにする。
*****
イロハのスキルに視線などあるわけもなく。
心配されているとは心にも思っていない噂のコトワリは、目の前で艶のいいトマトを見比べる人物の後頭部を眺めていた。
彼の両手にはパンや穀物の入った紙袋。これから野菜や牛乳なども買い足して、《《彼女》》の家まで戻る予定だ。
いつものコトワリなら、荷物の重さにへこたれて文句の一つもこぼしそうなものだが、彼女といる時だけはそうもいかない。微笑を崩さず最後まで付き合う所存である。
理由の一つは明確な見栄であるが、彼女の荷物を持っている現状を、彼女に後ろめたく思ってほしくない気持ちも大きい。
要は、善意と好意の押し付けである。
大抵の人間に善意ついでに愛想を振りまくことはあれど、好意から人一倍気を使うことは少ないコトワリにとって、彼女といる時の自分は特別だと言えた。できれば彼女には普段の自分を知られたくないと思ってしまうくらいには。
「ドライトマトにしちゃうの分かってるんだけど、やっぱ美味しそうなほうがいいよね」
振り向いた彼女が楽しそうに微笑む。淡い金髪の上に浮かぶ大きな大きなハロは、瞳と同じ薄い黄緑色だ。全体的に色素の薄い彼女の手の上で、トマトの綺麗な赤が映える。
自身の肩ほどしか背丈のない彼女に上目で見つめられ、コトワリは曖昧に微笑んで頷いた。
「大丈夫? 疲れちゃった?」
「いえ、ただ、そちらのミディトマトも美味しそうだなと思いまして……」
「分かる。それね。小さい方が乾きやすいしなぁ」
見惚れていました……、と正直に言うわけにもいかず、なんとか誤魔化したコトワリが短く息を吐く。そこに野菜店の店主がやってきて彼女に話しかけた。
「いらっしゃい、ゆあちゃん。放っておいて悪かったね、酒場の店主が大量に仕入れていくもんだから」
「大丈夫。それよりドライトマト作るんだけど、どっちがオススメ?」
「刻むのも運ぶのも大変だけど、こっちの大きい方かね。まあ、今日は使用人もいるようだし……どうだい?八個で五百エン」
「シヨウニン……」
明るく片手を広げた店主をジト目で見据え、ゆあはおもむろにトマトを持っていない方の腕をコトワリの腕に絡める。
「彼氏なんだけど」
ポカンと、店主の口が開いた。たっぷり数秒の間を置いて、開いたままの口から乾いた笑いが巻き起こる。
「ははは、またまた。あんた、雑貨屋だろう? あの階段下の。まったく、贅沢なバイト先見つけたもんだ」
「ええ……まあ」
困ったようで、嘲笑にも似たあしらいに、コトワリは苦笑で答えた。店主の反応はもっともで、ゆあのような強大なハロ……力を持つ冒険者が、しがない雑貨屋でひ弱な男を選ぶ筈がないと、大抵の人間は考える。かく言う自分もそうだ。
しかし使用人か。コトワリは短く回想した。
出会ってすぐの関係性からは想像もつかなかったが、《《偽装》》するなら使用人がぴったりだったかもしれない。今からでもそうしようと提案してみようと思ったが、見下ろした先でリスのように頬を膨らませているゆあを見て考えを改める。どうしてか、彼女はコトワリが偽装彼氏として努めないと機嫌を損ねることがあるのだ。
ジト目でトマトを差し出したゆあが、口をとがらせ店主に告げる。
「買うから、一つおまけして」
「そりゃ勿論。天使様の頼みとあらば」
天使……ゆあの外見とスキルをよく表した通り名だ。ゆあのスキルは回復。外傷や状態異常であればほとんどを治癒できてしまうし、スキルの発動時に淡い黄緑の光を放つ様はまさに天使のよう。
しかし本人はあまり気に入っていないようで、呼ばれるたびに微妙な笑顔を浮かべていた。大抵の人は気付かず呼び続けているが。
袋詰めされたトマトを受け取り、硬貨を支払ったゆあがコトワリの隣に戻ってくる。商品を受け取ろうと伸ばした腕が、先と同じようにゆあの腕で固定された。まだ怒っているらしい。
「次はあっち」
「了解しました」
指で示された方角に足を向ける。
食料の調達はまだ時間がかかりそうだ。帰った後もまとめて調理しなければならないので、早目に済ませてしまいたいところなのだが。
「牛乳買う前にアレ食べよう? フルーツキャンディのお店だって。イチゴアメがいいなー」
さっきまでの膨れ面が嘘のようにほわほわと笑う彼女の誘いを、無下に断る必要もないだろう。
その後も何度か寄り道をしながら、二人はハビラの商店街を一往復して帰路についた。
*****
白羽家二階の真ん中左側、飾り気のない扉の奥がコトワリの部屋だ。彼は普段からきっちり鍵をかけ、部屋に人を招くことも少ない。全員ちらりと中を覗いたことがある程度だったが、特段変わったところといえばカバンの数だろうか。
コトワリのリュックは全部で十個程あり、聞いた話では潜るダンジョンによって使い分けているらしい。最も見た目は一緒なので、違いを知るのはコトワリだけなのだが。
イロハはその全てを千里眼《スキル》で確認し終え、三人の圧に負けて正直に回答する。
「予備のポーション、確かにカバンに入っているぜ」
「じゃあ借りましょうー。丁度PIYOもいるしー、チェンージ」
「え……ちょっ……」
イロハの動揺が間に合わぬうちに、アロが状態変化《スキル》を発動。コトワリの部屋の扉の一部が炭になって散乱した。アロは掌大に空いた穴から手を突っ込んで解錠する。
開いた扉と、散っていく元扉の一部を呆然と眺めるイロハの前で、PIYOが仲間を呼んでいた。この程度の損害、数分後には穴も塞がっていることだろう。
しかしこれでは鍵の意味がない。スキル社会の弊害である。
噂によると神様にお布施すれば、クランルームごとに「スキル無効」の魔法をかけてくれるらしいが、白羽の盟主は「必要なし」として実装していなかった。ケチではなく信頼の結果だが、今回ばかりはそれが祟ったようだ。カバンを探す仲間達を、イロハが入口から見守る。
コトワリの部屋は彼の店同様、そこそこの散らかりを見せていたが、店ほどごちゃごちゃしていない。私物が殆どないからだろう。あるのはポーション精製に必要な材料とアイテム、書籍の類や衣類だけだった。
目立つところに並べられたカバンのうち、目新しい物を見つけてティトンが持ち上げる。
「あれ? このカバンは?」
「コトワリさんっぽくないデザインだねー?」
慎重な手つきで回転させるティトンの隣から、アロがカバンを覗き込んだ。
「小さい……あ、でもポーションは入りそう」
「カラッポだー」
「貢物か?」
更に、ティトンとアロの間からクエルクスが言う。確かに、女性の背中に調度良いサイズ感とデザインだ。未だ部屋に踏み込めずにいるイロハが外からそっと忠告する。
「そうかもしれないし、あんまり触らない方が……」
「ブランドものかな?」
「お高いやつかもだねー?」
「楽しそうだなガキ共」
「クエルもねー」
悪ノリのような不思議な空気はまだまだ続くようだ。とはいえ本当にポーションを探しているだけなので、きっとコトワリも許してくれるだろう。イロハは未来を見ることなく、ただただ頭の中で両手を合わせてみた。なお、特に意味はない。
「あ、こっちのはいつものとおんなじカバン!」
「特殊なポーションもあるだろうから慎重に……」
「分かってるって。いつも使ってるヤツだけ借りてくよ」
心配が収まらないイロハに苦笑して、ティトンはニコニコとポーションを出す。体力回復系のものをいくつかと、ハロ回復系のものを少し。それと、状態異常を回復するポーションを一つ。いつもと同じ、見慣れた瓶の中で涼し気に色が揺れる。
「代わりのもの詰めとけば、怒られないかもー」
「アロ、ナイスアイデア! よーし…」
無事ポーションを回収した彼等は、その後カバンを《《満たして》》から部屋を出た。
*****
ゆあの住まいはハビラのはずれにあるアパートの一室だ。アパートといっても扉の先は異空間なので、隣人トラブルの心配は少ない。
内階段で三階まで昇って、扉を開く。白羽のクランルームと違い、がっつりセキュリティがかけられた室内に収まると、外界と隔離された感覚に陥る。
コトワリは足が笑ってしまいそうな程疲れていたが、ここでもやはり見栄が勝った。リビングテーブルまで大量の買い出し品を運び込み、ため息を押し殺す。
「トマト刻むの手伝ってくれるでしょ?」
いつの間にか背後に回ったゆあに問われ、コトワリは跳ねた心臓を押さえた。微笑を頷かせると、ゆあも安心したように微笑む。
これから買ってきた食材の殆どを保存食にしなければ。量が量なので、それなりの重労働だ。彼女一人にさせるのは忍びない。
「出発、夕方でしたよね?」
「うん。でもそんなに急がないかな。とりあえずちょっと休憩しない? 疲れたし」
「では、なにか淹れますよ」
「うんうん、一緒に作ろう?」
コトワリがお湯を沸かす間に、ゆあが茶葉を選んで持ってきた。いつものようにミルクティーにして、ソファに落ち着く。ついでにクラッカーもテーブルに乗せた。
早速サクサク音をさせるゆあに、コトワリがたずねる。
「今回はどれくらい潜る予定なんですか?」
ゆあはハロの大きさから想像がつくように、主に高ランクのボス魔獣を討伐することを目的とした大型クラン、ベックルージュ【赤嘴】に所属していた。
赤嘴は富と名声の奴隷と影で囁かれるクランだが、実力は本物。ボス魔獣を毎月何体も討伐しては、ハビラで宴を開く生活を繰り返している。
しかしゆあ本人は、あまり他のクラン員と反りが合わないらしく、討伐以外で関わることは少ないとのこと。確かに彼女が宴の席で賑やかに豪快に笑う様は想像がつかない。
ゆあはうーんと唸って眉を下げる。
「どうだろ。初見のとこいくつかあるから、補給に戻りながらになると思うけど……確実に一ヶ月はかかりそう」
「一ヶ月……」
コトワリが心配そうな声を出すと、ゆあはカップを持ったまま肩に寄り添ってきた。
「補給に帰ってきた時に、会えたら助かるかも」
申し訳なさそうに呟く彼女に、コトワリは頷く。
ゆあのスキルは確かに強力だが、実は代償があることを知る者は少ない。
スキルを使う度に身体に毒素が貯まり、解毒には他人のハグを必要とする。
クラン員に話をするとめんどうなことになるらしい上に、他の解決方法が見つかっておらず、ダンジョンから帰る度にコトワリが解毒している……というのが、偽装彼氏の理由だ。
確かに、名声名高い彼女がハグを必要としていると周知されたら、色々大変なことになるだろう。
コトワリ自身、スキルを使用しすぎると毒舌になる体質な為、苦労は身に染みて分かっているし、助けになりたい気持ちが大きい。
「分かりました。夜はなるべく空けておきます」
「へへ、ありがと」
猫のように頭をすりつけながら笑うゆあを見て、満たされた気持ちになるのは仕方がないと、コトワリは思う。こんな風に頼られて嬉しくない人間はいないだろうから。特に、自分のようなぺしょぺしょ人間には麻薬のような人だなと、密かに思うコトワリであった。彼女が盟主の知り合いでなかったら、今もハニートラップを疑っていたかもしれない。
……盟主といえば。
赤嘴は盟主会にあまり顔を出さないらしいが、数カ月に一度は強制的に参加させないと問題を起こしかねないとのことで、その時ばかりはクランごと休暇になる。今回がまさにそれで、ゆあはゆっくり解毒して家のことを済ませ、束の間の紅茶を楽しんでいるわけだ。
逆に言うと、それ以外はほとんどダンジョンにいるため、顔を合わせる難易度は比較的高い……のかもしれない。
とはいえ、解毒の必要はあるので雑貨店に顔を出してくれたり、街で見かけたら声をかけてくれたり、エデンの中では(赤嘴メンバーを除いて)ゆあとよく会える自覚はあるコトワリであった。
「時間、大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫。どうせ定時になんて揃わないんだし」
「そうなんですか?」
「そうなんです」
ミルクティーを飲み干して大きく伸びをしたゆあが、そろそろ始めようか。と瓶を消毒しにかかる。
コトワリも必要な道具をリビングテーブルに運んで、保存食作りがスタートした。
*****
数時間後。
「えっなんで僕だって分かったの??」
「なんでわからないと思ったんですか??」
ダンジョンから戻ったティトンと、待ち構えていたコトワリが叫びを上げる。彼の手には大量のジャガイモとPIYOの詰まったカバン。これを見て分からないほうがどうかしていると、コトワリは盛大にため息をついた。
日も暮れて、夕飯前に帰宅したコトワリは自室のカバンから聞こえてくる謎の音で腰を抜かしかけた。
ただでさえくたくただったので、実際驚いて尻もちまではついたし、変な声も出たと思う。
恐る恐る、猫のように近づいて蓋をひらけば、なんということはない、推理するよりも早く状況は理解できた……というわけだ。
「ごめんごめん、棚が空だったからつい……」
「はぁ……まあ、構いませんけどね。今回ばかりは義務を怠ったぼくも悪いので」
悪ノリが過ぎた、と先ほど他のメンバーに謝られていたこともあって、コトワリはそれ以上文句を言わずに済ませる。
ティトンはありがと、と前置いて、席につくコトワリを追いかけて自分も椅子に座った。勿論手洗いうがいを済ませてから。
「それよりコトワリってもしかして彼女いるの? アロが見たって言ってた。どんな子? 紹介してよ」
「駄目です」
「えー? なんで?」
「なんでもです」
テーブルに手をついてまで追求するティトンを横目に、イロハが苦笑する。最も彼は昼間に千里眼で見ているのだが。
「コトワリにしては珍しい拒否反応だな」
「そこまで拒否られると逆に気になるが??」
イロハに続いてクエルクスが口を挟む。二人とも少し離れたソファで、コトワリが淹れたハーブティーを飲んでいた。ティトンにも同じものを注ぎながら、コトワリは苦い顔で首を振る。
「駄目なものは駄目です」
「理由はー?」
「食い下がられても許可しません」
「頑なだなぁ」
クエルクス、アロにも迫られて首を回したコトワリは、小さく舌を出して考える。ここにいる全員がよくできた人間だと分かりきっていて、紹介などするわけがない。彼等と彼女が惹かれ合おうものなら、コトワリは一度に二つの居場所を失うのだから。
ちぇーっと口で呟いて、座り直したティトンは臆面もなくにこにことカップを手に取る。
「ま、いいけどさ。仲良しなんだ? あのカバン、プレゼントでしょ?」
「カバン? ……ああ。羨ましいと言われたもので」
涼しい顔で答えたコトワリに、横からイロハが問い掛けた。
「羨ましい? なにが?」
「? カバンが、ですよ」
不思議そうに答えるコトワリを前に、イロハが固まる。
「……それって」
短く呟き、しかし先を話さないイロハを置いてコトワリはティトンにカバンを押し付けた。
「とにかく、この芋とPIYOはお返ししますから。ああそれと、棚拭いておいてくださいね。補充用のポーション、今から精製しますから。ティーセットはポーション並べる時にでも片付けるので、そのままでどうぞ」
「あー、コトワリ照れてる?」
「なんでですか。いいから働いてくださいよ、不法侵入分」
からかってみても流されてしまい、好奇心をしまったティトンは、両手を頭の後ろに回して椅子を傾ける。
「もっと照れるかと思ったのに」
「意外と淡白だな?」
ティトンと同じく、クエルクスも意外そうに肩をすくめた。
コトワリは部屋に戻り、アロは既におらず、ティトンもそのまま屋根裏に荷物を置きに行く。棚は降りてきたら僕が拭くからそのままにしておいて、と言い残して。
……静かになった空間に息を吐き、クエルクスは隣に問い掛ける。
「で? なにが見えた」
「いや、みてないぜ。なにも見てはいないけど……」
「あ?」
片手で顔を覆ったままのイロハはなんとも言えぬ表情のまま、目も合わせようとしない。覗き込むクエルクスを逆の手で制し、彼は適当にいい分けた。
「いや、なんでもない、ただの邪推」
「意味がわからんが?」
まったく……と呟いて、クエルクスは庭に出る。寝る前のストレッチでもするのだろう。一人になったイロハはため息ついでに天井を仰いだ。
誰も気付かなかった。察したのは自分だけだと、イロハは思う。
多分、コトワリ本人ですら理解していない。
千里眼《スキル》を使わずとも、頭に浮かんだ彼女の言葉の意図を、イロハは疑うことができなかった。それは多分、二人が一緒に買い物しているところを見てしまったせいもあるだろう。
だからこそ言及するべきではないし、誰かに共有するつもりもない。ただこの説明しがたい感情を処理するのに、少し手間取っただけだ。
イロハはテーブルの上をさっと片付けながら、自身の動揺も落ち着ける。
テーブルの上には、ティーセットと、PIYOとじゃがいもが詰まったカバンが乗ったまま。
「難しいもんだな」
イロハは小さく呟いて、階段を登った。
コトワリはいつも、背中にカバンを背負っている。
下ろしているところを見るほうが珍しい程に。
羨ましいとはつまり、そういうことだろう。
【エデン】世界の仕組みと神様について① - 透峰 零
2024/12/15 (Sun) 22:21:26
視界を占めるのは、どこまでも澄んだ青。
そして、自らの口から昇っていく小さな気泡と無数の赤い筋だった。水面がひどく遠い。
――あ、これは死ぬな
とイロハはどこか冷静に思った。
故郷では、死ぬ前には走馬灯という生まれてから今までの情景が見えるというが、イロハが思い出したのは《《こう》》なるまでの経緯である。
聖廟ダンジョン《アルバスデウス》。別名を「旧《ふる》き神々の住まう白き場所」。そう呼ばれる氷雪ダンジョンに一人で入ったのは今朝のことだ。
一人で来たことに、深い意味はない。
理由らしい理由を挙げるならば、最近の自分はクランのメンバーに頼ることが多く、ふと不安になったからだ。
彼らと共にいることは心地よいが、だからこそ恐ろしくもあった。
――自分はよくても、彼らにとってはどうだろう。
負担になってはいないか。疎まれてはいないか。
――今の距離は適切か。
一度生じた不安が消えることはなく、ゆえに少し距離を取ろうと思ったのだ。今日は珍しく朝から予定がなく、一人になるのにちょうど良かったというのも理由の一つではある。
行き先にこのダンジョンを選んだのはランクがB+と手頃なことと、ずっと気になっていたものがあるからだ。
ここ、《アルバスデウス》が聖なる場所と言われる由縁の一つ。
最深部に存在する、神が生まれたという伝承を持つ泉。その水は、人の罪を量ると言われている。善い人間には甘く、罪人は大層苦く感じるというのだ。
馬鹿げた話だと思う。
だが、頭から否定もできないのはその泉がダンジョン内にあるからという、その一点に尽きる。
ダンジョンの中では、何が起こっても不思議ではない。何しろ、死人ですら生き返るのだから。
ダンジョン内で死んだ者は《《神》》の力で、一番近い教会に転送される。そして教会で蘇生措置を施されると、死んだ者は再び目を覚ますのである。
嘘のような話だが、これはエデンの中では常識と言って良かった。
もっとも、何の犠牲もないわけではない。
対価として求められるのは一定額の金銭だ。もしも金銭が足りなければ、差額はそれに類するもの――記憶や身体の一部を求められるという噂である。
幸い、イロハ自身はまだ死んだことはないが、同じクランに所属するコトワリなどは心配になるくらいよく死んでいる。
だから。ダンジョンの中にある泉ならば、本当に罪科を量れるのかもしれない。
そんな馬鹿げた考えのもと、イロハはこのダンジョンの最深部まで来てしまったのだ。
件の泉は、最深部のど真ん中にある洞の中にあった。その入口で、イロハは足を止める。
罠もないのにイロハが入るのを躊躇ったのは、中に先客がいたからだ。
数は三人。千里眼で見た姿は覚えのあるクランのものだった。
一人はうなじ、一人は左手の甲、一人は右頬。それぞれに彫られているのは、血のように真っ赤な涙滴型の刺青だ。
こんな消せない印を嬉々としてつけるクランは一つしかない。
【アーシャーム】。【生贄】の通称で呼ばれるこのクランは、エデンではあまり好かれていなかった。
まずシンプルに、素行が悪い。
町の方の被害で言えば、飲食店やアイテムショップで難癖をつけて商品を安く買おうとするのはまだ可愛い方で、暴力を振るうことは日常茶飯事。気に入らない店員への人格否定などの暴言や性的な嫌がらせ、ありもしない誹謗中傷を行って営業を傾かせたこともある。
元々用心棒で生計を立てていたこともあるイロハは、その延長でエデンでもクランを通さずに様々な依頼を受けているが、困りごとの中で高確率で挙がるのが彼らの名前だ。それ故、あまり愉快でない対峙をしたことは一度や二度ではなかった。
クラン間での【生贄】の評価も同様で、褒められるものはない。常習的に低ランククランから略奪まがいのことをしているのだから、当然と言えよう。
つまり、【生贄】というクランは顔を合わせる相手としては、考えうる限り最悪な相手なのである。
しかもその内の一人――頬にクラン印を入れている男は、つい数日前にイロハがとある店で摘み出した相手だった。
「さて、どうしたものか」と、しばし考えた末にイロハは踵を返す。
今日にこだわることはない、というのがその理由だ。このダンジョンは、氷が溶けて魔獣が活性化する真夏こそランクがS級にまで跳ね上がるが、それ以外の季節は概ねBランクで安定している。
だから、別に今日でなくてもいい。
残念に思うよりも、むしろ安堵する気持ちを自覚しながら、イロハは胸の内で言い聞かす。
急げば半日ほどでダンジョンからは出られる。クランに帰る頃には真夜中になっているだろうが、盟主には「遅くなるかもしれない」と伝えているので問題ないはずだった。
そんなことを考えながら十歩ほど歩いたところで、イロハは足を止める。
決断は、少し遅かったようだ。
「よお、千里眼」
振り返った先、洞の入口にいたのは【生贄】の三人だった。声をかけたのは、頬に刺青のある男である。なお、名前は知らない。
「スキル名で人を呼ぶな。不愉快だ」
「不愉快? コソコソと覗き見しといて、よくそんなこと言えるな」
嘲るような男の声に、イロハは唇を歪める。
「気遣い、と言ってもらいたいね。あんただって、自分がボロ負けした相手のツラなんて見たくはないだろう。氷使い」
返された皮肉に、男がぐっと詰まった。
その隙に、イロハは両脇に控える二人に素早く視線を走らせる。先の氷使いの男は野営用の装備を背負っていたが、こちらは代わりに山ほどの大瓶を背負っていた。中に入っているのは泉の水で間違いないだろう。かの水を使ったポーション類は極めて高い効能を持つため、道具屋に卸せばそれなりの高値で取引してもらえる。
(しまった。俺もコトワリに持って帰ってやれば良かったな)
イロハが思い出したのは、クランメンバーの一人、ポーション精製能力を有する雑貨店店主だ。思いつきに近い形で出発したため用意はしていなかったが、持ち帰れば喜んでくれただろう。
「そういえばお前、ずいぶんと軽装だな」
考えを読んだわけではないだろうが、氷使いが怪訝な顔をした。
それもそのはずで、彼らが持っている野営装備などをイロハは一切持っていない。
《アルバスデウス》は十の階層から成るダンジョンであり、大小多くの洞を有する複雑な構造を持つ。夏季以外は氷や雪で多くの道が閉ざされるため多少はマシだが、その分行き止まりや魔獣の住処にぶつかる可能性が高い。
そのため、冬季の最深部到達時間の平均はパーティー三人で一日半。野営装備は必須と言えるだろう。
だが、それはあくまで平均。
イロハの千里眼然り、遠見や透視のスキルを持つ者にとって、迷路は迷路にあらず。単なる雪の積もったダンジョンと同じである。
もっとも、そんな事情を彼らに説明する義理はイロハにはない。不毛な会話を打ち止めにするためにも、黙って肩をすくめるにとどめた。
これで放っておいてくれれば互いに平和だと思うのだが、相手は終わりにする気はないらしい。
深入りされたくない、というイロハの様子を敏感に嗅ぎ取ったのか、ねちっこい笑みを浮かべて言葉を続ける。
「こんなとこまで来て、散歩ってわけでもないだろ。その様子じゃ素材集めってわけでもねえし」
「俺がどこで何してようが勝手だろ」
感情的にならぬよう気をつけながら、イロハは答える。
別に悪いことをしているわけではないが、彼らに目的を知られるのは嫌だった。しかし、良くも悪くも勘の働く者というのはいる。
イロハから見て、氷使いの右隣にいる小柄な男が「ははーん、わかった」とわざとらしく言った。これまた、覚えのある顔である。数ヶ月前、支援要請を受けてイロハが同行した別クランから、素材を奪おうとした中の一人だ。確かスキルは脚部強化《レッグバフ》だったか。
「お前、あの噂試しに来たのか」
恐らくは単なるカマかけだったのだろう。それでも、男の言葉はイロハの顔をこわばらせるには十分だった。
「なんだそれ?」
怪訝な顔をしたのは、最後の一人だ。イロハは知らない顔だが、丸々とした体つきからして戦闘職ではなさそうである。おおかた、罠の解除や水が本物か見るために連れてこられた鑑定眼持ちといったところか。
「この水は人の善悪を量れるって話さ」
小柄な男の言葉に、他の二人はわずかに目を見開く。
「昔はこの水を罪人に飲ませて、その味で罪の重さを決めたらしいぜ。ま、清廉潔白な生き方してたら気にもならねえだろうが」
小柄な男の言葉に、ようやく合点がいったらしい氷使いの男が「なるほどなぁ」と唇の端を吊り上げた。
「そういうことなら、せっかく来たんだ。分けてやるよ」
手を伸ばした彼が、小柄な男の背に負った瓶を一本手に取り、イロハに向けて差し出す。無言のまま目を細めたイロハの反応は、おおいに彼らを満足させたらしい。
「ほら、遠慮するなよ。知りたいんだろ」
ますます笑みを深めた相手に、イロハは乱暴に舌を打った。男達の笑みが凍りつく。
「いらねえよ」
底冷えのする低い声に、男達の顔から笑みが消える。
「あ? なんだ、その態度。喧嘩売ってんのか?」
「馬鹿かお前。確実に勝てる勝負を喧嘩とは言わねえよ」
蔑みも憐憫も、この手の相手にはいらない。「ごく当然のことを、当然のごとく言った」そういう態度が、一番効くのだ。
イロハの予想通り、彼らは完全に戦闘へのスイッチが入ったようだった。言葉や態度で示しても分からない相手には、|暴力《これ》が一番手っ取り早い。
薄っすらとイロハは笑った。結局、自分も同じ穴の狢なのだ。
間合いは十分にある。
相手で一番早いのは、脚力強化の男だろう。だが、彼の間合いは超近距離。イロハに近づくまでに数秒の間を要するため、その間に射止めることは簡単だ。
では氷使いはどうか。
彼の場合は空気中の水分を使って氷を顕現させる必要があるが、自分の手元にしか作れない。もちろん、その後に投擲したりは可能だが、イロハはその隙を与えるつもりはなかった。放たれた矢をピンポイントで凍らせる技術を持っていないのは、先日の一件で確認済みだ。そして、周囲の氷を――自分よりはるかに大きい物量を自在に操るには、あの男の習熟度は未熟に過ぎた。
脚力強化やもう一人との連携もあるかもしれないが、三人程度なら戦術も限られる。何とかなるだろう。
そもそも、スキルを使うまでもないかもしれない。彼ら程度の練度では、連携するために目配せなどの合図《スキ》が必要だ。
それさえ逃さなければ、動きを読むのは容易い。
結論。
殺しはしないが、服に二、三箇所穴が開くくらいは我慢してもらおう。
「舐めやがって」
小柄な男が低く腰を落とす。いつでも矢を抜けるよう、イロハも軽く右手を曲げた。
と、そこで。
空気を震わせる咆哮が轟いた。
目の前の三人が肩をびくりと跳ね上げる。
「なんだ……?」
イロハも素早く辺りを見回した。反響していて距離は判別しにくいが、音源自体はそう遠くはない。
「チッ、もう来やがったか」
氷使いが乱暴に言い捨てたのを皮切りに、三人が一斉に走り出す。その進路上にいるイロハのことなど、すっかり眼中にないようだった。
むしろ邪魔だとばかりに押し除けて奥の出口に向かう逃げっぷりは、いっそ見事と言ってよいだろう。
ただならぬ様子に、とりあえず踵を返したイロハも走りながら千里眼を発動させる。
仮想視点を後方に定め、細かい位置を調整。
現実に流れる視界とは別の景色が、次々と脳内で切り替わっていく。三人が出てきた洞の中、異常なし。洞内左から伸びる通路の奥、行き止まり。正面通路、異常なし。その隣の通路。覗いた途端、スキル阻害の罠《トラップ》でもあったのか暗転。強制的にスキルを停止させられ、一瞬だけ意識が飛ぶ。
崩れた姿勢を転ぶ前になんとか立て直し、再びスキルを発動。
そこで再度、咆哮が響く。さっきより近い。おかげで大まかな方向が把握できた。
イロハが走る道の後方。洞から出てすぐに左右に伸びる横穴のうち、向かって右側の穴奥。
そこに、一匹のドラゴンがいた。
白銀の鱗に金色の角と爪。スキル越しでもわかる堂々とした体躯は、神の獣と言っても過言ではない美しさだったろう。
――白目を剥き、とめどなく唾液を溢れさせてさえいなければ。
白竜《ホワイト・ドラゴン》。
《アルバスデウス》が一時期だけでもS級に跳ね上がる要因たる魔獣の姿が、そこにはあった。
「おい、どういうことだ!」
即座にスキルを停止し、イロハは前を走る男達に怒鳴った。
彼らの態度からして、このドラゴンのことを知っていたのは明らかだ。案の定、チラリとイロハを一瞥した氷使いが忌々しげに吐き捨てる。
「ああ?! てめえに話す義理はねえよ」
「ふざけんな! 何もしてねえのに、真冬に白竜が凶暴化するはずあるか!」
普段の白竜は、その巨体に反して温厚かつ思慮深い魔獣である。鱗の硬さもさることながら、回復力の高さから並の攻撃ではまず傷をつけることは不可能。人ごときが多少攻撃したところで、よほど腹が減っていない限りは相手にもしてもらえないだろう。
そんな白竜が正気を失い暴れ狂う唯一の季節こそが夏季であった。その原因は、このダンジョンの一部に生える植物である。
紅焔花《ピクラリダ》。
ドラゴン潰しの異称で呼ばれるタンポポに似たこの多年草は、竜種が食せば興奮状態に陥り、強い攻撃性を発揮させる。
主な群生地は雪と氷で閉ざされているが、氷が溶ける夏季だけは生育期と重なることもあり、多くのドラゴンが口にしてしまうのだ。あるいは、人間で言うところのアルコールのように、彼らにとっては一種の嗜好品扱いなのかもしれない。
さらに厄介なことに、白竜は紅焔花を体内で分解・貯蔵することで可燃性の強いガスを生成して攻撃に転用できる。
イロハが千里眼で視た白竜は、どう見ても正気ではない。
このダンジョンで白竜をあそこまで狂わせるものといえば、紅焔花をおいて他にはないだろう。問題は、どうしてこの季節に白竜が紅焔花を食せたのかである。
何かの要因で、群生地に繋がる道が開けてしまったのか。
考えながらも、イロハは身を捻って後方を確認する。
三度の咆哮と、氷壁が崩れる音。穴の奥から、先ほど確認した威容がゆっくりと現れるところだった。距離は数十メートルしか離れていない。イロハ達にとっては遠いが、相手はちょっとした豪邸ほどの体躯である。すぐに追いつかれるだろう。
「くそ」
小さく毒づき、イロハは再び前方へと顔を向ける。
前を行く三人も、ちょうどイロハの肩越しに敵の姿を確認したところらしい。目に見えてその顔が引き攣っていた。
ゆっくりと白竜が足を踏み出す。それだけで地面が揺れ、周囲の氷が砕けて舞った。
「う、おおおおお!」
足を止めた氷使いが意を決したように叫び、右腕を高く掲げる。広げられた手のひらに冷気が渦を巻き、見る間に一メートルほどの紡錘形の氷が成形された。
「くらいやがれ!」
大きく振り下された腕の動きに合わせ、巨大な氷のナイフがイロハの頭上を飛び越えて白竜へと向かう。
もしも当たっていれば、いくら白竜といえど多少のダメージにはなっただろう。
――当たっていれば、だが。
白竜が大きく口を開く。
不自然に膨らんだ喉が上下し、ただでさえ赤い口腔内がさらに明るくなった。
一瞬後、熱い風が四人の全身を撫でていく。
白竜が吐き出した熱波の余波だ。当然ながら、それは飛んでいった氷塊を一瞬で蒸発させていた。
「……だろうな」
ぼそりと呟き、イロハは氷使いへと視線を戻す。
恐らくは、あれが彼の持てる全力だったのだろう。目を大きく見開いた男の顔に浮かぶのは死への恐怖と、プライドが粉々に砕かれた者特有の絶望だ。
足を止めた彼に釣られて、他の二人も呆然と立ち尽くす。
打ちひしがれたその姿に、イロハは大きく顔を顰めた。
あの様子では、彼らはもう戦力にはならないだろう。放っておいたら、踏み潰されるか焼き殺されるか、あるいは丸呑みにされるか――。
「ああ……ったく!」
そこまで考え、イロハは完全に足を止めた。
彼らを助ける義理はないし、そこまで自分はお人好しではない。
だが、ここで彼らを置いて自分だけ身を隠すのも寝覚めが悪すぎた。
では、彼らを叱咤激励して共闘でもするか。
浮かんだ考えを「無理だ」と即座にイロハは切り捨てる。
脚力強化は強力だが、間合いが悪い。あの竜相手だと、近づく前に火炎の餌食だろう。では氷使いは? 先ほどの攻撃を見る限り、あれが全力。加えて、それを防がれたことで完全に腰が引けている。もう一人は非戦闘員。すでに失神寸前で震えている。
――だから、イロハは彼らに期待することを諦めた。
「右手三つ目に出てくる横穴に入れ。そのまま真っ直ぐ行けば、出口までの最短経路だ」
身体ごと白竜に向きなおるイロハの言葉に、背中から息をのむ気配が伝わってくる。ついで、「ハッ」と嘲るような声。
「俺たち助けて、お仲間みたいな良い子ちゃんになろうってか?」
そこに宿る揶揄の響きに、イロハは矢筒に伸ばした手を止めた。
「――ごちゃごちゃうるせえな」
口をついて出たのは、ひどく冷たい声だった。
「弱い上に足止める覚悟もねえなら、さっさと行けよ。邪魔なだけだ」
普段のイロハなら、もう少し彼らのプライドに斟酌して言葉を選んだかもしれない。だが、彼とて聖人君子ではないのだ。感謝されたいと思って足を止めたわけではないが、さりとて無礼な言葉を投げられて良い気分はしない。むしろ腹を立てるなと言う方が無理であろう。
くわえて、男たちの自尊心を慮ってやるほどの余裕もなかった。
(まずいな)
矢をつがえながら、イロハは胸中で一人ごちる。
狙いが定められない。
遠くはあるが、相手が巨体なので当てるのは難しくない。問題はどこに当てるか、だ。
さすがに関節は真正面からは無理だろう。何より、竜種は関節であろうと鱗に覆われている。隙間に捩じ込んだとて、肉までは届かないだろう。この距離なら威力も落ちるから尚更だ。
眼。狙えないことはないが、スキルの補助なしではさすがに難しい。それに、高い回復力を持つ白竜相手では、ダメージとなる前に回復されてしまう。
そもそも、矢を放ったとて焼き尽くされるかもしれない。
千里眼を使うまでもなく、攻撃が成功する可能性がまったく見当たらなかった。勝利の糸口すら定められないまま未来を読んでも、無駄に疲労するだけだ。
例えるなら、大河に落ちた一本の糸をなんの手がかりもなく手繰り寄せるに等しい。スキルで河の情報を全て知ることはできても、イロハにはそれを正確により分けることは不可能だった。
迷いが圧力となり、額に冷や汗を滲ませる。この時、すでに彼の頭から背後の三人のことは抜け落ちていた。
まさか、この状況でこれ以上絡んでくるとは考えてもみなかったのである。
「……偉そうに」
低い声。背筋に悪寒が走る。
覚えのある感覚だった。
――誰かに背中を狙われる感覚。
咄嗟に横に跳んだイロハの左脛を抉って、氷でできたナイフが雪に突き立った。白に赤が散る。棒立ちなら、確実に足が貫かれていただろう。
「……っ」
避けたはいいが、片足では勢いのついた体を支えきれず、イロハは肩から地面に倒れ込む。
「てめえ、何を……」
「お前が悪いんだ」
見上げた先では、顔をこわばらせた氷使いが笑みらしきものを浮かべていた。
「偉そうに命令するんなら、お手なみ拝見させてくれよ。あんたがそこで足止めしててくれるなら、俺たちも安心して逃げれる」
たたみ掛けるように言ったのは、脚力強化の男だ。
「……つくづく、見下げ果てた奴らだな」
「先に僕らを馬鹿にしたのはお前だろう!」
詰るように小太りの男が叫んだ。
呼応するように、背後で白竜が吠える。あるいは、イロハの足から流れ出る血の匂いを嗅ぎつけたのかもしれない。身を捩ると、金色の瞳と目が合った。白竜の大きな眼球が、しっかりとイロハの方を見据えている。
視界の外で、三人分の足音が遠ざかっていく。わずかにイロハは身じろぎした。足の傷は刺さらなかった分出血が激しく、すでに感覚はないに等しい。
(ちくしょう)
弓を構える。踏ん張りがきかないので、当然ながら飛ぶ気がしない。
それでも、何もせずにここで死ぬのだけは我慢がならなかった。絶望や悲嘆よりも、彼らの思惑通りに死んでたまるかという思いがくる自分に、イロハは内心で苦笑する。
見つめ合ったのは一秒か二秒か。
もしかしたら、もう少し長かったかもしれないし、短かったかもしれない。
だらしなく隙間を見せていた白竜の口が、さらに大きく開かれていく。同時に腹が大きく膨れ、喉にぼこりと瘤が浮かび上がった。
竜息《ドラゴンブレス》。
考えるよりも前に、咄嗟に身体が動いていた。避けれないなら、せめて急所は守ろうと両腕を上げて顔の前で交差させる。
轟音。
閉じた瞼越しでもわかる暴力的な光の渦と熱が全身を包んでいく。何かが焦げる匂いと、バキバキという乾いた音。一際大きなその音が、周囲の雪氷が溶けて崩れたものだと気がついたのは、濁流に飲み込まれてからだった。
そして、話は冒頭に至る。
今のイロハは正真正銘の丸腰だった。
炎の中でもかろうじて持っていた弓も、氷水に流された際の衝撃で弾かれていった。
どこまでも青い世界。不規則に揺れる波の模様がやけに眩しい。熱いのか冷たいのか分からない感覚の中で、手を伸ばす。
唐突に周囲が暗くなり、遠くの水面にゆらりと大きな影が映った。水が重く揺れ、上方で大きな泡が幾つも発生する。何か大きなものが水中を潜ったのだろう。恐らくは、白竜の――
考える前に、腹に衝撃。
痛いというより、重いと称する方が的確な一撃が背中に抜けていく。
ついで、猛烈な違和感。その正体を考えるより先に、答えが目の前を通り過ぎる。赤黒い糸を引きながら凶悪に光る大きな爪が、視界を分断するようにゆっくりと引き上げられていく。
自身の身体からソレが抜けていく様を見て、思い出したように苦痛がやってきた。
ごぼ、と一際大きな気泡が弾け、冷たい水が喉に押し寄せてくる。それとは真逆に、熱いものが喉を駆け上がっていく感覚。
苦しい。痛い。熱い。
鼻の奥がツンとし、涙が勝手に溢れてはすぐに水に混ざっていく。
霞がかったように白く染まっていく視界と、遠くなっていく意識。
何も見えない中で、水中のそれとは異なる浮遊感が不意に全身を包んだ。
白の中で何かが瞬いている。
それは、無数の0と1の羅列だった。赤、青、緑、ピンク、燈色と、様々な色を持った二つの数字が白い世界を埋め尽くす勢いで蠢いている。
数字は、イロハの指先からも出ていた。というより、指先が0と1に分解されていると言った方が正しい。
奇妙な感覚だった。
己の体は確かに冷たい水中に没し、今も刻一刻と死に近づいているはずなのに、もう一つの意識の中では真っ白な空間で大量の数字に囲まれている。
指先は冷たく、腹の傷は塞がらない。
だというのに、その指は今も形を崩して数字へと変わっているのだ。
空中に放り出された数字はしばらく空中を漂い、やがて引き寄せられるように渦を巻きながら彼方の一点へと収束していく。
きっと、あそこに神とやらはいるのだろう。そうしてイロハが死ぬと、金品を回収するというわけだ。
いよいよ視界が狭まっていく。朦朧とした意識の中、ふとイロハの中に皮肉な想いが浮かぶ。
――いったい、ソイツはどんな面をして見物しているのだろう
何故そんなことを考えてしまったのかは分からない。
どうせ死ぬのなら、という自暴自棄な思いも手伝って、イロハはスキルを発動させる。
死にかけの体でハロを行使したからだろう。自分の中で、何か大事なものがごっそりと欠けていく感覚が広がっていく。
かまわず、白の彼方に焦点を合わせる。
弾かれない。かちり、と頭の中で何かが噛み合う感覚。
視えた。
瞬間、流れ込んできたのは『けたたましい』としか表現できないような情報の奔流だった。
ERROR_NOTIMPL
ERROR_FAIL
ERROR_ACCESS_DENIED
ERROR_UNKNOWN
ERROR_Re■usci■at■■■ REQUEST_PAUSED
PROCESS_TP.Re■usci■at■■■ REQUEST
PROCESS01_IN_PROGRESS
clear
PROCESS02_IN_PROGRESS
clear
PROCESS03_IN_PROGRESS
error
REQUEST_ABORTED
PROCESS04_IN_PROGRESS
clear
PROCESS05_IN_PROGRESS
clear
PROCESS06_IN_PROGRESS
error
REQUEST_ABORTED
PROCESS07_IN_PROGRESS
error
REQUEST_ABORTED
PROCESS08_IN_PROGRESS
error
REQUEST_ABORTED
PROCESS09_IN_PROGRESS
error
・
・
・
ERROR_STOPPED_ON_Re■usci■at■■■ REQUEST
ぶつん、とどこかで何かが切れる音。
「ぁ……」
ごぶ、と一際大きな血塊が水に溶け、消えた。
◆◇◆◇
背後からの慌ただしい足音に、何事かとティトンは振り返った。すぐ傍でスクワットを行っていたクエルクスも同様だ。
クラン【エル・ブロンシュ】。通称を【白羽】。
そのアジトでもある、草原の真ん中に立つ二階建ての家へと続く一本道を、一人の男が駆けてくる。鎧を着た金髪の男は、ティトンもよく見知った顔だった。【秩序】――正式名称【パレス・オーダー】という、治安維持に力を入れているクランのメンバーである。
道の脇に作られたベンチに座ったティトンや、草原で鍛錬に励んでいるクエルクスには目もくれず、男はノックもそこそこに扉を開けて中へと入っていく。どう見ても、ただ事ではない。
「何かあったのかな?」
ティトンは首を傾げた。
またコトワリがダンジョンの浅瀬で死んだのだろうか。しかし、それなら当人がいないのは不自然だった。それに、朝会った時に「今日は一日店にいるつもりだ」と彼は言っていたはずだ。
アロはさっきまでティトン達の傍でPIYOと戯れていたが、「コトワリさんのお店行ってくるー」と言って出ていったところである。いつも通りの自由っぷりと言えよう。イロハは朝から姿を見ていない。昨日も朝早く出ていったそうだが、その際に盟主に「遅くなるかも」と告げていたそうだ。
今日も早朝に出ていったのか、あるいはまだ帰ってきていないのか。
「またコトワリが死んだんじゃねえのか?」
鍛錬を中断したクエルクスが、汗を拭きながら答える。考えることは同じらしい。
「うん、僕もそれは考えたんだけど……」
「けど?」
「だったら、どうしてコトワリがいないのかなって」
「確かにな」
二人が話していると、家の扉が開いた。【秩序】の彼と共に、白い髪の少年――【白羽】の盟主である梟も出てくる。
「何かあったんですか?」
ティトンの問いに答えたのは、【秩序】の男だった。
「昨日の夜遅くに、このクランのメンバーが教会に転送されてきたんだがな。神父の話だと、復活の儀式をしてもまだ目を覚さないらしい」
彼の言葉に目を丸くしたティトンは、クエルクスと顔を見合わせた。
to be continued……
【エデン】世界の仕組みと神様について② - 透峰 零
2024/12/21 (Sat) 17:03:13
男に案内されたのは、クランから少し離れた西の方にある教会だった。そう大きいわけではなく、神父が一人で切り盛りしている。
「どうぞ」
古いがよく磨き込まれた扉が、【秩序】の男によって開かれる。彼に促され、最初に盟主が、その後に一緒についてきたティトンとクエルクスが並んで入った。
入ってすぐ目に入るのは、ずらりと並んだ礼拝用の会衆席だ。その両側には、上部が優美なアーチを描く大きなステンドグラスの窓が設置され、午後の柔らかな光を室内に差し入れている。
男はそちらには見向きもせずに横切ると、講壇の脇にある扉を開けてさらに三人を促す。白く短い回廊を抜けると、こじんまりとした両開きの扉が現れる。どうやらここが目的の場所らしい。扉の上部には『復活儀式の間』と書かれた木製のプレートがかかっていた。
男の規則正しいノックに、室内から「どうぞ」とくぐもった声が答える。
「失礼します」
男がドアを開ける。
礼拝堂ほどの広さはないが、同等の明るさがあるこざっぱりとした部屋だった。だが、部屋の広さに反して人の気配がないせいか妙に寒々しい。
中には寝台に似た石の台が五つ。そのいずれもが、ほのかに白い輝きを宿している。
「どうも、わざわざ済まないね」
そう言ったのは、部屋奥に佇んだ中年の神父だった。
だが、彼の傍にある寝台に見知った顔を見つけ、ティトンは挨拶することも忘れて思わず息を呑む。
「イロハ……」
代わりに名を呼んだのはクエルクスだ。
二人の前に立っていた盟主が、ゆっくりと神父に向けて頷く。
「うん、確かに。うちのメンバーで間違いないかな。近くに寄っても?」
「どうぞ」
「ありがとう――二人も、良ければ一緒に確認してもらえるかな」
盟主に言われ、ティトンとクエルクスも固い顔のまま寝台に近寄る。
見慣れた白い顔。閉じられた瞼。胸の上で組まれた両手。いつも首の後で束ねている黒髪は、死ぬ過程でほどけたのか寝台の上に広がっている。
静かに上下する胸や穏やかな表情もそうだが、こんな場所でなければ昼寝しているだけに見えただろう。
「今までこんなことは?」
「ありませんよ。だから問題なんです」
盟主に問われた神父が、小さく肩をすくめた。
「それに、他にも奇妙な点はありましてね。ログがないんですよ」
神父が指差す先は寝台の下部だ。通常ならばそこには、彼ら聖職者が「ログ」と呼ぶ死亡時刻と場所の情報が、転送と同時に浮かび上がってくるという。
ところが、イロハの寝台にはそれがない。
より正確に言えば、情報はあるのだがそれが読み取れないのだ。
「ほら、ここ。何か書いてあるのは分かるんですけど、意味を成さないようなめちゃくちゃな並びなんですよ。文字の色もそう。普通なら青色なんですけど、彼の場合は赤色だから気味が悪くて」
「確かに。これじゃあどこかわからないね」
赤い文字の群れをしげしげと眺めていたティトンも、神父の言葉に同意する。
「ったく。他人《ヒト》の失せ物探すのは得意なくせに、てめえが行き先不明になってどうすんだよ」
呆れたように言ったクエルクスがイロハの頬を引っ張る。が、すぐに眉を寄せて手を離した。
「おい。こんな場所で寝こけてるわりには、こいつやけに血色いいな? 体温も普通みたいだし」
「ああ、それですか。どうも、その辺りも転送した状態で固定されてるみたいなんですよね。昨日からずっと同じなので」
「どうりで。割と本気で引っ張ったのに、跡すらついてねえ」
ふん、とクエルクスは不愉快そうに鼻を鳴らす。先ほど彼につねられたイロハの頬は、赤くもなっていない。
そういえば、とティトンは神父に問うた。
「装備とかは一緒に転送されてきてないんですか? もしかしたら、どこに行ったかの手掛かりになるかも」
「それならあちらに」
神父が指差したのは、部屋の隅の暗がりだ。そこには、ティトンにも覚えがある肩掛け鞄と矢筒が置かれている。クエルクスが小さく舌をうった。
「なんかあれば良いけどな」
「というと?」
「あいつ、一人の時は強行突破でさっさと帰ること前提だからな。最低限の装備しか持って行ってねえんだよ」
「何ていうか……イロハらしいねえ」
苦笑し、ティトンは鞄の中をあらためる。中身は、以前見た時と大きく変わっていない。
火付道具と水筒、小ぶりのナイフ等々。金貨が数枚。ということは、彼は少なくとも蘇生代は身につけていたのだろう。
「あれ?」
と、そこで違和感を覚える。何かが足りない。けれど、それが何か分からない。
「ねえ、クエル」
「こいつ、弓はどうした?」
指摘され、その足りないものの正体に思い至ったティトンは思わず「それだ」と口に出した。
「ダンジョンに行ったなら、持っていたはずだよね?」
「だな。んでもって、それを易々と手放すとは思えねえ」
「いっつも言ってるもんねぇ」
二人の会話に気がついた盟主が、「言ってるって、何を?」と尋ねてきた。
クランメンバーの間では当たり前になっているが、共にダンジョンに潜らない盟主は知らないのかもしれない。
「半分冗談なんですけど、『俺が死んだら弓だけは持って帰ってね』って、よく言ってたんです」
「蘇生代の足しにされるなら、まだ他のものの方がマシだからってよ」
口々に言いながらも、二人の頭に浮かぶ疑問は同じことだ。
通常、武器などの装備は少し離れたところにあったとて、直前まで持っていた者の所有物と認識される。イロハの手荷物に金貨が余っていたということは、蘇生代の足しに神が持っていったことはないだろう。
つまり、考えられる可能性は二つ。
死ぬ前に彼自身が誰かに譲渡したか、あるいは――死んで生き返るまでの僅かな間に、何者かが新たな所有者となったか。
◆◇◆◇
時間は少し遡る。
ちょうどティトンとクエルクスが教会に向かっている頃、コトワリは店のカウンターに積み上がる謎の生き物を半眼で眺めているところだった。
「アロさん、何をされてるんです?」
「PIYO積みだよー。コトワリもやる?」
「いえ、結構」
青や黄、桃色に緑。どこから手に入れてくるのか不明だが、アロは色も形も異なるPIYOを器用に積み上げていく。
「お客さんが来たらどかして下さいよ」
「はーい」
そんなことを二人が話していると、折よく店の扉が開けられた。
「おや、いらっしゃい」
入ってきた人物を見て、コトワリはちょっと眉を上げた。知った人物だったのである。
「ギャザーさん、今日はどうされました?」
「いやぁ、その……店に用があるわけじゃないんだけど」
歯切れ悪く言ったのは、素材収集クラン【ポケット・ポケット】、通称【PP】のメンバーであるギャザー・レウニールである。
「けどー?」
「何か用があって来たのには変わりないんでしょう。ああ、クラン員への贈答なら、名前を書いてそこの籠に入れといて下さい。後で渡しておきますから」
慣れた様子で部屋の隅に置かれた三脚の上の籐籠を示すコトワリに、ギャザーは慌てて両手を振った。
「いやいや、違うんだって。そのさ……イロハ、どうしてるかなーと思って」
「イロハさんですか? 盟主の話だと、昨日の朝から出かけてるみたいですけど」
コトワリはアロの方に顔を向けるが、彼も同じらしく「知らないよー」と首を横に振っている。
「何か困り事ですか? それとも支援要請?」
言いながらも、晴れないギャザーの顔に「どうやら違うらしい」とコトワリは予想をつける。
では、一体何だというのか。胸に嫌な予感が湧き上がってくる。
「見間違いならいいんだけどさ……。さっき【生贄】の奴らとすれ違った時に、イロハのと似た弓を持ってたから気になって。ほら、あいつの弓って地味すぎて逆に目立つから」
所在なさげに指を上下に揺らし、ギャザーは扉の方を指差した。
to be continued……
Re: 【エデン】世界の仕組みと神様について③ - 透峰 零
2025/01/04 (Sat) 00:15:54
「確かに、そうですね」
コトワリが知る限り、イロハの持つ弓はそう凝ったものではなく――だからこそ、目を引くものではあった。
機械仕掛けのボウガンや、ロングボウではなく、女子供でも扱えそうな短弓だ。
幾つかの材質を組み合わせた複合弓だが、目を引くのはそこに魔獣の素材がまったく使われていないことだった。恐らく彼がエデンに辿り着く前から使っていたものなのだろう。
もう少しいいものを持たないのか、とコトワリもそれとなく聞いてみたのだが、彼は笑って「これが一番いい」と言っていた。
現に、彼の弓はよく飛ぶ。初級の冒険者が持つような木を組み合わせたようなもののくせに、だ。
彼自身の腕やスキルとの相性もあるのだろう。慣れだってある。
それでも、彼が他の弓で引く時は確かにあの弓に劣っていた。
「コトワリ?」
ギャザーに呼ばれ、我に返った。戸惑い顔のまま彼は続ける。
「そいつら、ダンジョンで拾ったから売りにいくって話しててさ。たまたま聞こえたんだけど、気になって」
その言葉に、コトワリは自分の口元が引き締まるのが分かった。
「彼ら、売りに行くと言っていたんですね?」
「お、おう」
答えを聞いた時には席を立っていた。アロの方も、すでに入口に移動している。
「ちょっと店番お願いします。行きましょう、アロさん」
「はーい」
ドアを開けて待ち構えていたアロと共に外に出れば、昼下がりの陽光が二人を出迎えた。
「でもコトワリさん、場所は分かるのー?」
「分かりませんよ。けれど、ギャザーさんは「さっき見た」と言ってました。ということは、この近くには間違いない。職人通りにでも行ってみましょう」
その言葉でアロにも分かったのだろう。重ねて尋ねてはこなかった。
エデンにある店の数は、武器屋だけでも十は下らない。防具屋などが兼用しているものも含めれば、もっとその数は増えるだろう。店舗位置も、なんとなく固まってはいるが個人経営で細々とやっているところもあるため、きちんと統計を取れば果たしてどれだけの数があるのか。
そんなわけで、コトワリが最初に向かったのはエデンで武器防具を扱う店が集まる一画だった。幸いというべきか、場所はここからそう遠くない。体力のないコトワリの足でも、十五分もあれば事足りる。
「当たったー」
「そうですね」
珍しくよそ見をしないアロが前方を指差した。赤煉瓦が敷き詰められた鍛冶屋町の大通りの入口で、息を整えがてらコトワリも立ち止まる。
二人の視線の先。ちょうど近くの店舗から、見覚えのある刺青を施した一団が退出してきたところだった。数は三人。距離にして五メートルもないだろう。
「ケッ、しけてやがるぜ」
その内の一人、頬に刺青のある男が店に向かって唾を吐きかけた。その隣で「デカいからって調子のってんだよ」と小柄な男が同意を示す。
二人から少し遅れて出てきた小太りの男は「本当、ひどいよね」と、小刻みに首を上下に振っている。彼の手にある弓は、確かにコトワリにも覚えのあるものだった。背を向けて去りかける三人に、コトワリは咄嗟に声をかける。
「待って下さい」
「あ?」
振り返った小柄な男が、低音で唸った。普段ならば「何でもないです、失礼しました」と回れ右をしたくなる種類の声音である。というか、目すら合わせたくはない。隣にいたアロも意外だったのか、ぱちぱちと目を瞬かせてコトワリを見つめている。
臆病に波打つ心臓を深呼吸で黙らせ、コトワリは彼らを刺激しないように慎重に言葉を紡ぐ。
「その弓をどこで?」
「はぁ?」
小柄な男が、片目を眇《すが》めて威嚇するように首を傾けた。
「なんだぁ、お前? 関係あんのかよ」
「うちのクラン員の持っている武器と似ているもので……。失礼ですが、確認させて下さい」
真っ直ぐに差し出したコトワリの右手。そこに輝くハロを一瞥した男の唇が「ああ」と、嘲弄の形に歪む。
「誰かと思えば、白羽の雑魚店主とPIYO野郎か」
男自身のハロは、言うだけあってそれなりに大きい。左足首に輝く丸と四角がズレて重なりあった図形は、人の顔面くらいの大きさはある。
ぐっと唇を引き結んだコトワリの顔を下から覗き込み、ことさら煽るように男は言葉を重ねる。
「これはな、俺たちがダンジョンで拾ったんだよ。お前みたいな雑魚一人じゃ到底行けないダンジョンの底でな」
「そ、そうだよ。証拠もないのに、妙な因縁つけないでほしいな」
小太りの男も甲高い声で主張する。媚を含んだ、嫌な声だった。その援護に力を得たのか、小柄な男は腕を組んでニヤニヤとコトワリを見つめていたが、ふと片眉を上げて傍の男をふり仰いだ。
「なぁ、ガルヴァ。お前も何とか言ってやれよ」
促されたのは、今まで黙っていた頬に刺青を持つ男だ。
「何とかって。そもそもお前ら、そんな奴ら相手にするなよ。時間の無駄だろ」
彼はコトワリの方を見もしなかった。馬鹿にする価値もない、と言わんばかりの態度である。
「そもそも、武器がわかるくらい戦闘に連れて行ってもらってんのかも怪しいし?」
「確かにな。足手纏いだし、置いていかれてるだろ」
「!」
痛いところを突かれ、コトワリは息を呑んだ。確かに、コトワリはティトンやクエルクスに比べて彼と共に戦闘に参加する機会は少ない。
その数少ない戦闘の最中では武器に注目する余裕などないし、彼らの動きは早すぎた。
同じ後衛職だから並んで歩く時はどうかと思考を巡らせれば、そもそも並んで歩いた記憶がほとんどない。
なぜか。非戦闘職であるコトワリを守るためだ。前衛にはティトンとクエルクスがおり、アロは武器と本人の自由度の高さからポジションの固定はされていない。そうなると、戦闘力のないコトワリを真ん中にして安全性を高めるためには、必然的にイロハが殿が務めることになる。
だから、コトワリはダンジョン内で彼と並ぶことはほとんどなかった。
けれど、とコトワリは挫けそうになる己に言い返す。
戦闘中でなくても、自分は彼の弓を覚えているはずだ。
クランの庭で、ベンチに座って手入れする姿を知っている。その指の形すら、克明に思い出せた。
「……それでも」
「そこまで気になるなら本人に聞いてみたらどうだ? まぁ、《《聞ければ》》だがな」
言い募るコトワリに被せるように、ガルヴァが歯を剥いた。他の二人も「ああ、そりゃ良いな」「どうなったんだろうね」と言って、ゲラゲラと笑いを重ねる。
奇妙な言い回しに、コトワリは己の眉が寄っていくのが分かった。
「どういうことですか?」
「どうもこうも、そのまんまの意味だ」
追及する前に、コトワリは今までの流れを整理する。
考えてみると、確かにおかしい。そもそも、イロハがおいそれと大事な武器を落としたりするだろうか。答えは否だ。
では彼らが奪った? それも考えにくい。売るにしても旨みが少ないし、イロハが許さないだろう。しばしば誤解されるが、別に彼は非戦主義者ではない。沸点は高いし普段は温厚であるが、暴力にはしっかり暴力で返す。
右の頬を張られたら次の瞬間には相手の両頬を拳骨で殴るくらいには切り替えが早い。もっとも、そうでないと用心棒などつとまらないのだろう。
考え込んでいると、話は終わったとばかりに、三人が再び踵を返す。
その前に立ち塞がる人物がいた。
「なんだ。今度はお前か、PIYO野郎」
「返してよ」
三人――特に、後方で弓を持つ小太りの男をまっすぐに見つめたアロが平坦な声で言った。普段のころころとよく変わる豊かな表情はなりを潜め、感情の読めない琥珀色の瞳が三人を睥睨する。
その変わりようにはコトワリも少なからず驚いたが、相対した三人の衝撃はそれ以上だったらしい。
返す言葉を咄嗟に出せない彼らに向けて、アロが無言で一歩を踏み出す。
「……っ」
びくり、と小柄な男が肩を跳ねさせた。だが、すぐにそんな自分を恥じるようにアロを睨みつける。
「……だから、嫌だっつってんだろが!」
裏返った声と同時に、足首にある男のハロが淡く輝きを帯びた。瞬間的に跳ね上がった右足が、迷いなくアロの顔面に向かっていく。
思わず目を瞑ったコトワリの耳に、甲高く乾いた音が届いた。
to be continued……
Re: 【エデン】世界の仕組みと神様について④ - 透峰 零
2025/01/26 (Sun) 17:14:54
しかし、予想に反してアロの悲鳴はいつまで経っても聞こえてこない。代わりに聞こえたのは、聞き覚えのある爽やかな声。
「良くない。街中での無用なスキル行使は良くないよ」
目を開いたコトワリの前でひるがえったのは、端を黄色く染められた白の長髪。
「げっ」と【生贄】の三人が呻き声を上げた。
「ダック隊長〜?」
いつもの間伸びした口調に戻ったアロの呼び声に、目の前の人物が振り返る。
「昨日ぶりだね、アロ君」
きらりと白い歯を輝かせたのは、クラン【ダンスインザダック】のリーダー格である男である。通称はダック隊長。彼の本名を、少なくともコトワリは知らない。
「それで、これは一体どういうことかな?」
再び体を反転させた彼が、今度は【生贄】の三人に向き直る。その手にあるのは、恐らく蹴撃を受け止めたであろう小型のナイフだ。護身用にしか使い道のなさそうな頼りない造りのそれで、スキルののった攻撃を受け止めたのだとすると相当な腕前だ。ナイフは鞘から抜かれていないが、彼がその気になれば目の前の三人を制圧することは容易いだろう。
戦闘技能においては素人同然のコトワリでも、それくらいは理解できた。
「別に」
先ほどアロに蹴りかかった男が、しゃがみ込んだままで吐き捨てる。攻撃を受け止められた際に、衝撃を逃がすのに失敗したのかもしれない。
「因縁つけてきたのは、そいつらが先だよ」
「ほう」
ダックが目を瞬かせる。
「しかし、何か理由があるのだろう。そうでなければ、君が蹴りかかるほどに拗《こじ》れることもあるまい」
「さあね。それはそいつらに聞いてくれよ」
コトワリとアロを睨みつけながら、男が立ち上がった。いつの間にか、他の二人は既に距離を取っている。ダックの仲裁を幸いに、逃げるつもりだ。
「待て……!」
コトワリの制止が意味を成すはずもなく。
反転した男は、待っていた仲間二人を伴ってあっという間に雑踏へと紛れていった。
「大丈夫だったかい?」
再び振り返ったダックに尋ねられ、伸ばしていた手を下ろしたコトワリは、力ない笑みを浮かべた。
「はい、すみません」
「余計なお世話かと思ったが、その様子だと私の判断は間違っていなかったようだ」
ハッハ、と笑う彼にコトワリは「ありがとうございます」と頭を下げた。
「隊長さん、ありがとねー」
「なに、アロー君達が無事で何よりだ。しかし、一体どうして彼らと関わることになったんだい?」
軽快だったダックの表情が、わずかに曇る。彼も【生贄】については良い印象を持っていないのだろう。
「実は……」と、コトワリはざっとことの経緯を説明する。聞き終えたダックは「ふむ」と顎に手を当てた。
「確かにアサケノ君の弓は、《《原価なら》》大した価値はないだろうね。もっとも、あれに値段はつけれないだろうが。――そうですよね?」
コトワリの背後に目をやり、ダックが言う。振り返ったコトワリは、そこで初めて己の背後に男が立っているのに気がついた。
猪首のがっしりとした短躯と四角い面は、いかにも職人という外見をしている。恐らくは、先ほど【生贄】の三人が悪態をついて出てきたこの店の主人なのだろう。静かな迫力に押され、コトワリは一歩後ずさる。
「いつからそこに……?」
店主の大きな目がギョロリと動いた。
「お前がそこの隊長に事情を話してる辺りから、かな。騒ぎが聞こえたから、気になって様子を窺ってたんだよ」
「そうですか。それは気づかずに失礼しました」
一礼し、コトワリは男に問いかける。
「それで、先ほどの。値段をつけれないというのは?」
「つけようとしたら、高すぎるんだよねー」
店主より先に答えたのはアロだ。
少し目を丸くした店主は、ついで目元を和ませてアロを見上げた。
「よく分かったな、坊主」
「えへへー。何となくー」
褒められたアロは、くすぐったそうに頭をかいた。
再び難しい顔になった店主は腕を組み、慎重に口を開く。
「あれは、原価だけで言えば本当に大したことはない。何しろ、貴重な素材は一切使ってないからな」
「材料だけなら誰でも揃えられる、と」
店主は真顔で頷いた。
「そうだ。ただな、同じものを作ることは不可能だよ。少なくとも、俺の知る限りエデンで作れる人間はいない。あれはな、恐ろしく手間が掛かってる上に、誰も真似できないような職人技の末に作られたもんだ。俺は弓は専門外だが、木材の一つとっても年単位の時間をかけてるはずだぞ。……一度だけちらっと見せてもらったが、貼り合わせてる木の硬さや種類も全部微妙に異なる上に、動物の骨や腱も複数使ってる。合わせてる膠《にかわ》にしたって、全部調合が違う。はっきり言って変態の所業だぞ、あれは」
なるほど、聞いているだけで頭が痛くなってくる代物である。
「確かに値段はつけれそうにないですね」
それに、簡単に手放すはずもない、とコトワリは胸のうちだけで付け足す。
「まぁな。この界隈だとあいつの弓はおっかなくて触れねえって有名だし、【生贄】の奴らに高額の金を渡す奴はいないよ。みんな大なり小なりアサには世話にはなってるからな」
アサ、と口の中で繰り返したコトワリはそれがイロハのことだと少しして気がついた。
「そもそも、あいつらが持ってくる武器や素材は正規のルートかも怪しいんだよな。混ぜ物が多かったり、呪われてたりするし。ああ、さっき持ってきた爆薬用の紅焔花《ピクラリダ》は珍しくマトモだったか。でもこの間だって」
「あ、あの。次はどこに行くとか言ってませんでしたか?」
放っておけば際限なく愚痴を続けそうな店主の言葉を、コトワリは遮った。
「うん? いや、すまん。特には何も聞いてない」
「多分、そこまで考えてないんじゃないー?」
いつになく辛辣だが、アロの見解にはコトワリも頷くしかなかった。
店主に礼を言い、店内へと戻るのを見送ったコトワリは「さて」と呟いて顎に指を当てる。
「当てずっぽうで追うのも無駄が多いですし……どうしたものか」
ちょうどその時、通りの入り口から新たな一団が職人通りに足を踏み入れた。
彼らが身に付けているのは揃いの赤い石だ。クラン、【赤嘴《ベックルージュ》】。入隊条件にハロの大きさを組み込むなど、実力主義の大手クランである。
その内の一人、白緑色の衣に包んだ少女がコトワリの姿に目を止めて足を止めた。
近くのメンバーに二言、三言断りを入れて輪を抜けてきた彼女が、コトワリの方に早足で向かってくる。
「コトワリくん、偶然だね」
「ゆあさん……」
仲間から離れた途端に弾んだ声をあげる彼女こそ、コトワリの恋人にして【赤嘴】きっての回復のエキスパートである、ゆあだ。
「こんなところで会うなんて珍しいね。あ、もしかして武器屋さんに用があったのはそっちの彼の方?」
ゆあに視線を向けられ、アロがにっこりと笑う。
「アロ・アローだよー」
「ありがとう。私はゆあ、よろしくね」
笑みを返したゆあは、ダックにも小さく頭を下げた。
「お久しぶりです」
「ああ。君の方は相変わらず忙しいようだな」
どうやら、二人は知らない仲ではないらしい。軽い挨拶だけで済ませると、ゆあは改めて首を傾げた。
「隊長さんも一緒って、ますますどういう状況?」
「僕らのクランのメンバーが持ってた武器を、別クランの人が持ってたんですよ。ここで売ろうとしてたみたいなんで理由を聞いたら、逆上されまして……。隊長さんには、そこを助けていただきました。ただ、その間に逃げられてしまったから、どうしたものかと」
ため息をついたコトワリに、ゆあは「大変だったね」と顔を曇らせた。
「売ろうとして失敗したなら……。素材にバラして売ったりするかもしれないし、鍛治クランの方に行ってみたらどうかな?」
ゆあの言葉に、アロが「そっかー」と手を打った。一方、「バラす」という言葉に顔を引き攣らせたのはコトワリである。
先ほどの店主の言葉が本当なら、いよいよ取り返しがつかない。
「ありがとうございます、ゆあさん。行ってみます」
「手伝おうか?」
控え目な提案に、コトワリは小さくかぶりを振った。視界の端では、ゆあを待っている【赤嘴】の面子がコトワリ達に好奇の視線を注いでいるのが見える。あまり彼女に負担をかけさせるわけにもいかない。
「大丈夫ですよ、お気持ちだけもらっておきます」
それでもまだ心配そうな彼女に微笑すれば、隣から「むぅ」というダックの唸りが聞こえた。
「私も一緒に行ければいいのだが……。あいにく、この後はコダック達とダンジョンに行く依頼があってな」
「大丈夫ー」
心の底から無念そうなダックに、にぱっとアロが笑いかける。
「なんとかなるよー。ね、コトワリ」
「……そうですね」
正確には「なんとかしないといけない」ではあるのだが。
しかし、アロの笑顔を見ていると不思議と先ほどまでの焦燥はなりをひそめていた。
案外、「なんとかならない」ことなんて世界には少ないのかもしれない。そんな気持ちのまま、コトワリは足を踏み出した。
to be continued……
【エデン】世界の仕組みと神様について⑤ - 透峰 零
2025/03/15 (Sat) 18:24:30
「とりあえずどうする?」
教会から出たクエルクスは開口一番、ティトンに問うた。盟主はもうしばらく教会に留まるという。
「……職人通りに行ってみよう。武器に関することなら、何か情報があるかもしれない」
顎先を指で摘んで考えながら、さらにティトンは続ける。
「それから、通り道には鍛治クランもあるよね。そっちもついでに当たってみよう。ないとは思うけど、拾ったなら素材として売る連中が現れるかもしれない」
「そうだな。片っ端から聞いて回るか。あんな骨董品、持ってる奴がいたら相当目立つはずだしな」
頷きあった二人は、鍛治クランの方へと歩を進める。
鍛治クランとは、その名の通り武具や防具の製作に特化したクランである。彼らが作ったものの一部は鍛冶屋で売られたりもするため、クランルームは職人通りの近くに構えられていた。
赤煉瓦が特徴的な職人通りをしばらく進んだところで裏道へ入り、東へと進む。冬であるにも関わらず、この辺りは気温が高い。商品を扱う店舗ではなく、作業場が多くなるからだろう。現に今も、あちらこちらから鉄を打つ音と火の気配が漂っている。
「……いつもながら、ここらの熱気はすごいな」
コートのボタンを外しながらぼやいたクエルクスに、ティトンも頷く。
「凄いよね。火は屋内で使ってるはずなのに、ここまで熱が届いてくる」
「中はもっと暑いんだろうな。鍛治クランの奴らが年中半袖なのも納得行くってもんだ」
話しながらも、二人の目は油断なく周囲を探っている。だが、情報が入ってきたのは耳からだった。
「ほらよ。持っていきな」
低い女の声と、ジャラリという重々しい音。
二人が同時に首を回した先の路地では、一人の女が三人組に小袋を渡しているところだった。頭上高くで一つにまとめられた真紅の髪と難燃性の作業着。腰に吊られた何本もの鎚からして、鍛治クランの人間なのだろう。女性ではあるが身長は高く、コトワリと同じくらいに見えた。
彼女が手渡した小袋はいかにも中身が詰まっていそうであり、先ほどの音はここから発されたと見て間違いないだろう。
「【生贄】の奴らじゃねえか……。なんでこんなところにいるんだ?」
声を潜めてクエルクスが囁く。
「確かに、妙だね」
ティトンも三人組の持つ刺青には覚えがあった。【生贄】は、他のクランと折り合いが悪い。ダンジョンの内外を問わず、彼らの素行の悪さは有名である。
そんな【生贄】のメンバーがわざわざ鍛治クランと取引などするだろうか。鍛治クランの人間にしても、応じるとは思えなかった。
「おい、あれ」
クエルクスが驚いたような声を上げる。その視線の先を辿り、ティトンもすぐに彼の動揺の理由を悟った。
小袋の代わりに女が受け取ったのは、見覚えのある小弓である。
「イロハの、だね」
【生贄】の三人はティトン達とは逆方向へと素早く踵を返すと、足早に離れていった。その背中を見送っていた女が振り返る。
振り返り、ぎょっと目を見開いた。恐らくは、路地の入り口に立つティトンとクエルクスに今になって気がついたのだろう。
だが、ティトンの首から下がる白い羽のついた首飾りを見た途端にその表情が安堵に変わる。
「なんだ、良かった。あんたら白羽の人か」
言いながら、彼女は腰に差した鎚の一つを手に取り打撃面を二人に見せた。
丸い小口の周囲を縁取るように彫られた茨冠の紋章。鍛治クラン【隠者の茨冠】――通称、【隠者】に所属するクラン員の証である。
「あたしは【隠者】のリーリェ。リーリェ・リフラン。ちょうど良かった。これ、ケノに返しといて」
笑いながら、彼女は手にした小弓を差し出した。手を出しながら、ティトンは首を傾げる。
「ケノ……って、イロハのこと?」
「そういやそんな名前だっけ。そう、そいつ」
女性の答えに、ティトンは「はぁ」と曖昧な声を出した。もしここにコトワリがいたら、「あの人、呼び名に頓着しなさすぎでしょ」と呆れたかもしれない。
「貸しひとつだよ、って。あいつら、価値のわからない馬鹿だから分解《バラ》しかねないからさ」
「それには同意するがな、あんたの目的はなんだ。結構な大金だったようだが?」
横から口を挟んだクエルクスに、女は軽く肩をすくめた。
「ああ、良いよ。あれ、一部は石だからね」
「なに?」
「硬貨は表面だけだよ。底の方には石を詰めてある。あいつら、よっぽど焦ってたんだね。碌に確認もしなかったよ」
「……それって、詐欺になるんじゃないの?」
ティトンの指摘に、女はけろりとして言った。
「あたしは具体的な値段の提示はしてないよ。「その弓ならこれくらい出してやる」って、袋を見せただけだもん。中を確認しないあいつらが悪い」
さすがは鍛治クランのメンバーである。呆れ半分、感心半分でティトンは目の前の女性を見上げた。これくらい抜け目がないと、武器屋や防具屋とも直接値段交渉はできないのかもしれない。
軽く頭を左右に振ったクエルクスが口を挟む。
「言い分はわかるが、あいつら相手に通じるのか?」
「さぁ? 文句言ってくるようなら相手してやるけどね。というか、何であいつらが持ってたのさ」
「それは俺らの方が聞きたいな。あんた、その辺は何も聞いてないのか?」
リーリェは返事の代わりに肩を大仰にすくめた。
「聞いたよ。でも、あいつら「拾った」の一点ばりでね。埒が明かなかったんだよ」
「拾った……ねぇ」
低い声でクエルクスは唸った。彼が何を考えているかは、ティトンにも分かる。あの弓が手放された時――すなわち、イロハが死んだ時に彼らは近くいた可能性が高い。だとすれば、彼の死と何らかの因果関係があると考えるのが自然だろう。
黙り込んだ二人の微妙な空気に、リーリェは眉を寄せた。
「なに。ケノのやつ、何かドジ踏んだの?」
「いや、何というか……」
言葉を濁したクエルクスが目を逸らした。ちょうどその時。
「ティトンとクエルさんだー」
折よくと言うべきか、アロの声が背後から聞こえた。
二人が振り返ると、疲労困憊しているコトワリと、いつもと変わらない様子のアロが路地を覗き込んでいる。
「あれー。それ、なんでティトンが持ってるの?」
軽く目を瞠ったアロが、ティトンの手元を指差して小走りで傍に寄ってくる。
「それ、【生贄】の人たちが持っていっちゃってたんだよー。大変だったんだから」
あまり大変そうでない口調で続けられたアロの言葉に、ティトンとクエルクスは無言のまま視線を交わした。
どうやらあちらの二人も、別ルートからこの弓の行方を追っていたらしい。
「この人が取り返してくれたんだよ」
ティトンの言葉に、リーリェが軽く会釈をする。
「ありがとうございますー」
「お手数おかけしました」
「良いって、良いって。困った時はお互い様だよ。あいつにもよろしく言っといて」
ニッと笑った彼女は片手を振って「じゃあね」と近くの建物へと姿を消した。
あとに取り残された四人は誰にともなく顔を見合わす。
「さて、と」
最初に口を開いたのはティトンだった。
「ちょっと、情報整理の必要がありそうだね」
【エデン】世界の仕組みと神様について⑥ - 透峰 零
2025/04/29 (Tue) 23:34:24
ティトンの提案に、他三人はその場に留まって続く言葉を待つ。
「僕とクエルは教会に行ってたんだ。【秩序】の人が盟主さんを教会に呼んだから、それについて行ったんだけどね。呼ばれた理由ってのは、昨夜から生き返らない【白羽】のメンバーがいるから確認して欲しいってものだった」
そこでティトンは一度言葉を切る。誰とはなしに、ティトンの持つ短弓に視線が集まってしまうのは仕方のないことだろう。弓を顎でしゃくり、クエルクスが後を引き継ぐ。
「まーそこで、アレがないのに気がついてな。職人通りに行く道すがら、鍛治クランの方も覗いてみようって話になったんだよ。あの武器オタクどもなら、なんか情報拾ってるかもしれんからな。そしたら、【隠者】の女が【生贄】の連中からその弓を買い取ってたんだ」
「実際には買い叩いたって感じだけどね。で、その【隠者】の人が「持ち主に返しといて」って僕らに弓を渡してくれたんだ」
なるほど、とコトワリは顎に手をあてる。彼らの話はこれで全部なのだろう。次はこちらの番、とでもいうようにティトンが右手をコトワリに向けてくる。
「……というか、生き返らない?」
今さらながらの重大情報に、コトワリは愕然と呟く。
「イロハさん、死んじゃってたのー?」
「うん」
アロの確認に、ティトンが頷く。
「外傷は?」
「今のところないよ。でもそもそも、生き返らないってのがイレギュラーだから、傷だけ治ったってことも考えられるよね」
言って、ティトンはクエルクスを見上げる。彼の意を汲んだクエルクスも「そうだな」と答えた。
「俺も一緒に確認したが、でかい傷は見当たらなかった。髪がほどけてたから、戦闘の類はあったのかもしれんがな。呑気に寝てるだけに見えたぜ。だから、死因は分からん」
「イロハのことだから、毒ってことも考えられるけど……」
ティトンが顔を曇らせる。彼がその推論に辿り着いた理由は、コトワリにも理解できた。
イロハは戦闘手段の幅広さ・ハロの大きさ共に手堅い実力を持つが、短所がないわけではない。
毒に弱いのだ。
これは毒が効きやすいというより、より正確に言うと「状態異常からの回復がしにくい」というものだった。
それは本人にも自覚があるのだろう。
回復薬を多めに消費する負い目もあってか、中途半端な解毒状態で自室で伸びているところを発見されたこともある。
解毒ポーションの精製に伴う毒舌状態のコトワリが怒って以降、そういうところは見ていないが、だからといって彼の体質までが変わるわけではない。
外傷がないというなら、確かに中毒死と考えるのが自然ではあるだろう。
だが、今回は――
「違うと思うよー」
異を唱えたのはアロだった。
「だって、それなら【生贄】の人達が弓を持ってるのおかしくない?」
「それだ。連中、「拾った」って言ってたらしいが本当なのか?」
クエルクスに問われ、コトワリは素直に「そうですね」と頷いた。
「何でも、《《僕のような雑魚一人では行けないダンジョンの底》》で拾ったらしいですよ」
「コトワリさん、もしかして根に持ってるー?」
「ははは、まさか」
コトワリは乾いた笑いを響かせた。二人の話を聞いたティトンが眉を寄せる。
「コトワリ一人では行けない……。それに《《底》》ってことは、ある程度の深度と難度のある地下型ダンジョンってことか」
「だが、あいつが一人で短期突破できると考えたってことは……ランクはB+。いってたとしてもA+ってところか」
「うん、Sランクではないだろうね」
ティトンとクエルクスのやり取りに、コトワリは眉を寄せる。
「あの、彼は教会にいたんですよね。でしたら、ログが残っているはずでは?」
「ログ自体はあるんだけどね。読めないような変な文字の並びになってるし、色も青じゃなくて赤色になっててさ。それもあって、神父様も怖かったみたい。だから、イロハがいつ・どこで死んだか分からないんだよ」
「なるほど、そういうことだったんですね」
「だが、今のでだいぶと絞り込めたんじゃねえか? でかしたぞ、ガキ共」
クエルクスがニヤリと笑う。そこでアロが「あ」と小さく声を上げた。
「そういえばー。【生贄】の人達がおかしなこと言ってたよ」
「おかしなこと?」
おうむ返したティトンに、アロは「うん」と頷いた。
「「そこまで気になるなら本人に聞いてみたらどうだ? 聞ければな」って。他の二人も、それ聞いて笑ってたんだ。気持ち悪かったー。あれ、イロハさんが死んでたの知ってたのかな」
ティトンとクエルクスの顔色がさっと変わった。
「あいつら……!」
呻き、クエルクスが歯を軋らせた。その前で、コトワリは慌てて両手を振る。
あの三人が何かをしたのは間違いないだろうが、彼らが殺したと考えるのは短慮に過ぎないだろうか。
「いや、待ってください。彼らの実力でイロハさんが殺せるとは思えません」
「阿呆、俺だってそこまで単純じゃねーよ。おいアロ、他にはあいつら何か言ってなかったか? 何でもいい」
「んっとー」と顎に指を当てて中空を睨んだアロに、ティトンが助け舟を出す。
「さっき、アロは「他の二人も笑ってた」って言ってたね。その時、どんなことを話してたか覚えてる?」
「確か「それは良いな」って。あと、「どうなったんだろうな」って言ってたと思うよ」
「へぇ」と、ティトンの声の温度が下がった。思わずコトワリは一歩後ずさる。
「……僕の推論を話すよ」
「ど、どうぞ」
「たぶん、あの三人はイロハを直接殺してはいない。けれど、いずれ死ぬことを理解して放置した。あるいは、殺されるように仕向けた。そんなところじゃないかな」
「俺も同感だ。じゃねぇと、「どうなったのか」なんて感想は出てこない。まぁ、それは――」
と、クエルクスはそこで言葉を切って半身だけで振り向いた。
「本人共に直接聞きゃ済む話だわな」
彼の視線の先。路地の入り口では、軽くなった袋を片手に憤りの表情を浮かべた【生贄】の三人がやって来るところだった。
「飛んで火にいる何とやら、だ」
獰猛に笑ったクエルクスが、腰に下げた短剣の柄を軽く叩いた。
【エデン】世界の仕組みと神様について⑦ - 透峰 零
2025/06/22 (Sun) 11:07:22
「あ?」
最初に四人に気がついたのは小柄な男だった。訝しげな彼の声に釣られ、他の二人も足を止める。
「何だ、今度は全員揃ってお出迎えか。【白羽】はよっぽど暇なんだな」
「全員じゃないだろうが」
小柄な男の皮肉に、低い声で答えたのはクエルだ。一瞬、【生贄】の三人の顔に「またか」とでも言いたそうな白けた表情が浮かぶ。
「いい加減にしろよな」
一歩踏み出したリーダー格の刺青の男――確か他のメンバーにガルヴァと呼ばれていた――が、わざとらしいうんざり顔でコトワリを見やった。
「さっきから、人のいく先いく先で邪魔しやがって。妙な言いがかりは止めてくれよ。仲間を増やせば何とかなるとでも思ったのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
咄嗟のことで弱気な返しをしたのがいけなかった。勢いを得たのか、ガルヴァが厳しい声を出す。
「さっきも言ったが、証拠は何もないだろうが。良い加減に迷惑なんだよ。盟主を通して正式に抗議しても良いんだぜ」
「証拠?」
繰り返したのはコトワリではない。ティトンだ。【生贄】の三人だけではなく、その場にいる全員の視線が青髪の青年に向けられる。
「証拠はないよ、確かにね。でも、この弓は確かにうちのクラン員の持つものだ。疑うのなら、鑑定をお願いしても良いよ。鑑定スキルを持つ知り合いなら何人か心当たりがある。前の持ち主が誰だったか遡って見るくらいは可能なはずだ。それとも、持ち主が誰か分かったら不都合なことでもあるの?」
「誰もんなことは言ってねえだろが」
「そう、つまり君たちにはやましいことが無いんだね。だったら、この弓を手に入れた時の状況を話せるはずだ。そうでないと僕らは納得できない。引き下がれない」
常の明るいものとは異なる、静かな圧を込めた口調だった。
「何も見ていない、聞いていないというなら、ダンジョンの名前だけでも教えてもらおうか。そうしたら、僕が自分で調査に行くよ。――君たちに行けて、僕が行けないはずがないからね」
硬いものでも飲み込んだような顔で三人は黙り込んだ。
彼らも、ティトンのランクが自分達よりはるかに上だという自覚はあるのだろう。加えて、エデンでも名の通った調査士であるティトンに引け目もあったのかもしれない。
だが、無言の睨み合いはそう長く続かなかった。痺れを切らした小柄な男が腕を横薙ぎに振るったのだ。
「うるせえ! ごちゃごちゃ抜かすな! ともかく、俺たちは関係ねえってんだよ!」
恐らくはティトンを脅すための動きだったのだろう。だが、いかんせん勢いが強すぎた。
棒立ちならば確実に顔面を強打したであろう腕を、ティトンはバックステップで躱わす。同時に、右手の槌が油断なく三人へと向けられた。流れるような一連の動きは長年の経験が成せる技であり、半ば無意識だったと言ってもいい。
「はっ、街中でやろうってのか。このチビ」
彼が構えたことで【生贄】の三人の緊張感も一気に高まった。前に出た小柄な男が、わずかに腰を落とす。コトワリは彼の能力を知らないが、先ほど職人通りでアロを蹴ろうとしたことからして、脚部強化など小回りの聞くスキルなのだろう。
対して、ティトンのスキルは刻印魔法と呼ばれる強力な攻撃力を有するものだ。その名の通り、槌で刻印された印を通して雷水火風という属性の異なる攻撃を繰り出すことができるのである。
エデンでもトップクラスの攻撃力を誇るスキルには間違いないが、こういった狭い場所で使うのには向いていない。それはティトンも理解しているのだろう。珍しく、目に迷いがある。
物の多い裏路地だ。炎や雷はどれだけ威力を抑えても引火の可能性がある以上は危なすぎる。かといって水や風では、加減すると相手を止めるほどの威力は出ない。
それはアロのチャクラムにしても同じだった。狭い通路では振り回せないし、無理に使ったところで威力は半減してしまう。
唯一小回りがききそうなクエルクスは隊列の後方だ。入れ替わることは可能だが、どうしたって隙はできる。
――では、最後尾にいる自分は?
自問自答し、コトワリは腰に下げた鞄に手を伸ばした。取り出したのは小ぶりな硝子瓶。
「ティトンさん、下がって下さい」
言うと同時に、瓶を前方に投擲する。素直に一歩下がったティトンと【生贄】の三人の間に落ちた瓶が、乾いた音を響かせて粉々に砕け散った。刺激臭と共に、ビビッドなオレンジ色の液体が地面に広がる。内心でコトワリは毒づいた。
(しまった、距離が足りない)
液体である以上は三人に直接かけないと威力は激減してしまう。気化した成分を吸うだけでは、望むだけの効果は到底得られない。もう一度投げるかとコトワリが迷っていると、ティトンの真後ろにいたアロが動いた。
後退したティトンと入れ替わるように前に出ると、地面すれすれまで体を沈み込ませてこぼれた液体に手をかざす。
「チェーンジ、《ガス》」
ぶわり、と空気がオレンジ色に染まった。アロのスキルで液体が一気に気化したのだ。顔を上げたアロがティトンへと視線をやる。それだけで、彼はアロの狙いを理解したようだった。
「オッケー!」
振りかぶった槌の先端が、手近な壁に叩きつけられる。硬質な音と共に刻印されたのは、中央に三本線が走る新緑色の印だ。
「グリーン・ワン! トリガー!」
叫びと同時に発動した局所的な強風が、滞留していたオレンジ色のガスを【生贄】の三人へと叩きつける。
「う……っ、わっ……」
「てめっ……ら」
「あ、うわわわわぁあぁ……」
三者三様の悲鳴。どうやら、コトワリの企みは二人のフォローでうまくいったようだ。
ほっとコトワリが胸を撫で下ろしている前で、クエルクスがコートを脱いだ。
「おら、ガキ共は下がっとけ」
乱暴に言いながら左右に振られたコートが、彼の手の中で振られたそのままで形で固まる。クエルクスの持つスキルは、触れているものに不壊の『盾』属性を与えると言うものだ。おおかた、わずかに残ったガスの侵入を阻むためにコートを盾としたのだろう。歪な形で固定されたコートを片手で支えたクエルクスが顔を顰める。
「くせえ」
「すみませんね。使えそうな手持ちのものが、それくらいしかなくて」
コトワリは小さく舌を出した。困った時の彼の癖である。
「あれ、吸ったらどうなるの?」
クエルクスに最前列を譲ったティトンが、盾の向こうを透かし見るように目を細めた。咄嗟に風で相手に吹きつけたが、詳しい効能までは彼も知らなかったらしい。
「麻痺のデバフがかかりますね」
「喋れんのかよ、それ」
「そこまで重症化はしないはずですよ。ちょっと気合い入れたら全然いけます」
「コトワリさん、怒ってるー?」
アロの問いに、コトワリはふっと唇の端を歪めた。
「死ぬよりはマシじゃないですか? 毒を投げなかっただけ褒めて欲しいですね。――まぁ、ダンジョン内だと生き返るから何をしても良い、と考える方もいますけど」
【生贄】の三人にも聞こえるようにコトワリは答える。アロに対する返答としてはズレていたが、言及する者はこの場にいなかった。
「そろそろ良いだろ」
呟いたクエルクスの手の中で、元の柔らかさを取り戻したコートがはためく。その向こうから現れたのは、地面に丸くなって呻き声を上げる【生贄】の三人だ。
彼らの前にしゃがみ込んだクエルクスが、低い声で問いかける。
「で、どうなんだ? イロハが死んだのはお前らが何か仕組んだのか」
【エデン】世界の仕組みと神様について⑧ - 透峰 零
2025/07/17 (Thu) 17:59:38
「死んだ」というクエルクスの言葉に、わずかにガルヴァの目が揺れる。が、すぐに彼はふてぶてしく吐き捨てた。
「何だよ、やっぱりあいつ死んでたのか」
すかさず、小柄な男も笑いながら追従する。
「生き返ってから武器がないのに気づいて、お前らに泣きついたってとこか? ダッセェ」
クエルクスの手がぴくりと動いた。そんな彼を宥めるように、ティトンが右手を挙げる。
「違うよ」
怪訝そうな顔の三人に、彼は淡々と事実を告げる。
「生き返らない」
こぼれ落ちそうな程に目を剥く三人に、大きく息を吐いたクエルクスが後を続けた。
「教会には転送されてきたけどな、何しても起きねぇんだよ」
「ロ、ログは……?」
恐る恐る尋ねた小太りの男に、【白羽】の四人は揃って首を横に振る。代表して答えたのはティトンだ。
「駄目だったよ。字の並びもぐちゃぐちゃで読める状態じゃない」
【生贄】の三人の間で静かに動揺が広がる。
互いに押し付けるような、非難するような視線を交わし合った末に、沈黙を破ったのは小柄な男だった。ごくり、と唾を飲み込んだ彼は慎重に尋ねる。
「じ、じゃあ……あいつ、死んだ時の状態で転送されてきたのか? 怪我とかもそのままで?」
教会で直接イロハの状態を確認したティトンとクエルクスは答えない。目の前の三人は、他にも何か情報を握っている。それを引き出すために黙って様子を伺っているのだ。案の定、無言のままで自分達を見下ろすティトンとクエルクスに焦れたように、小柄な男は悲鳴じみた声を上げる。
「ち、違うんだ! あの足は」
「足?」
「あ、いや……」
繰り返したクエルクスに、男は目を逸らして言葉尻を濁す。そんな仲間を、「馬鹿っ」とガルヴァが小さな声で叱責した。クエルクスが目を細める。
「で、お前らは何をしたんだ?」
「いや、俺たちは……」
「別に、何も……ねぇ?」
途端にモゴモゴと口籠る取り巻き二人に苛立ったのか、ガルヴァが声を荒げる。
「っていうか、生き返らないって本当なのかよ! 俺たちを嵌めようって魂胆じゃねえのか?!」
この後に及んでの言い草に、クエルクスの片頬が一瞬だけ引き攣る。笑ったようだった。
「馬鹿かお前ら。あいつが無事なら、俺らに泣きつくなんて可愛げのあることするか。生き返ったらすぐにお前らを探し出して、ぶん殴りに行ってるぞ」
それはそう、とコトワリも大いに納得して頷いてしまった。人探し、もの探しは千里眼を持つ彼の得意とすることの一つである。顔の広さと相まって、彼らが呑気に過ごせるほどの時間を与えるはずがない。
生贄の三人も理解しているのか、それ以上は何も反論しなかった。
不貞腐れたように目を逸らしていたガルヴァが、ぽつりと言う。
「……別に。俺たちだって、あいつを殺したわけじゃねえよ」
他の二人が無言でガルヴァの方を見やる。だが、決して【白羽】メンバーの方には顔を向けない。
黙って先を促すクエルクスに、ぽつぽつとガルヴァは話し出す。
「《アルバスデウス》の最深部で、たまたまあいつに会ったんだ。辛気くせえツラしてたから、ちょっとからかってやったんだよ。この前、染め物屋で恥かかされた礼もしたかったしな」
染め物屋、とコトワリは呟いた。
イロハが懇意にしている染物屋といえば、一つしか思いつかない。
「そういえばー、この前イロハさんが言ってたねー」
「ええ。確か、ハオシンさんの店でロンさんと不合格者が鉢合わせたとか」
こっそりと耳打ちしてきたアロに、コトワリも答える。
ハオシンとロンは星期三的猫《シンシーサンダマオ》というクランに所属する冒険者であり、不合格者というのはA級《ランク》の冒険者試験に落ちた者のことだ。
それというのも、ロンが管理するとある洞窟は「参拝すればA級試験に合格できる」という噂を持つパワースポットであり、多数の冒険者が願掛けに訪れる。だが、もちろんそれはただの気休め。祈ったからといって確実な効果があるわけではない。
大半の者はそんなことを承知の上だが、中には納得できずに八つ当たりの材料とする者もいる。そんな《《不合格者》》が、ハオシンの営む染物屋内でロンとばったり出くわしたらしい。ロンはハオシンと同じクランのため、店にもよく顔を出すのが悪い方に作用した。
店内で一方的に言いがかりをつける者がいたから摘み出した、とイロハが語っていたのはコトワリの記憶にも新しい。どうも、それが彼らだったようだ。
【生贄】の三人がB級だとすれば、この季節の《アルバスデウス》は丁度良いレベルであり、辻褄は合う。
「からかうって何をした?」
「水だよ」
「水ぅ?」
クエルクスの詰問に答えたのは、小柄な男だった。
「あそこが、『旧《ふる》き神々の住まう白き場所』なんて大層な名前で呼ばれてる理由くらいは知ってるだろ? 最下層にある、神の生まれたとされる泉。その泉の水は、人の罪を量るって言われてるんだよ。真っ当な生き方してたら試したいなんて思わないだろ。だってのにあいつ、指摘したら真っ青な顔して黙りこみやがったんだよ。だから」
「わかった、一旦黙れ」
不愉快そうに言葉を遮り、クエルクスはティトンを振り向いた。
「知ってるか?」
端的な問い。各ダンジョンの情報に精通している彼なら、真偽のほどを知っていてもおかしくはないだろう。
「知ってるよ。というか、それをイロハに話したのは僕だ。でも、それは壁画とか他の文献に書かれていただけ。人の罪科を決める根拠にはなり得ない。――そんなこと、イロハだって分かってるはずだよ」
ティトンがイロハに水の話をしたのは、《アルバスデウス》の一階層の壁画の前だった。
その時、彼は眩しいものでも見るように目を細めて言ったのだ。
「『神様ってやつは、どうやって俺達の罪を決めるんだろうな』って。そう言ってた」
ふん、と小柄な男が鼻を鳴らした。
「ああ、そうかい。でも、奴は信じてたみたいだぜ」
再びクエルクスが【生贄】の三人に向き直る。
「お前らがあいつに難癖つけたのはわかった。それで? 取っ組み合いでもしたか?」
「……いや。言い争いの途中で白竜に襲われたんだ」
「ちょっと待って! どうしてこの時期の白竜が人を襲うのさ!?」
納得できない、といった風に割ってはいったのはティトンだ。数多のダンジョンを攻略してきた彼は、《アルバスデウス》の攻略レベルの変動についても当然知っている。
「あの竜は、夏季以外では滅多に人を襲わないはずだよ! イロハと会う前に何があったの!?」
ティトンの剣幕に、下を向いたままの三人の肩が小さく跳ねた。気まずい沈黙が満ちる。
「あ、えっと……」
おずおずと声を絞り出したのは、小太りの男だった。中途半端に何かを言いかけ、他の二人の顔色を伺うように忙しなく目を左右に動かす。
その様子に、観念したようにガルヴァが大きく息を吐いた。
「紅焔花《ピクラリダ》の花を取りに行ったんだよ。氷があって邪魔なのは知ってたから爆薬で吹っ飛ばしたんだが、俺が設置位置をミスってな。思ったよりデカく崩れたんだ」
やけくそ気味の早口な説明に、小太りの男が驚いたように顔を上げた。
「ち、違うよ! あれは僕が解析結果をうまく読み取れなかったからで」
「ああ?! うるせえな。別にんなこと、どっちでも良いだろが!」
一喝して仲間を黙らせたガルヴァは、さらに説明を続ける。
「俺のスキルで、ある程度は元に戻そうと思ったんだよ。そしたら、採取の途中で白竜に見つかって……。花を見た途端に目の色変えて割れ目を広げて押し入ってきたんだ。――あとは、言わなくても分かんだろ。あの花を食べた竜がどうなるか」
厳しい顔つきのままでティトンが頷く。苛々と次の問いを重ねたのはクエルクスだ。
「それで、逃げた先でイロハと会ったと? お前ら、あいつに情報の共有はしてなかったのかよ」
負けず劣らずの尖った声でガルヴァは答える。
「言ってねえ。どうせまた、したり顔で説教でもするんだろうって思うと、腹が立ったんだよ」
「そんな勝手な」
呆れた声を上げたティトンを、ガルヴァはぎっと睨みつけた。
「勝手? 確かにそうだな。だけど面白くねえんだよ。あいつが正論を吐いて実行できるのは、それだけハロとスキルに恵まれてるからだろうが!」
後でなりゆきを見守っていたコトワリの心臓が、嫌な風に跳ねた。
「生まれ持った能力の差で平然と人を見下して、綺麗事を押し付けてきやがって。そのくせ、自分《てめえ》の行いが怖くて審判を求める。――じゃあ、てめえは何を信じて俺らを踏みつけやがるってんだよ!」
一方的に捲し立てるガルヴァから、コトワリは咄嗟に目を逸らした。
彼が何を言いたいか、自分は理解できる。できて、しまう。
思わずコトワリは自らの手首を、そこに浮かぶ小さなハロごと握りしめた。
気がつけば、彼の背にあるハロを目で追ってしまいそうになる自分がいる。
比べてしまう自分がいる。
心の隅にいつでも澱《おり》のように沈み、凝《こご》っている淀み。
自覚すると、ますます惨めさを増す劣等感。
人は言う。ハロは神様からの加護《ギフト》。そこに貴賤などなく、持つ者は持たざる者を助けるべきだと。
――詭弁だと、そう思う。
差はある。残酷なほど明確に、埋められないほどに深く。
それは厳然とした事実だ。
コトワリはたまに考えることがある。
これが神の意思だとすれば、どうして自分達は違いを与えられたのだろう、と。
「コトワリさんー?」
いつの間にか俯いていたらしい。呼びかけと共に覗き込んできたアロの心配そうな顔に、コトワリは長考から覚めた。
「大丈夫ー?」
「え、ええ。……すみません、ぼうっとしてました」
頭を軽く振り、先ほどまで考えていたことに無理やり蓋をする。
そう、彼らの言い分は分かる。
だとしても、理解と納得は別の話だ。
責められるべき非や過失があるのは彼らの方であることに変わりはない。正しく生きられない責任を他人に求めるのは単なる八つ当たりであり、イロハが非難される理由はないはずである。
「……もういい。それで、お前らとイロハはどうしたんだ」
「どう、って……」
「何もせずに逃げたのか、戦ったのか、隠れたのか、どうしたんだってことだよ」
クエルクスに睨めつけられ、小柄な男が歯切れ悪くぼそぼそと答える。
「最初は戦おうとした、けど……。歯が立たなかったから逃げた」
「イロハも一緒に逃げたのか?」
容赦のない追求への答えは、きまり悪そうな無言だった。
ティトンの顔色がさっと変わる。
「もしかして、イロハを置いて逃げたの?」
「俺たちからじゃない! あいつが自分で言ったんだ、「邪魔だ」って!」
勢いよく顔を上げてのガルヴァの訴えに、倍する声量でクエルクスが怒鳴り返す。
「だからって普通、置いていくかよ! お前らは、あいつの武器もスキルも知ってるだろうが! なんでそんなこと言わせた!」
千里眼は本来、戦闘向けのスキルではない。
ティトンのように破壊力のある攻撃特化のものでもなければ、クエルクスのように防御力に優れているわけでもない。
ただ、視えるだけだ。
過去が、未来が、遠きの景色が。――あるいは、人の心の内が。
エデンは広く、特殊な眼にまつわるスキルを持つ者もまた多い。過去視や未来視はもとより、透視や拡大鏡のような目を持つ者もいる。
その大半は補助的な役割を担うものであり、発動時には平時とは全く異なる視界となることがほとんどだ。そのため、イロハのように戦闘にも積極的に活用する方が珍しいと言えた。
さらに、彼が扱う武器は弓だ。
間合いの広さこそあるが、単純な威力だけで言えば大剣や戦斧には大きく劣る。人間や小型の魔獣相手ならばともかく、大型魔獣ともなればよほど上手く急所を狙わない限りは致命傷とならない。相手が硬い鱗に全身を覆われている竜種ともなれば、それすらも絶望的だ。
つまるところ、彼のスキルや武器を考えると「一人で残る」という決断は自殺するに等しく、よほどの理由でもない限りは選ぶはずがないのである。
クエルクスの怒りも、三人がイロハを見殺しにしたという結果ではなく、その結果を選ばざるを得ないまでに追い込んだことに対してと思われた。
「知るかよ!」
答えたガルヴァの声は震えていた。いや、声だけではない。その手も、麻痺薬の痙攣とは異なる震えを見せている。
「俺たちだって分かんねえし、こ……怖いんだよ、あいつが。《《あんなの》》前にして、他人を頼るより切り捨てるって選択をあっさりするあいつが!」
「怖いって……」
迫力に気圧され、言葉を途中で飲み込んだクエルクスにガルヴァはさらに詰め寄る。
「じゃあ、お前らはあいつが怖くないのか? あいつは人の心を読める。過去も覗ける。それが出来るってことは――自覚があるってことは、何度もやったことがあるからだろうが!」
【エデン】世界の仕組みと神様について⑨ - 透峰 零
2025/09/01 (Mon) 18:27:55
握ったクエルクスの拳から力が抜ける。
へたり込んだまま睨みあげてくる相手に重なったのは、この場にいない男の斜に構えた目つきだった。
「俺は神が嫌いだよ」
力のない呟きが脳裏に蘇る。
その声を聞いたのはつい最近だ。一週間ほど前、クエルクスが期限の近い缶詰を消費するためにリビングに積み上げた時だった。
ツマミのような物が多かったのと、アロがジュースと間違えて酒を開けたことで、最終的に皆で飲んで騒いだ。その後だった。
間の細かいことは覚えていない。次にはっきりと記憶が繋がるのは、真夜中である。
多分どこかの段階で寝落ちしたのだろう。
突っ伏していたテーブルから顔を上げると、右側のソファからは健やかな寝息が聞こえた。コトワリを間に挟んで、アロとティトンの三人が仲良くブランケットに包まっている。その後ろの壁際には、かろうじて片付けをする余力は残っていたのか、空になった缶詰が積み上がっていた。
三人の寝息以外に音はない。
青い光が視界の隅で踊る。宴の熱はすっかり冷めているはずなのに、テーブルの上にはまだ灯りが灯っていた。
コトワリが「余っていたので」と宴の途中で持ってきたアロマキャンドルだ。キャンドル自身の持つ深い青色が炎に照らされ、テーブルの上でまるで波のように揺れている。
薄暗いテーブルの対角上では、イロハが一人で杯を傾けていた。珍しいこともあるものだ。というか――
「お前、そんなに強かったか?」
クエルクスの記憶では、彼は好んで酒を飲む方ではなかったはずだ。
「酔い潰されない方法は知ってるよ」と本人が語っていたように、付き合いで嗜む程度だったと思うが。
クエルクスの問いに答える声はない。
「これはもしや……」と半ば予想しながら対面に座ると、案の定とろんとした目を向けられた。
完全に酔っている。
「良い飲み方じゃないな」
「明日は特に用もないし、一日寝てたら治る」
「そういう意味じゃねえよ」
もう中身が残っていないグラスを、クエルクスは一瞥した。
「何かあったか?」
グラスを揺らしていたイロハの手が、ぴたりと止まる。
再びクエルクスに向けられた目には、どこか皮肉っぽい光が宿っていた。常の親しみやすさは、欠片も見当たらない。
いや、思えばこの男の目つきは元からあまり良くなかった。喋り方や表情でそう見えないだけだ。
ややあって、イロハが口を開く。
「昨日さ、たまたま育った場所の近くに行ったんだ。ショートカットでダンジョン通りたいって商人の付き添いでね」
エデンの中には幾つも「部屋」と呼ばれる異空間がある。独立しているものもあるが、中には別の「部屋」に繋がっているものもあった。ダンジョンからダンジョンに飛ぶものもあるし、街の一角に繋がっているものもある。
素材を仕入れるついでに、そういったダンジョンを通り道にする商人は珍しくない。
イロハが付き合ったのもそういう類だろう。そういえば二日ほど前に「しばらく留守にする」と言って、今日帰ってきたのだったか。
ソファからの寝息が一瞬だけ途切れ、しばらくして再開した。
「ふぅん、どの辺だ?」
頬杖をついてクエルクスは雑に問う。
「あー」と呻き声を上げてイロハは人差し指でテーブルを二、三回叩いた。
「東区の枯れ噴水の裏に扉あるだろ。あそこ通って、あとはひたすら真っ直ぐ歩いて行くんだよ。行き止まりになったら近くの開けれる扉を通って、あとはその繰り返し」
「へぇ」
「まぁ、育った場所って言っても、さほど広くはないぜ。せいぜい、広いダンジョンのワンフロアくらいだったし」
「そうか。それでも、借主はかなり稼いでたな」
「部屋」の規模は様々だ。室内に直接繋がっている、文字通りの「誰かの部屋」である場合もあれば、街程度の広さになるものもある。ダンジョンと同じくらいとは、相当なものだ。
イロハが頷いた。舟を漕ぐ一歩手前のような危うい動きだった。
「そうかも。最初はもうちょっと小さかったんだけどね。店も人もかなり多かったと思うよ。ごちゃごちゃしてて、上品なとこじゃなかったけど」
「今は?」
「ないよ。家賃未納で全部消えたから。今は全然知らねークランの部屋になってた。誰も覚えてないって」
目を瞠るクエルクスに、イロハはケラケラと笑った。
「支配人が家賃持ち逃げしてさ。かき集めても足りなかったんだ。で、維持できないからこの部屋は閉鎖します、って」
言葉を失うクエルクスの前で、イロハは笑いを治めた。
「勝手だよな」
冷たい声だった。
「……そいつは知らんかった」
「言ってないからな。言う必要もないだろ、今とは関係ないんだ。――いや、違うな」
ゆるゆると首を横に振って、イロハはグラスから手を離す。なぜだか、それにクエルクスはホッとした。
「いい場所だったけど、ロクでもないこともしてたから。蓋をするべきじゃないか。俺も人の弱みや隠しごとを散々暴いてきたし、誰も逃げ方なんて考えなかった。毎日見たくないものばっかだった」
「そうか」
「だから、俺は神が嫌いだよ。この世で二番目に嫌いだ」
それは理不尽に居場所を奪われたからか、あるいは逃げようもないほど大きな『|神様からの授けもの《ハロ》』を押し付けてきたからか。
追求するより先に、正直な感想がクエルクスの口からこぼれ落ちた。
「神官どもには聞かせられん暴言だな」
「あんたが言わなきゃいい」
投げやりに言って、イロハはグラスの上で両手を重ね合わせる。腕の隙間に顔を埋めるようにして、声が絞り出された。
「俺は」
――こんなの、欲しくなかった
吐息のように弱々しい呟き。
多分、それがどれだけ恵まれた悩みかを本人は理解している。
理解しているからこそ、こうして酒に溺れでもしないと吐露できないのだろう。
言葉の代わりに大きく息を吐き、クエルクスはグラスに手を伸ばした。今は何を言っても聞こえないだろうと思ったからだ。
「飲み過ぎだ、馬鹿」
氷が溶けて水滴だらけのグラスを掴み、引き寄せる。
言いたいことを言って満足したのか、テーブルに崩れ落ちたイロハからは微かな寝息が聞こえてきた。
彼が、その夜に零したことを覚えていたかは分からない。
クエルクスもその後は自室に引き上げたし、翌朝に会った時のイロハはいつも通りだった。
だから、それ以上は聞かなかった。
聞けなかった。
あの時、空になったグラスに手を伸ばした自分は何を言おうとしたのだろう。
多分、と今になってクエルクスは思い返す。
あの時起きたのが自分でなければ、あの男はあそこまで饒舌にならなかったかもしれない、と。
ティトンやコトワリなら、彼の悪い飲み方を止めるか咎めるかしただろう。もしくは、親身になって話を聞くか。アロは話を聞くか怪しいし、好奇心が旺盛なので色々と尋ねたかもしれない。
けれど、あの時の彼は誰かに聞いて欲しかったわけではないのだ。
ただ、腹に溜まった「何か」を吐き出さないとやっていけなかったのだと、そう思う。
投げたボールがまともに自分の手元に返ってきたら、良くも悪くもイロハはその時点で夢見心地から覚めていただろう。
そして、「ごめん。忘れて」とでも笑う気がした。
改めて目の前の男を見下ろし、問われたことを考える。
――人の心が読めるから、《《自分達には見えないものが視えるから》》怖くないのか
答えは自然と言葉になっていた。
「怖がる道理がねえからな」
続けてクエルクスは鼻で笑う。
「お前らが考えるほどあいつは強くねえし、単純だぞ。もっとよく見ろ」
「……は?」
間の抜けた声を上げるガルヴァに、クエルクスは「もういい」と手を振る。事実、怒りは急速に萎んでいた。ありもしない虚像に怯え、攻撃する彼らに馬鹿らしくなった、ともいう。
クエルクスの背後にいた三人も、同じ感情のようだった。
「行こう」
ティトンが力強く言う。
「行くって、もしかして……」
確認半分、不安半分の顔をしたコトワリが目を彷徨わせる。アロが小さく首を倒した。
「アルバスデウス、じゃないのー?」
「やっぱり、そうですよね」
ガックリと肩を落としたコトワリに、ティトンが明るく手を上げる。
「大丈夫! 僕、あそこなら地図持ってるよ!」
「そういうことじゃないんですが……」
「オレも、今日は後ろの方歩くから大丈夫だよー」
「きみの場合は、横にも前にも上にも下にも行くでしょう」
いつも通りのやり取りを始める三人に、クエルクスは小さく口元を緩めた。
「ごちゃごちゃ言ってねーで、行くぞガキ共!」
「はーい! あ、ねえクエル。盟主には言っておこうよ」
「そうですね。これでぼくらもイロハさんと同じになったら笑えませんし」
「コトワリさん、縁起悪ーい。あとで紅白PIYOあげようかー?」
「いえ、大丈夫です。というか、すぐ出てくるものなんですか?」
呆然とする三人を置いて、【白羽】の四人は来た道を戻っていく。
先ほどよりも賑やかになったその背中が振り返ることは、なかった。
「……ちくしょう。なんで」
見送るガルヴァの喉から、絞り出すような声が漏れた。
Re: 【エデン】世界の仕組みと神様について⑩ - 透峰 零
2025/11/15 (Sat) 23:41:29
五人が教会に戻った時には、西の雲はすでにうっすらと赤みを帯びていた。冬の日暮は早い。あと一時間もすれば辺りは暗くなるだろう。
盟主はまだ教会にいた。あれから、ずっと待っていたのかもしれない。
「――というわけで、僕らはこれからアルバスデウスに行こうと思ってます」
これまでの経緯を説明したティトンが、最後にそう締め括った。
「これから?」
わずかに目を見開いた盟主が、窓の外へと視線をやった。今日の終わりを飾るための強い黄金の光が、ステンドグラスの影をくっきりと床に投げかけている。
「これからです」
力強くティトンが繰り返す。すでにその背には、いつもダンジョンに赴く際に背負っているバックパックがあった。
「原因不明で現場状況がどう変化するか分からない以上、イレギュラーの調査は早いに越したことはありません。イロハが転送されてきたのは昨日の夜遅く。もし明日の朝に出発すれば、丸一日経ってしまいます。最深部に着くのは、どれだけ早くても明日の夜になる。けど、今から出発すれば間で休憩しても明日の朝には着ける」
試すように盟主が問う。
「あそこの最深部到達時間は平均で一日半って聞くよ?」
「ご心配ありがとうございます。でも、今季の最新マップは更新済みなので、僕なら半日以下で踏破できます」
力強く断言したティトンに盟主は「そう」と言ったきりしばらく黙り込んだ。
「盟主?」
「他のみんなはどうかな?」
彼が次に問うたのは、ティトンの後ろで成り行きを見守っていた他の三人だ。
「アロくん?」
「オレは良いですよー。夜のダンジョンも好きだし」
石台に横たわるイロハを覗き込んでいたアロが、躊躇なく答える。
「クエルクスくん?」
「オレもティトンの意見には全面的に賛成です。早けりゃ早い方が良い」
こちらもすっかり準備を整えたクエルクスが、軽く腰に吊るした短剣を叩く。
最後に盟主が顔を向けたのはコトワリだった。
「コトワリくんも同じかい?」
表情を硬くしてコトワリは頷く。
おそらく盟主が一番気にしているのは、自分だという自覚があるからだ。
「はい」
コトワリを除く三人はよくダンジョンに潜っている。ティトンやアロなど、何日も帰らないこともザラだった。今さら、夜間だというだけで躊躇う理由にはならない。クエルクスも、二人ほどの頻度ではないが夜のダンジョンへの経験は豊富だろう。
だが、コトワリは違う。ほとんどダンジョンには潜らないし、戦闘能力も皆無。できれば夜はちゃんとお風呂に入ってベッドでゆっくり寝たいタイプだ。
けれど――
「ぼくも、早く彼には目が覚めてほしいので」
「そう。なら、私が止めることはできないね」
眩しそうに目を細めた盟主は、ぐるりと四人を見回す。
「気をつけて行ってきなさい。明日の夕飯はご馳走を作って待っておくからね」
見送りの言葉にしっかりと頷いたティトンが、答える。
「はい。ちゃんと五人で帰ってきます」
◆◇◆◇
「大丈夫ですかね」
四人が出て行った扉を見やって、【秩序】の男がそわそわと指を落ち着きなく動かした。できるだけ邪魔にならないように隅の方で息を殺してはいたが、彼は一部始終を見ていたのだ。
「何が?」
「何って、この時間から《アルバスデウス》に潜るんでしょ。しかも、白竜がまだうろついてるかもしれないのに。いくら四人ともAクラスだからって、ちょっと無茶じゃないですかね」
「四人じゃないよ」
「へ?」
目を瞬かせる男にいたずらっぽい笑みを浮かべ、梟は腰掛けていた石台から下りた。
そして、まったく関係ないことを尋ねる。
「エリックくん、しばらく暇?」
「は? え。えっと、まぁ……そうですね?」
「じゃあ、しばらくイロハくんを見といてくれないかな? いきなり起きるってことはないと思うんだけど、念の為ね」
「はあ。それはまあ、かまいませんけど。一体どこに」
「ちょっとね。私は盟主《わたし》の役割を果たしに行ってくるよ」
「まさか」とエリックは顔を引き攣らせた。
「【生贄】の盟主に会いに行くつもりですか?」
「うん。さすがに、これは耳に入れとくべきだろう」
「危険では? それに、あの人が素直に謝罪するとも思いませんけど」
「だろうね。良いんだよ、釘を刺しに行くだけだから。あそこは少し自由が過ぎるきらいがあるけど、盟主は《《ちゃんと》》話せば分かってくれる人だよ。手綱を絞めるくらいはしてくれるはずさ」
「あの人相手にそれを言えるのはあなたくらいですよ」
呆れたようにエリックは天井を仰いだ。それに梟は首を横に振る。
「そんなことはない。他の盟主だって同じことをするはずさ。じゃないとクランをまとめる資格はないもの」
そう言いおいて、梟は部屋をあとにした。
教会を出ると、すでに東の空は暗くなっている。オフィルを東へ横切る形で、彼は群青色に染まりつつある方向へと足を向けた。
いくつかの路地を曲がると、町は徐々に雰囲気を変えていく。優美な曲線と淡い色合いを主とした造りは、黒や金、朱色といったものが多くなり、飾りも直線的なものが目立つようになる。鼻腔をくすぐるのは、煙草や香辛料の混ざった奇妙な匂いだ。
日用雑貨店や料理店、用途のよく分からないドアの群れがせせこましく並び、目が痛くなるような原色の看板がそこかしこの建物から好き勝手に生えている。
そんな雑多な区画の一つに、そのクランルームはあった。
周囲を威圧するように黒光りする金属ドアには、中央に【|אָשָׁם《アーシャーム》】の金文字と『片目には両目を、歯には舌を。求むるならば獅子をも喰らえ』というクランのモットーが刻まれている。
打ち付けられた吊り看板に描かれているのは、双頭の蛇が獅子を喰らっている絵図だ。獅子から出た血の雫が、恐らくはクランのシンボル元なのだろう。
いかめしい扉の前には、仕立ての良い服を着た二人の男が門番のごとく立っていた。彼らの前に歩みを進めた梟を、じろりと二対の目が見下ろす。
「ムラサキを呼んでくれるかな」
恐れげもなく梟は彼らに告げる。普段の彼は「お願い」という形を取って話すことが多いが、今回については命令に近い。それくらいしないと、この界隈では通用しないからだ。二人の男のうち、年嵩の男が目の端を引き攣らせる。
「あ? ガキがウチの盟主に何の用だ」
「おい、止めとけ」
今にも掴みかからんばかりだった彼を止めたのは、もう一人の若い男だ。
「でもよ」
「【白羽】の梟だ。お前は他クランの盟主を敵に回すつもりか?」
ぴしゃりと言った若い男は、腰を屈めて梟に応じる。
「未熟者がご無礼をしました、梟殿。わざわざこんなところまでお越し頂き恐縮です。ムラサキは多忙の身ゆえ、すぐにお時間を取れるか分かりません。私《わたくし》で良ければお話を伺いますが」
「うんうん、ありがたいね。でも――お前じゃ駄目だよ、クロウ」
「は、しかし……」
「私に、同じことを二回言わせるつもりかい?」
梟は声を荒げたわけではない。むしろ、幼い子供に言い聞かせるような柔らかい声と顔だった。だが、それだけでクロウと呼ばれた男は身をこわばらせる。
「いえ……」
それ以上の言葉は不要とばかりに黄金色の瞳をきらめかせる梟に、クロウは唾を飲み込んだ。
「……中で少々、お待ちください。ムラサキを呼んできます」
「その必要はないわよ」
艶っぽい女の声が響いた。扉の内側からだ。
「私の客でしょう。通しなさいな」
梟の眉がわずかに顰められる。
「また《《変えた》》のか、ムラサキ」
「羨ましいでしょう。良いから、入ってきなさいよ。歓迎するわ」
一方的な声だけを残し、高いヒール特有の硬質な足音が遠ざかっていく。歓迎する、と言いながら自ら扉を開けることは決してしない。
それが【生贄】の盟主、ムラサキという人物だった。
足音が十分に遠ざかったのを確認してから、クロウがノブに手をかける。こちらも、自クランの盟主の性格は十二分に承知しているのだろう。彼女が席に着く前に梟を招き入れようものなら、怒鳴られるだけでは済まないに違いない。
「どうぞ」
一礼と共に、扉が開けられる。その腕の下を通り、梟は中に足を踏み入れた。明るさを抑えられた照明が、室内に満ちる紫煙の中でぼんやりとした光を放っている。
霧中のごとく青白い光が満ちる空間は、外から予想されるよりずっと広い。縦長の室内には右手にバー・カウンターが設えられており、中央には玉突き台が、左手にはダーツの的が年季の入った壁にかけられている。
玉突き台の奥には、磨き込まれた低いガラステーブルを挟んで左右に三人掛けソファが二脚。そして、さらにその奥。
「ご機嫌よう、梟」
深紅の肘掛けソファで頬杖をついた女が、ニヤニヤと笑っていた。なお、ソファは当然のように一人掛けである。
「今日は何の用かしら。盟主会の呼び出しというには時期が早いようだけど?」
美しい女だった。
真珠のように白い肌と、赤い唇。頭上で軽くまとめただけの髪は光を通さぬ漆黒だ。胸元で大きくはだけた赤い衣は幅広の帯で留められ、袖はぞろりと長い。イロハが着ている上着を何十倍も豪華にすれば、これに似たものが出来上がるかもしれなかった。ハイヒールだと梟が思っていた足元は、靴底に馬鹿のように高い歯を二本備えた履物である。そんな状態で足を組んでいるものだから、衣の合わせ目からはすらりとした長い足が艶かしく揺れていた。
だが、何より目を引くのは彼女の顔を囲む大きなハロだろう。
血のように赤い円が二つ、ちょうど彼女の目の高さで水平に輝いている。ハロの外側から見ると、彼女の顔は目だけが隠されているような形だ。それでも、ほっそりとした顎や高い鼻梁から、彼女の美しさは十分に見てとれた。
「話の前に、その気持ち悪い喋り方を何とかして欲しいな」
彼女の周りには十人近くの男が集まっていたが、梟の言葉に物騒な気配が膨れ上がる。それを視線一つで黙らせると、女――ムラサキは面白がるように喉奥を震わせた。
「あら、残念。けっこう気に入ってるのに」
「そうかな。性別まで変えるのは久々じゃないかい? 不可視《インビジブル》」
女の笑みがいっそう深くなる。
不可視《インビジブル》。それが、ムラサキの持つスキルの俗称だ。
能力は、スキルを付与した事物に対する第三者の認識を改竄すること。だが彼女、ないし彼はその能力の付与対象を自分の姿に限定している。
故に、誰もムラサキの本当の姿は知らない。
クラン総括部にデータはあるはずだが、それが本当かは分からない。彼女の申し出が本当かどうか不明だからだ。
スキルや姿形の申告を偽ることは重罪とされているが、この人物ならばやりかねない。それくらいには、あらゆる面で信用がないのだ。それに、認識改竄が本来のスキルの副次的な効果であっても、宣告しない限りは周囲は知りようがない。
……ちなみに、梟が以前見た時のムラサキは葉巻と純白のスーツが実によく似合う中年男性だった。体格も、今の倍以上の身体の厚みと、それに見合う身長であったはずだ。
この人物で変わらないのは目元を隠すハロと、額に施されたクランの刺青くらいだろう。呆れたように梟が見つめる前で、女が歯を剥いた。
「しっかたねえなあ」
小さな紅唇から出たのは、荒っぽい男言葉だ。組んでいた足を大きく広げると、彼女は胸元に手を突っ込む。摘み出したのは、自身の親指ほども太さがある葉巻だ。口に咥えると、近くにいた男がすかさず火を灯した。
うまそうに煙を吸い込んだムラサキは「で?」と梟に問いかける。
「わざわざ儂の外見にケチつけるために来たんじゃないだろ? 要件は何だ。おっと、その前に。客人を立たせておくのはマナー違反だな。そこのソファにでもかけろよ」
「結構だよ。君のホームで腰を下ろすほど、私も愚かじゃない」
「用心深いねえ。嘴の赤い小鳥ちゃんにも見習ってほしいくらいだ」
恐らくは【赤嘴】の盟主のことだろう。彼は実力は確かだが、やや猪突猛進のきらいがある。他人を煙に巻くことにかけては他の追随を許さないムラサキにとって、彼を相手取るのは楽に違いない。
「戯言に付き合う気はないよ。今日は、少しお願いがあってきたんだ」
ムラサキの柳眉が、ぴくりと動いた。
「この儂に? 何の見返りもなしに言うことを聞けと? いくらあんたの頼みでも」
「死んだうちのクラン員が教会に送られてきてね。ダンジョン内で君のところと、ちょっとした諍いを起こしたみたいなんだよ」
己の言葉を遮った梟に、ムラサキは面白くなさそうに鼻から紫煙を吐いた。
「ちょっとした小競り合いなら珍しくもないだろが。まさか、それで詫びを入れろとでも?」
「いやいや、そんなつもりはないよ。うちの子もヤンチャなところがあるからね。お互い様だよ。ただねぇ」
意味ありげに言葉を切り、梟は彼女を下から見上げる。黄金色の瞳と、ムラサキの漆黒の瞳が交差した。
「生き返らないんだよ」
「は? んなバカな」
初めてムラサキの顔に動揺が現れた。
「本当だよ。嘘だと思うなら、西四区教会の神父に聞いてみるといい。それでね、私が何を言いたいかというと、それが君のクラン員と関係あるんじゃないかってことなんだよ」
「ああ? 言いがかりつけんなよ!」
叫んだのはムラサキではない。彼女の後ろに控えていた大男だ。
「そんなことできるわけがはっ!?」
言葉の途中で、顎を天に突き上げて男が後ろにひっくり返る。座ったままのムラサキが、男の顎を殴り飛ばしたのだ。一瞥すらくれず、彼女は梟を促す。
「部下の躾ができてなくて悪いな。続けてくれ」
「うん。ちょうどうちのクラン員が死因を調べに行くって言ってたからね。もし死体が残っていたら、魔獣以外の傷なら分かるんじゃないかなあ。いくら君のクランの方針が緩くて自由でも、メンバーが故意に「生き返らない」状態を作ったんだとすれば、ダンジョンの秩序を乱すことになる。他のクランも黙ってないよ。《《知ったらね》》」
チッとムラサキが舌を打った。
「この狸ジジイ」
「なんとでも言いなよ。大体お前、この前の偽札作りだってアウトだろ」
「脅しの次は説教か。あんたの方がよほど食わせ者だな。それに、例の札は作っただけだ。流通はさせてねえだろうが。あんたと同じ好奇心ってやつだ――どこまで俺たちは神に近づけるのかってな」
「好奇心は猫をも殺すって言葉もあるらしいけどね」
「今のあんたの状況のことか?」
「おや、殺せるか試してみるかい? 私は一向にかまわないよ」
二人の間で一瞬、目に見えない火花が散る。
「止めておこう」
先に目を逸らしたのはムラサキの方だった。ため息と共に、大量の紫煙が吐き出される。
「一銭の儲けにもならん。クランルームも壊れる。損の多い喧嘩は馬鹿のやることだ。韜晦ジジイの『生意気言うな小僧、ちょっとおイタが過ぎるぞ』って挑発にのるには、割りが合わねえよ」
梟の口元に笑みが浮かぶ。普段クランで見せるものとは違う、老獪な笑みだった。
「話が早くて助かるよ」
「ちったあ否定しろよ。相変わらず、不愉快なじーさんだ」
指先で葉巻を摘み、ムラサキは口から離した。すかさず、右隣にいた男が灰皿を差し出す。分厚い一枚ガラスを、複雑な形にカットした高級品だ。曇り一つないそこに葉巻が押し付けられ、たちまち黒い煤で汚される。
「仕方ねえから、あんたの「お願い」きいてやるよ。ついでに、たまには三下メンバーの躾もする。それで良いんだろ?」
「ああ」
余裕たっぷりに頷き、梟は続ける。
「頼みっていっても難しい話じゃない。少し分けて欲しいものがあるだけさ」
Re: 【エデン】世界の仕組みと神様について11 - 透峰 零
2026/04/11 (Sat) 10:18:35
ダンジョンの入り口は大きな扉だった。
艶めいた黒い木製の扉は、コトワリが三人縦に並んで手を伸ばし、ようやく天辺に触れるかというくらいの高さがある。入る者を威圧するような大きさのそれが、雪山の岩肌に埋め込まれているのだ。扉から少し視線を外せば、エデンの象徴である大樹が眼下に見える。しかしこの雪山とて、かの大樹の傍の扉を何枚か通り抜けた末に辿り着いた場所に過ぎない。コトワリは実際に雪山を登ったわけではないのだ。
「これが、聖廟ダンジョン《アルバスデウス》……」
「お前は初めてだったか」
扉の威容に息を呑むコトワリの隣に立ち、問いかけたのはクエルクスだ。
「そうですね。ランク自体はB+でも、一人では来ませんよ。寒いですし」
白い息を吐きながらコトワリは答える。
他の四人と違って、コトワリは攻撃手段がほとんどない。ゆえに、一人で入るダンジョンはほとんど危険のない「鍛錬の間」がせいぜいだ。
「というか、この扉どうやって開けるんです?」
呆れたようにコトワリは黒い扉を再度見上げる。表面には見事な竜と花の|浮き彫り《レリーフ》が施されていて飽きないが、ずっと見上げていると首を痛めそうだ。
「大丈夫だよー。この扉、手をエイッ! て当てたら中に入れるんだー。ね、ティトン」
跳ねるようにコトワリの前に出たアロが、扉を指差しながら振り返る。彼に釣られてコトワリとクエルクスも、自然と己の背後へと視線をやった。そこでは、マップを取り出して最後のルート確認をしているティトンがいた。恐らくは自作なのだろう。幾つも朱書きがされたマップを見ていた彼は、アロの確認に頷く。
「うん、その扉は開かないよ。手を当てたら、自動的に中に招き入れられるんだ」
「気がついたら中に入ってる、という感じですか?」
「そんな感じ。体験したらわかるよ」
気軽に言ったティトンは、続けて「よし」と言ってマップを畳んだ。顔を上げて、力強く宣言する。
「お待たせ。それじゃあ、最短で底まで駆け抜けよう」
各々が頷くのを確認し、ティトンは扉の前に進み出た。自然と横一列に並んだ四人は、誰にともなく扉へ向けて手を差し出す。コトワリ自身もそうだった。加護の声が聞こえたわけではないが、まるでそうするのが当然とでもいうように、気がつけば手を上げていたのだ。
一瞬、視界が白く瞬く。
あっ、と思った時にはもう視界は元通りだった。ただ、見えている景色が違う。
目の前にあった扉は消失しており、代わりに視界を占めるのは圧倒的な白だ。
目が痛くなるような、白く眩く輝く雪が周囲を満たしていた。両脇はそそり立つ岩壁に囲まれているようだが、雪が分厚く積もって元の地肌を見ることはできない。
顔を上げると、遥か高い場所から赤みがかった空が覗いている。他に目立った光源もないのに明るいのは、入ってきた陽光が周囲の雪や氷に乱反射しているためだろう。
岩壁の幅は奥に行けば変化しているようだが、入り口にあたるこの場所は十分に広かった。白羽のクランルームのエントランスくらいならば問題なく収まるだろう。
明るく穏やかな光景とは逆に、雪に音が吸われているのか音はまったくしなかった。
アロが上げる「わー」という感嘆の声すら、小さく感じてしまう。
旧《ふる》き神々の住まう場所、と呼ばれるのも納得の荘厳さである。
「隊列を決めよう。先頭はいつも通り僕でいいよね。次がアロとコトワリ。このダンジョンはどれだけ狭くなっても、二人くらいの幅はあるからね。殿はクエルで行こうと思うんだけど、どうかな?」
てきぱきとティトンが指示を出す。彼の意見に反対する者はいなかった。
今日は、いつも殿役を引き受けるイロハがいない。そうなるとアロかクエルクスのどちらかが殿となるが、アロの強みの一つはトリッキーな動きでもある。背部からの攻撃を通さないよう、場合によっては足を止める必要もある殿とは相性が悪い。
逆に、普段から盾役として立ち回っているクエルクスならば問題はないだろう。
ティトンの提案通りに並び、警戒しながらも四人は奥へと歩を進める。今は明るいが、もう少しすればこのダンジョンにも夜が訪れる。それまでに、できるだけ距離を稼ぎたい。
入り口からの道は一本道で、大きく左側にカーブして奥に続いているようだった。ティトンによれば、その先には多くの分岐と洞穴があるらしい。洞穴には冬眠している魔獣がいる可能性が高いので、できるだけ離れて歩くのが鉄則だという。
そんな解説を聞きながら、件のカーブを曲がる。入り口が見えなくなったあたりで、クエルクスがちらりと顔だけで後ろを見やった。
彼の動きに気がついたのは、コトワリだけだったろう。何しろ、アロは岩肌を一列になって歩く雪PIYOに目を奪われていたし、ティトンは前方に注意を払っている。
「どうかしましたか?」
「……いや」
クエルクスの表情に焦りはない。問題があれば警告を促す人物なので、本当に何もなかったのかもしれない。そう考え、コトワリも特にそれ以上は気にしなかった。
進行は、これといった問題もなく進んだ。《アルバスデウス》は経路さえ分かっていればそう時間のかかるダンジョンではない。ティトンが半日以下で踏破できると言ったのは、何も大言壮語ではないのだ。
ダンジョンに入って五時間強。夜の九時を過ぎる頃にはすでに四人は第八層まで到達していた。何度か足を止めてしまったが、その時間を無視すればもしかしたら最速記録かもしれない。このまま徹夜で進み続ければ記録の更新は間違いないだろうが、今回の目的とは異なる。そのため、この階で長めの休憩を取ることで全員の意見は一致していた。
サクサク、と四人が雪を踏む音だけが静かな空間に響く。ティトンが足を止めたのは、横穴を入った先にある開けた場所だった。
「ここで休憩にしよう」
「はーい!」
振り返ったティトンに、アロが元気よく答える。コトワリはと言えば、「休憩」の二文字を聞いた途端にへたり込んでいた。
「コトワリさん、大丈夫〜?」
「だ、大丈夫です……。でも、これ以上歩いていたら危なかったかもしれません」
背中を撫でてくるアロに答え、コトワリは足元に大きく息を吐いた。途中で疲労回復のポーションを飲んでいても、足がぱんぱんに腫れているのが分かる。日頃の運動不足を恨めしく思ったことは何度もあるが、今回はいつも以上に恨めしい。
もし、自分がいなければ――。
テキパキと野営の準備を進める三人を見ながら、コトワリはふと考える。それは、今までの休憩中でも浮かんだことだ。
――もし自分がいなければ、彼らはもっと早く進めたのではないか。
「コトワリ」
「わ、ぷっ」
ばさりとひるがえった布が、突然コトワリの視界を奪った。咄嗟に顔付近に手を伸ばすと、硬い布の感触が手に触れる。
「コトワリさん、お化けみたいだ〜」
ケラケラと笑うアロの声が聞こえるが、布を投げたのは彼ではない。
「突然投げないで下さいよ、クエルクスさん」
「ぼんやりしてる方が悪い。そこ押さえとけ」
ぶっきらぼうに言われ、コトワリはテント用の布端を地面に押さえつけた。重しになるくらいなら、今の自分でも出来そうだ。
右手で布を押さえながら、左手で鞄を開ける。大きな戦闘がなかった為、減ったポーションは疲労回復のものだけだ。
(疲労回復があと十五個、ハロの回復が五個、異常回復が五個、傷薬が十個、スキル強化五個、攻撃用に爆発液が五個、透明化が五個、毒液が五個)
腰に下げたポーションの精製種類は、迷った末に疲労回復にした。今回の方針は戦闘をできるだけ避けつつ、最速で最下層まで行くことだ。そのため、戦闘にかかわるものよりも回復系のポーションを水風船状にし、限界まで鞄に詰め込んだのである。
懸念があるとすれば【生贄】の三人が言っていた白竜だが、今のところ遭遇はしていない。遭遇したとしても、今回は戦闘せずに逃げると事前に決めていた。
(ここまでの消費数は、疲労回復を各人一つづつ。僕だけが三つ飲んだから計六つ。帰りに同じだけ消費するとしても、ここで一人一つ飲んでも余裕はある)
計算しながら、コトワリは人数分の疲労回復ポーションを外に出していく。
「コトワリ、ありがとう。もう離しても大丈夫だよー」
言いながら、テントを留めるための金具を片手に近づいてきたティトンが不意に立ち止まる。彼の視線は、コトワリの背後上方に注がれていた。
彼の視線の先を追って振り返り、コトワリも気がつく。……やけにPIYOの数が多い。体から白い雪を零す雪PIYO達が、岩壁を右に左にと忙しく動き回っている。
「……例の、紅焔花《ピクラリダ》を取るために爆発させた箇所というのが近いんでしょうか」
「多分そうだと思う。ここには大きめの群生地があるから。だとしたら、この近くの階層のどこかで会うかもしれないね」
不安そうにティトンが顔を曇らせた。
「会ったら厄介ですね。このダンジョンには僕らしかいないわけですし」
「え?」
「え?」
ぱちぱちと大きな目を瞬かせるティトンに、コトワリも間の抜けた声を返してしまう。二人の傍で会話を聞いていたアロも「え〜?」と言うが、多分彼の場合は真似をしただけのような気がする。
「コトワリ、気づいてない?」
「というと?」
「昼間の三人が俺らのあとを着いてきてんだよ」
答えたのは、ティトンの後ろから歩いてきたクエルクスだ。
「昼の三人って……。もしかして、【生贄】の?」
声を潜めて問うたコトワリに、他の三人は一斉に頷いた。
なんということだ。気づいていないのは自分だけだったとは。
「いつからですか?」
「入る前からずっとー?」
「っていうか、教会出た時からだな」
「今も入ってきた横穴の近くにいるよ」
口々に言われ、後ろを振り返りたくなるのをコトワリは堪えた。
「……一体、何のためでしょう?」
今の《アルバスデウス》は白竜がうろつき、危険度は跳ね上がっている。それは彼らが一番知っているはずなのに、どうして自分達を追ってきたのだろう。
「さぁな。あいつらでも、思うところがあるんじゃないか? ま、背中から不意打ちさせる気はないから、そこは安心しとけ」
「だね。コトワリも、とりあえず今は気づかないふりをしておいてくれないかな?」
「分かりました」
コトワリがぎこちなく頷き、この話はここで一旦終わりとなった。
Re: 【エデン】世界の仕組みと神様について12 - 透峰 零
2026/05/22 (Fri) 13:17:34
翌朝早くに、四人は最深部に到達していた。
《アルバスデウス》十階。『旧き神々の住まう白き場所』の別名の由来となった、聖なる泉のある場所でもある。
異変は誰の目にも明らかだった。先頭を歩いていたティトンの横顔が強張る。いや、彼だけではない。ここまで明るさを絶やさなかったアロも言葉を失っているし、コトワリ自身も「ヒッ」と短く息を飲んだ。
「……こいつは、ひどいな」
最初に言葉を発したのは、クエルクスだった。
ひどい。
最深部は、まさにその一言に尽きた。
両脇の岩壁はごっそりと抉り取られて岩肌が剥き出しになっているし、地面はあちこちが陥没している。踏み荒らされた雪と氷は土くれと混ざり、ぐずぐずとした汚泥に成り果てて周囲に飛び散っていた。
これまで《アルバスデウス》で感じていた神聖さや荘厳さが、ここにはない。あるのは、徹底的に蹂躙された大地だけだ。
「……奥に進もう」
ティトンの声に、全員が頷く。
生き物の気配は感じない。この景色を作り出したであろう白竜の姿も見当たらない。暴れ疲れて、どこかの横穴で休んでいるだけなのか。あるいは、もうこの階層にはいないのか。
何にしても、皮肉なことにこの階層は、今まで踏破してきた中で一番静寂に満ちていた。
進むうち、この空間の奇妙さに最初に気づいたのはアロだった。
「PIYOがいないね〜」
ティトンが足を止める。
「そういえば……」
再び、彼は周囲を見回す。さっきと何も変わらない。暴虐と泥で構成された空間。動くもののいない、死の階層。
これだけダンジョンが破壊されていれば、普通はPIYOが忙しく動き回っていないとおかしい。
「ここで考えても仕方ないだろ。とりあえず、一通り見て回るぞ」
クエルクスが促し、再び四人は歩みを再開させる。だが、その速度は目に見えて落ちていた。誰も、何も喋らない。この階層に満ちる空気が、嫌でも口を重くするのだ。
「もし……」
ぽつりと言ったのはティトンだ。
「もし、この先にイロハがいたらどうしよう」
彼が言わんとしている不安は、全員がうっすらと把握していた。
生き返りに必要なだけの金銭はあったにも関わらず、教会にいるイロハは目を覚ましていない。その為、ここまでの道中で四人は一つの仮説を立てていた。
何らかのトラブルがあり、『生き返り』の処理が途中で止まってしまったのではないか、と。
――では、途中で止まったとはどの状態でだろう?
そもそも、ダンジョンでの生き返りはどのような過程を経て、どういった原理で行われるのか。
そんなことは、誰も知らないのである。
最悪の場合、肉体は死んだ状態のまま処理が進まずに、意識だけがこの場所に残っているかもしれないのだ。
そうなったら、自分達には何ができるのか。どうするべきなのか。
それを、彼は懸念しているのだろう。
しばらく進むと、一際大きな雪泥が小山のように積み上がって通路を塞いでいた。ティトンによると、この向こうをしばらく進めば大きな洞があり、その中に件の泉があるという。
幸い、雪泥はこの低気温でしっかり固まっており足場とするのに不足はない。さっそく登ろうと、四人が手を伸ばした時だ。
『進んではいけません』
声が、聞こえた。
女のような、男のような柔らかな声。はっきりと響くくせに、耳元で囁かれたような曖昧な感覚。
神の加護、と呼ばれるダンジョンで起こる現象の一つだ。
その正体は、ダンジョンの難関地点に足を踏み入れた際に聞こえる『神の声』だという。普段ならば起こらない場所での囁きに、ティトンは虚空を睨みつける。
「どうして?」
神の加護は一方的なもので、会話は成り立たない。そんなことは彼も理解しているはずだ。それでも問いかけたのは、このイレギュラーな状況の詳細を可能な限り分析するためだろう。
声は答えない。
再び訪れた沈黙に焦れたアロが「ねえ」と声を上げた。
次の瞬間。
『ERROR』
「え?」
そう漏らしたのは誰だったか。そんなことを考える余裕もなく、
『ReSusciTatiON の 処?理 は*!#&』
『警4「;%告』
『REqUeST aBOrTED』
『中gdfghjk止』
『uNkNOwn』
『ResOUrcE eXcepTIon』
『($|+の 侵?$入の%&め 処!:理を中gwsy断gtしhr&#ます』
『eRrOR ResssSsssSusCiiiiiiiiiiTatioN rEQuUuuUeS』
『aAcceeeEeesSs DeNnnNiiED』
『iNsuFficiEnNt peRMisSiOoNns』
雑音と断ずるにはあまりにも規則性があり、雑言と言うには意思の宿らない、淡々とした『音』の流れが四人の耳を穿つ。
ティトンが登る手を止めた。その後ろでコトワリが転がり落ちる。アロはぽかんと口を開け、クエルクスは落ちてきたコトワリをスキルで盾化したコートで受け止めた。
「な、なななな」
クエルクスのコートの上で腰を抜かしたコトワリが、わなわなと震える。
「何ですか、今のは!?」
彼の叫びはもっともだった。
今まで誰も、こんな妙な神の加護は聞いたことがない。トントン、と片耳を叩いたティトンが顔をしかめる。
「止んだね」
「だな。警告? とか言ってた気もするが」
コトワリを立たせてやりながら、クエルクスも苦い顔をする。その横でアロが手を挙げた。
「オレは中止? とか聞こえましたよー」
「すみません、ありがとうございます。……あと、処理とかも言ってましたね」
クエルクスに手を貸してもらい立ち上がったコトワリも、聞こえたことを告げる。
自然と、全員の視線が行く手を阻む雪山へと注がれた。
「……行ったら、また聞こえるかな?」
「恐らくは」
「水にしてみる〜?」
「この量だろ。オレらも流されちまうぞ」
「一部だけ溶かしたらいけるんじゃないかな? 一人通れるくらいの隙間を、端に作ろう」
この向こうに、何かがあることは確かである。誰一人として、止めようと言う者はいなかった。
だが、正直に言うとコトワリは少し怖い。
悪意こそなかったが、先ほどの異常な神の声もそうだし、ティトンの懸念もある。もしもこの先で、二目と見られない惨たらしい姿になっているイロハがいたとして、自分は平常心を保てるだろうか。
全てが終わった後、今までと同じように彼に接することができるのだろうか。
「コトワリさーん?」
アロの呼び声に、我に返る。いつの間にか、作業は終わっていたらしい。目の前の雪泥には、大きめの人間でも十分に通り抜けられる穴がぽっかりと口を開けていた。
「あ、えっと……」
尻込みするコトワリに呼びかけたアロは首を傾げるが、深く追求することはなかった。代わりに、「じゃー、はい」と手を差し出す。
「へ?」
ぽかんとして差し出された手を見下ろすコトワリに、呆れたようなクエルクスの声が飛ぶ。
「お前、聞いてなかったのかよ。この先で何があるか分からないから、手を繋いで順番に穴を通る。もちろん、独断専行禁止だ」
言って、彼はコトワリの手首を掴んだ。
「な、なるほど……?」
よく見ると、すでにアロとティトンはしっかりと手を繋いでブンブンと振っている。おずおずとアロの手を取るコトワリに、ティトンがすまなさそうに言った。
「ごめんね。本当はコトワリには待っていてもらった方が良いんだろうけど。今はどこに白竜が潜んでいるか分からない状況だし、分かれて行動するのは避けたいんだ」
「これなら、目瞑ってても何とかなるだろ」
「オレもゆっくり行きますー」
口々に言われ、コトワリは小さく苦笑した。
「まったく、きみ達は……。いえ、何でもありません」
アロの手を握り返し、コトワリは告げる。
「大丈夫、いけます」
……とはいえ、やはり怖いので薄目で通り抜けることにはする。
全員の準備が整ったのを確認し、まずティトンが。次にアロが穴を潜る。コトワリの番はすぐにやってきた。アロに半ば引っ張られるようにして、穴へと近づき中に入る。視界が暗くなり、神の加護が再び耳元で囁いてきた。
大半はやはりよく分からないものだったが、穴から出る直前。一つだけ、はっきりと聞こえた言葉がある。
『アクセス権がありません、処理を中断します』
何のことだ、と思うより前にぐいと引っ張られた。
「わっ、とと」
慌てて足を踏み出す。どうやら穴を抜けたようだった。とりあえず、血の匂いがしないことにホッとする。
ゆっくりと前に進むと、すぐに後ろからクエルクスが出てくる気配がした。
「イロハさん、いるのかなー」
アロの声からして、心配していた事態にいきなり直面することはなさそうだ。そろそろとコトワリは目を開く。
穴の向こうも、ここまでの光景と同じような酷さだった。抉れた崖、踏み荒らされた雪面。
違うのは、目の前数十メートルほど先に大きな洞の入り口がぽっかりと口を開けていること。その前方の空間が大きく抉れて、ちょっとした湖のようになっていること、くらいだろうか。
「白竜があそこで炎を吐いたのかもしれない。熱で柔らかくなった地面が陥没して、溶けた雪や氷が流れ込んだんじゃないかな」
すでに泥はあらかた底に沈んだ後なのだろう。澄んだ青い水が、|小波《さざなみ》一つなく満たされている。その青をぼんやりと見ていたコトワリは、不意に目に入ったものに息が止まった。
白い手だ。
恐らく、他の三人は気づいていない。
手は大きな岩の影になっており、ちょうどコトワリの位置からしか見えなくても不思議ではない。
心臓がいやに大きく脈打つ。
なぜよりにもよって自分が。いや、そんなことを考えてしまうから、コトワリが見つけるように『神』が仕組んだのかもしれない。
だって、ここは『旧き神々の住まう場所』。
何が起こっても、不思議ではないのだ。
「おい、どうした?」
「あ、あそこ……あの、左側に突き出した岩のところ、に」
クエルクスの問いに、コトワリは喘ぐようにして答える。
「多分、います」
ティトンの顔が引き締まる。アロとクエルクスの動揺が、繋がれた手を通して伝わってきた。
硬い顔つきでティトンが言う。
「……僕が先に見てくる」
「待て!」
止めたのはクエルクスだ。ティトンが彼の方を見やる。
「…………確認なら、オレが行く」
「どうして? 大丈夫だよ。僕だって、無駄に長いこと冒険者をしていないから。《《どんなことになっていても》》、覚悟はできてる」
「っ……。んなこた、分かってるんだよ」
だからといって、先頭という理由だけでティトン一人に背負わせることにクエルクスは抵抗があるのだろう。
「ねーねー」
二人のやり取りを、首を回して眺めていたアロが両手を挙げる。もちろん、コトワリとティトンの手を掴んだままで。
「だったら、みんなでイロハさん迎えに行こーよ」
「は?」
「いや、でも……」
クエルクスが眉を寄せ、ティトンが口ごもる。そんな二人に、コトワリは答えた。
「すみません。……えっと、多分大丈夫です」
コトワリだけが見えている手。落ち着いてよく見ると、そこには血の代わりに文字のようなものが絡み付いている。それに、周囲の水にも血の痕はない。だから、恐らくは大丈夫だ。きっと、恐らく、多分。
「でも、手は離さないで下さいね。……行きましょう」
他ならぬコトワリに促され、ティトンとクエルクスが目を見交わす。さすがと言うべきか、二人の判断は早い。
「分かった。行こう」
一つ頷いたティトンが、手を繋いだままで歩を進める。
水辺に着くまでは、やはり無言だった。パーティーを組んで今まで、こんなに静かだったことはないだろう。
結論から言うと、『大丈夫』ではあった。ただ――異常ではあった。
目に見えての外傷や流血はない。
けれど、生きてはいないだろう、と誰もが一目見て分かった。
「……」
思わずコトワリは目を逸らした。
矛盾した願いだが、苦しまずに死んでいて欲しいと思っていたのだ。
だが強く眉を寄せて目を閉じた表情は、そんなことはないと物語っている。
教会での姿が寝ているだけに見えた分、身体を二つに折って半ば凍っている今の姿は、いっそう衝撃的だった。
異常なのは、その周囲に散らばる数字の羅列だ。数字といっても、たったの二種類。色も大きさもバラバラの、無数の1と0が彼に絡み付いている。
一番量が多いのは、腹のど真ん中だろう。コトワリの手首くらいならば容易に飲み込めそうな範囲に、みっしりと数字が詰まっている。あるいは、そこから生まれているのか。蛍のように明滅しながら、数字はゆっくりと彼の周囲を一定の軌道で動いている。腹部以外に大きく数字が漏れているのは、左足である。頬や腕にも同じような箇所はあるが、いずれも数字のサイズは小さい。
血の代わりに数字が漏れている。あるいは、彼自身が数字に分解されている。
そんな馬鹿げた考えが、コトワリの頭にふと浮かんだ。
それを見計らったように、再び四人の耳元で声が囁かれる。
『お疲qwerれhjkl様でk(?!%した』
「……何て?」
クエルクスが顔を上げる。
同時に、雪山の向こうで悲鳴が上がった。聞き覚えのある声だった。
【GDGD】雨に散歩する - 比木晶
2026/05/13 (Wed) 22:27:28
「ちょっと出かけてくるよ」
リュー=ウィングフィールドは、窓の桟に足をかけた状態で、思い出したように寛いでいる仲間たち振り返った。
「今からですか? もう暗くなってきていますし、雨も降っていますよ」
愛用の槍の手入れをしていたクロバ=カルテットが手を止めて、心配げに問えば。
「大丈夫、大丈夫。これ持っていくから」
ポケットから掌に握りこめるくらいの大きさの青い石を取り出す。薄闇の忍び込み始めた部屋の隅で揺らめくランタンの弱い光の中でさえ目が覚めるような青空の輝きを宿していた。
「あぁー……、ソレないと思ったら、君が持っていたのかい? ちゃんと返してよ。雨除けの紋章付加は面倒なんだから」
クラウス・ローゼンハイムが怒っているのかどうかすら微妙な声音で、体の半分以上をソファーに沈み込ませたまま、手を振った。諸々の追求よりも睡眠欲の方が勝ったらしい。あるいは、そのあたりまで計算の上でリューは雨除けの護符を今、見せたのかもしれない。
「さっすが商売人。その辺の感覚がスゲーって言うか、えげつねぇって言うか……」
「なんか言った?」
「自分なんにもいってねぇっすっっ」
余計なことを口にした後、すぐさま直立不動で全否定したのはユーヒ。一行の中で一番年若いヒーローにあこがれる少年だ。言動がいまいちヒーローとかけ離れているのはきっと、全力で否定しないと危険なことになると直感が働いたからだろう。
「そりゃいーけどな。けど、またなんでこんな時間の雨の中を」
「雨の街を散歩するのって面白くない? ちょっと感じが違ってて」
言われたスカイア=ウィンドマレクは一瞬眉を寄せ、合点がいったと手を叩く。
「俺があいつらに乗って空飛ぶみたいなもんか」
「そうそう、そんな感じ」
それじゃそろそろと再び桟に足をかけた所で。
「気を付けて行ってきやがれです。怪我してきたら承知しねぇですよ」
「わかった。ありがと」
「わかってるならいーです」
満足げな表情を浮かべたソフィア=フィズミストが見送りの手を振る。
「じゃ、行って来る」
ヒョイっという気軽な感じにリューは二階の窓から身を躍らせた。
そして。
「あ……」
声をかけ損ねたヒース=オズが、リューの後ろ姿を見送り、その肩をドンマイとでもいうように相棒のクマの人形チャーリーがポンと叩く。
リューは、落下の浮遊感と、それに合わせて風が髪を乱暴に撫でていくのを感じながら、動きを作る。着地に備えた両足で衝撃を受けるものではない、一歩を踏み出す片側の足に重心のほとんどを預ける歩き始めの動きだ。
前に出した一歩が宙を踏み抜いてしまう瞬間、そこに風を生み出す。ゴムまりに似た柔らかいものを踏みつけた感触があり、落下が少し弱まる。続けて反対の足を前へ、同様に風を生み出しその上に乗る。二度三度と繰り返し、都合12歩を数えたところで、リューはやんわりと石畳に降り立った。
街は雨で薄く覆われている。街の匂いは水の香に消され、音は雨粒に押しつぶされ、色はモノクロに塗り重ねられている。なぜか人を拒むようであり、どこか物悲しい雨だった。
だからだろうか。街は静まり返っていた。いつもならばまだ人通りが絶えるには早すぎる時間だろうに、誰も彼もが家に閉じこもり、息を潜めている。まるで何か災いが行き過ぎるのを無心に祈っているかのように、静寂に満ちている。
「なんかどっかで聞いたような、状況だなぁ……」
なんだっただろう? と首を捻りながらリューは霞んだ世界を往く。
雨粒は絶え間なく降り注いでいるが、護符のお蔭で濡れることはない。水滴は薄皮一枚上を滑り落ちていく。時折、行く手を阻むように石畳の上で蛇行する水の流れを飛び越える以外は特に気にするようなこともない。慣れてくれば、唸るような雨音すら気にはならなくなってくる。
リューとしては、明日からの商売に向けて街の様子を見ておきたいというのもあったから、肩透かしと言えば肩透かしだが、これはこれで気楽でいいものだとも思う。
明日の事は明日考えることにしよう、そんな感じに思考をまとめて、次の角まで行ったら戻ろうかな、と思った時だった。
雨がひときわ強くなった。
世界がモノクロを通り越して、輪郭すら滲んで灰色に塗りつぶされる。轟音が過ぎて聴覚がマヒする。呼吸が水に取って代わられ咽込んだ。護符の加護の上から雨が圧し掛かる。
グラリと、膝から崩れそうになり、堪えた。盛大に飛沫が上がりブーツが濡れる。流石に雨とは認識されないらしい。多少の飛沫は弾かれていたように思うから、量の問題なのだろうけれど。
「商品化するにはちょっと改良が必要かな」
量産体制にやや難在りな事には取り敢えず目を瞑る。むしろ今は現実の方から目を背けたい。
ずぶ濡れに成らないのが不幸中の幸いだが、押さえ付けられる様な雨の中を歩き続けるのが、拷問でないかと言えば、答えは否だ。気を抜けばこの場で膝をついてしまいそうで、すでに重圧で首が悲鳴を上げ始め、リューは前を向く事を諦めた。だが、少し離した指先すら掻き消されてしまうような雨の中だ。既に自分が何処を歩いているのかすら覚束ない。兎に角先ずは雨を凌げる軒下にでも避難しないことにはどうしようもない。仕方なく首を窄め視線を下に落としズリズリと摺り足で移動を試みる。そして、波紋どころか飛沫を上げる水面と化した地面に向いた視線が人影を認めた。
「こんな所で何をしているのですか?」
声は静かで、驚きと非難とそして、なにかを滲ませている。
リューは顔を上げた。
そこに男がいた。
ずっと濡れ続けているようなそんな色をした草臥れた外套の前をきつく締めている。項垂れている様にも見えた。リューと同様に雨の重圧から少しでも逃れる為に首を窄めているからなのだろうが、何故だかそうする事に慣れてしまっているのではないか、そんな風に思えた。そう思わせるだけの諦観の滲みが外套から覗く瞳にあった。
「散歩かな」
リューの声は雨に潰された。
男にもそれが分かったのだろう。
「雨の凌げる所へ行きましょうか……」
先導するように歩き出した。
リューはその背を追いながら、思う。
なぜ、男の声は聞こえたのだろうか? と。
叩きつけられる雨粒は遥か頭上で弾け砕けてガラスを伝い、端にある守護像の口から吐き出されていた。普段ならば聞こえるだろうガーガーと言う水の唸りも、今は轟と震える雨音に掻き消されている。雨は弱まる事を知らず、寧ろその勢いを強めていた。
男に導かれるようにしてリューが立ち入ったのは、寂れたパサージュだった。
かつては綺麗に敷き詰められていただろう石畳は罅割れ、所々から雑草が姿を覗かしている。屋根も硝子が割れているのか、それともずれているのか、雨漏りというには盛大すぎる流れが上下をつないでいる。そんな風だから、そこは暗く重く沈んでいた。それでも、雨の重圧がないだけでも幸いと言えたが……。
「昔は、もっと賑わっていたのですよ。街の路が整備されるまでは」
こんな雨の時も……。
「ふーん。そうなんだ。見てみたかったな」
どこまで本気か疑いたくなるような調子で呟くリューに男は「そうですね」と答えた。
「人が行き交い、露店が並び、こんな雨の時には、皆が示し合わせたように集まり……、けれど、もはや時代遅れと見捨てられた、必要ないと要らないものとされた……」
雨が強くなった。重く陰鬱にと言ってもいい。雨を凌げる場所にいる筈なのに、空気が雨を含んだかのように波紋に揺れた。
「ああ、思い出した。雨男の伝説だ……」
リューが紡いだのは、そんな言葉だった。
「確か水龍に雨を請い雨と共に歩む様になったとも、筆舌尽くしがたい侮辱を行い雨に永遠に囚われたとも言うけれど、その本質はどっちも同じだね。己を犠牲として雨、詰まる所水を誰かの為に求め、手にし届けた」
それは、だれもが一度は耳にしたことがある御伽噺と言ってもいい、もはや実際にあったのかどうかさえ確かめようもない、時の流れに擦り減り摩耗した曖昧模糊とした物語だ。
「それで十分だった、はずなのですけれどね」
男の表情には驚きがあり、後悔があり、諦めがあった。
男の言葉が真実なのか、あるいは狂人の戯言であるのか、知る術はリューにはない。しかし、だ。長く永く相伝される物語には真実が一欠片は紛れ込んでいると経験的に知ってもいる。肉体年齢を巻き戻してしまう呪いがあるくらいなのだから、雨雲が纏わりついてくる呪いが存在しても何らおかしくはない。何よりも、似て非なるけれど限りなく近いモノをリューは知っていた。
入れ込んでいるなと思考の片隅で思う。関わる理由を探してしまっている時点で俯瞰で状況を見れてはいない。
「商談をしない?」
「商談、ですか?」
「そ、商談。俺、商人なんだ。商人がすることは一つでしょ。あるところからない所へ、必要とする人がいる場所へ商品を届ける、仲介も含めてさ」
ああ、親父や兄貴たちならもっと上手く話を進めるんだろうなぁ。
吐きたくなるため息を抑え込む。
商談の基本は相手の懐に入り込むこと。その為には急がず騒がず慎重に、誠実を持って相手との距離感を詰めていかなくてはならない。
果たして現状は?
男の表情は警戒を示している。当たり前だ。
いきなり出会ったばかりの人間に取引しましょう、なんて言われたらリューだって正直逃げ出す。
ただまあ、入れ込んでしまったのだから仕方がない。一方的に知っているだけの押し売りのようなものだけれど。だからと言って一方的な利益を得るつもりもない。商人は価値に対して誠実であってこそ商人だ。
「この雨を、届けて欲しいんだ」
「どこに届けるというのです」
返答はやや怒気をはらんでいた。受け入れられないからこそ彷徨っているというのに、いったい誰が何もかも塗りつぶしてしまうような雨を望んでいるというのか、男は言外にそう言っていた。
対しリューは。
「北の方だとここ何年かは降雪が少ないからいつも翌年の水不足に悩まされていて、冬にまとまった雪を欲しがっているんだ。西の内陸部は慢性的な水不足だし、東の島国は夏に雨が少なくて困ってる。回るルートや順番はもう一度検討が必要かもだけど、どうかな?窓口は俺ね」
すらすらと詰まることなく返してみせた。なんてことはない。腹案を開示した、それだけのことだ。何度も練り直したものだから、結構自信もある。
「それは、そんなことは許されることなのですか?」
「許されるかどうかなんか知らない」「な?!」
「けどさ、それってなにか関係あるのか。誰かの為に動いた奴が報われないなんて俺は認めない。……なんて言ったところで、あんたにその気がなければどうのしようもないんだけどさ。俺から提示できるのは二つ。一つは行き先。二つ目は帰る場所、と言ってもこっちは相手がいる話だしそっちにも頑張ってもらうことになるんだけど、どうする?」
物語に出てくる悪魔みたいなこと言ってるなぁ、と思わなくもないがやってることにあまり違いはない。対価を貰い望みを叶える。違いなんてその後、更なる取引に繋がるかどうか? 位だろう。相手に選択を迫るのも同じだ。
開き直ってヘラっと笑う。やる気があるのかないのか判断に迷う、けれど人好きのする笑顔だった。
それが決め手だったのだろうか。
「話を聞かせてください」
男がおずおずと手を伸ばし、リューはそれを掴む。雨音が少し遠くなった、ような気がした。
「……取りあえずはこんなところかな。文書としてはウィンドベルの俺の実家に置いてあるから、それを見てもらって……、不安だったら癪だけど親父に意見を聞いてもらえるとありがたいかな」
パサージュに置き去りになっていたイスとカフェででも使われていたらしいガラス作りのヒビの入ったテーブルをおっかなびっくり運んで来て座ると商談のようなものを始める。途中懐から出した紙が湿気を吸って程よくふにゃふにゃになっていて文字が滲むというハプニングがありつつも、一つ目をほぼ提示し終える。ほぼなのは、まずどこに行くにせよ水のやり取りの為の契約を相手と結ぶ必要があるからだ。そうでなかったら、単なる押し売りもしくは、止まない雨という武器でもっての侵略だ。
そういう方向で考えるのもありだったかな? などというふざけた考えが過ったのは、なかったことにする。
「雨を売るなんて、考えもしませんでしたよ」
男の声に呆れの響きが混じっているように感じるのは気のせいだろうか? リューとしては勘違いだということにしておきたい。ただ、雨の音がやけに遠い。
「親父にも言われた。けど、元手不要の水があるなら、普通考えると思うんだけど」
「あなただけだと思いますよ」
そもそも伝説だから雨男の伝説なんてものが流布しているのであって、普通は実在を前提とした計画は立てない。が、そのようなことを考慮するようであれば最初からこんな計画は立てるはずもない、ともいえた。
「で、続きなんだけど」
「……はい」
「ここからだとだいぶ南の方になるんだけど、そこのオアシスに晴女の一家が住んでいるから先にそこ行って待っててもらえる?」
「はい??」
「ウィンドベルへ行ってくれって言った後で申し訳ないんだけど、やっぱり少し手を入れたいから、時間が欲しい。かといって、この町にいてもらうのも悪いから、先に『帰る場所』の確認してもらおうかと思って」
「いや、ちょ、ちょっと待ってください?!」
男が悲鳴のような声を上げた。当然だ。突然情報が増えた。それも男からしても理解がしがたい情報が。
「晴女の一家って何なんですかっ」
「晴天に纏わり付かれている家族かな」
言葉を失いパクパクと口を動かす男に、リューはさらに言葉を重ねた。
「多分だけど、そこなら何とかなると思うんだよね。確証がある訳じゃないんだけど、彼女たちなら」
彼の話を初めて聞いたのはいつだったかはもう覚えていない。寝物語としての御伽噺だったような気もするし、酔っぱらってご機嫌な父親の与太話だったような気もする。ただ、こう思った事だけははっきりと覚えている。
なんでだよ。
なんで、誰かの為に動いた奴がそんな目に合わなきゃいけないんだよ、と。
人には過ぎた力を持つにはそれ相応の代償が必要だと諭されもしたが、納得はいかなかった。だからって、それは彼一人が背負わなくてはいけないものなのか?
ずっと引っかかっていた。正解は分からない。そもそも、行く先々で意図せず止まない雨を降らせる。穏便な利用方法は思いつく。雨の降らない地域へ水害が起きない程度の間隔で定期巡回する。いくつもの国を渡るから越境の許可の手配、それと軍事利用を考える連中が必ず出てくるだろうから、それへの対策。そんな、雑多なけれど、必要な処置は、おそらく可能だ。だがそれは彼を単なる道具と見做しているのと同義ではないだろうか。
一か所に落ち着くことなくただ雨をもたらす為だけに行動する。
そんなもの、水に捕らわれているの等しい。自由など何処にもない、雨の牢獄の様なものだ。
あるいは、気にしなければよいのかもしれない。
けれど、思ってしまったのだ。なんでだよ、と。ならば、出来ることを探すのが人間だろう。
彼女たちのことを知ったのもそんな時の事だ。詳しいことは何もわからない。ただ晴れに好かれた一族の末裔としか分からなかった。後に、本人たちに尋ねてもその本人がそういう事と受け入れていた。そのことを少しだけ悲しいと思った。
「……そこまで、段取りが出来ているなら」
男の声は、もう最初のような滲みを含んではいなかった。
パサージュの天井を打つ雨音は相変わらず激しい。崩れかけたガラス越しに、灰色の雨が滲んでもいる。けれど、先ほどまでの『押し潰されるような圧』は、ほんのわずかに和らいでいる気がした。
それは気のせいか、それとも……。
「私は『運ぶ』だけでいいのですか?」
「うん。今までもそうしてきたでしょ?」
リューは軽く肩をすくめた。
「ただ、今回からは『行き先』がある。違いがあるとすればそこかな」
「『帰る場所』も、ですか……」
「そっちはまだ仮だけどね」
あっさりと言い切った。誠実と言うのか、歯に衣着せぬと言うのか、或いは取り繕わないだけかもしれない。
「だから確認してきてほしい。合うかどうかは、あんた自身の問題な訳だしね、こればっかりは本当俺も確約は出来ないし、さ」
男は、少しだけ目を伏せた。
長く、長く、行き場もなく降らせ続けてきた雨。
それに『場所』を与えるということが、どういう意味を持つのか……。今はまだわからない。いつか分かるかもしれないが、それはきっとずっと先の話になるのだろう。
だから。
「……本当に」
ぽつりと、零れた男の問いに対して。
「本当に、いいんですか」
「いいよ」
リューは即答する。
「商売だからね。双方納得してるなら、それで成立」
一拍置いて、付け加える。
「それに、さ」
少しだけ視線を逸らして、未だ雨で滲むパサージュの天井を見上げて。
「報われない話って、好きじゃないんだよね」
男は、ゆっくりと頷いた。僅かに上を向いた顔には笑みが浮かんでいる、様な気がした。
「それで、あなたは来てくれないのですか」
ただ、やはり不安なのだろう。ポツリと零す。
リューは、きょとんとした顔をしてから、ああ、と笑った。
「行かないよ」
即答。男が呆気に取られて、ぽかんと口を開けてしまう位にあっさりと。
「だって俺、商人だからね。俺の今回の仕事は道と手段を用意するところまで。歩くのは本人の役目だよ」
冗談めかして言うが、その実、線引きははっきりしている。
まあ、その後曖昧に笑って頬を掻きながら付け加えたのだが。
「それに、俺がいたら多分、話こじれるし」
「……どういう意味ですか」
「俺、結構押しが強いから」
悪びれもなく言い切る。
男は一瞬呆れ、それから………。
小さく、笑った。
「行き先は、さ」
リューは指先で宙に線を描くようにしながら言う。
「ここから南。乾いた土地を抜けて、岩場が増えてきたら西に向かう。そこにオアシスがある」
「……本当にいるのですか、その『晴女』さんは」
「いるよ」
迷いのない答えだった。
「一回だけ会ったことがある。空だけ背負ってるみたいな人だった」
男はリューを見返した。
雨に愛される者がいるのなら、晴れに愛される者もいる。言葉にしてしまえばそれだけの話なのに、そんな発想は今まで一度たりとも浮かばなかった。
もし、本当にそんな存在がいるのなら……、自分を覆い続けるこの雨も、少しは遠ざかるのだろうか。そんな表情を、浮かべた。
「ま、信じるかどうかは自由、とは言え。信じてもらえると嬉しいよね」
リューは軽く手を振る。
「だから、さ」
一拍。多分それは、リュー自身にも言い聞かせるような。
「きっと、何か変わると思うよ」
雨音が満ちる世界に、その言葉は静かに響いた。
答える声はしばらくなく、やがて。
やがて。
「行きます」
男の声は、確かにリューに届く。
諦観の滲みは薄くなっていた。澱の様に折り重なり積み重なったすべてが消える事はないのだろうが、前を向けたのならば進む事は出来るだろう。
二人してパサージュの中を抜け入口へ向かう。変わることなく叩きつけるような雨が無数の波紋を描き出している。色を奪いモノトーンの世界を作っていた。
「じゃ、ここでお別れ」
リューは言って、くるりと背を向ける。
「仲間待たせてるし、さ。そろそろ帰らないとソフィアに怒鳴られそうだし」
ひらひらと手を振るその背中は、とても気楽だ。雨の中でさえ空を見上げ、明日もきっと面白いことがあるに違いないと歩みを続ける旅人の背中だった。
「ああ、そうだ。コイツ持って行ってよ」
あっさり振り返ってリューは男へと借り物の筈の雨よけの護符を投げ渡す。
「少しは歩きやすくなると思う。手付金の代わりに使って」
男の返事を待たず、リューは歩きだす。
「ありがとう、ございます」
震えるような男の声が、雨音の中でもはっきりと届いた。
「いいって。取引なんだから」リューはそう返し、少しだけ間を置いて。
「価値って、使い方次第で変わると思うんだ」とだけ付け加えた。
男は、雨の中へ踏み出した。
その歩みに迷いはない。きっと初めての事だろう。『どこかへ向かう』ために、この雨を連れて行くのは。
「……遅いですね」
槍の手入れを終えたクロバが窓の外を見ていた。
「まぁ死にはしねぇだろ」
スカイアが気楽に言い、
「死なないでしょうが、きっと面倒ごとを拾ってきやがります」
ソフィアがため息をつく。
と、窓の外、雨の中を文字通り歩いて軽い影が現れた。
「ただいまー」
何事もなかったかのように、リューが戻ってくる。
ただびしょ濡れだ。全身ずぶ濡れ濡れネズミ。服を搾ればきっと手桶一杯分は位は容易く満たせる水が滴るに違いない。
「水も滴るいい男ってね」
水を吸い軽やかさを失った前髪が目元にまで垂れ下がっている。かなりうっとおしそうだが、リューは気にした様子もなくむしろご機嫌だ。
「冗談言ってないで、さっさと拭いて着替えやがれですっ」
ソフィアが投げつけたタオルと受け取る動作も軽快だ。「ありがと」とワシャワシャと髪の水気を取る。
「遅かったっスね」
「ちょっと商談してきた」
ガッポガッポと音を立てる靴を脱ぐ。ヒースが操るチャーリーが受け取るとえっちらおっちらと運び、窓からたまった水を捨てていく。
「こんな雨の中でッすか?」
「うん」
にやり、と笑う。
「近いうちに『雨』が商品になるかもね」
「は? 雨っすか」
ユーヒが素っ頓狂な声を上げて、窓の外を見た。雨は止む気配すら見せない。
「そうだクラウス。護符手付金代わりに使ったから、また作っといて」
ソファーから体を起こして、けれどうつらうつらと上半身を揺らしているクラウスが薄目を開く。
「……ちゃんと返してって言ったのに。あー面倒くさい……」
「まー、良いじゃないか。商談が成立したなら役に立ったってことだろ。大目に見てやれって」
心底面倒だと呟くクラウスをスカイアがまぁまぁと執り成す。
「とにかく、リューも戻ってきたんだ。メシに行こうぜ」
パンパンとスカイアが手を叩く。
「それなんだけどさ、ちょっと纏めたい事があるから手伝って欲しいんだよね」
ニッと笑うリューを見てその場の全員が思った。『あ、コレ絶対に長引くやつだ………』と。
「ソフィアの言う通り面倒事がやってきましたね」
クロバが皆の気持ちを代弁するようにため息をついた。
その夜。
遠く離れた南の空を、雨が一筋、乾いた大地へ向けて歩いていった。
【エデン】ねこねこ事変:前編 - あさぎそーご
2026/02/22 (Sun) 09:38:13
ある冬の日。
三日三晩ダンジョンに籠もりきりで片っ端からレイドを討伐し、くたくたで帰宅して風呂もそこそこにベッドにダイブした翌日の朝。
「ふざけんな✕ね」
「ダンジョンに行くぞ」とアホなことを宣いながら部屋をノックし続ける人物に、ゆあは心の底からうんざりした声で答えた。
「お前だって数を稼ぎたいだろう」
「限度があるって言ってんだよ!」
相手の言う通り、討伐数を稼いで少しでも《《確率》》を上げたいのはある。だが身を粉にし過ぎるのは悪手だ。身体を壊しては元も子もない。
しかし、それを当たり前だと考えるのは自分だけ。扉越しでも分かる。向こうは心底不思議そうな顔をしているだろう。何故なら。
「世の中脳筋ばかりじゃないの! 考えなしに突っ込んで無駄なハロ使わせやがって……少しは学習しろ! 動く前に前準備! 座学! 地図を頭に叩き込め! 作戦を立てろ! 魔獣の特徴覚えて対策! 全てはそれができてから!」
「そんなことせんでも《《勝てる》》」
「それが脳筋だって言ってんだクソが!!!!!」
ここまで言っても引く気配がない。
話し合うだけ無駄なことは、クランに入って1週間で悟った。
ベック•ルージュ……通称【赤嘴】の盟主ヴァン・クッカルは確かに強い。カリスマもある。しかしその実、富と名誉を得て承認欲求を満たし、酒と女を抱えて馬鹿騒ぎすることしか考えていない。そしてその周りには同じ考えの人間が集まっている。
そう。こいつらはバカなのだ。
人種が違う。優先するべきことが、自分とは違いすぎる。価値観が合わないだけで同じ人間と思えなくなるだなんて、恐ろしい話だ。
いつもは諦めて折れるところだが、ゆあはもう限界だった。このままではダンジョンの奥底で血反吐を吐いて、クランの全員からブーイングをくらうことになる。そんな醜態を晒すくらいなら、潰れる前に全員に最大級の怪我を付与して死んだほうがマシだ。
つまり、このままついていけばどう足掻いても全滅コース。
「分かった。1時間で準備してクランルームまで行く」
「当然だ。あまり待たせてくれるなよ?」
ゆあの了承に、ヴァンは(恐らくふんぞり返って)答えて階段を降りていく。
ゆあは1人玄関に座り込み、盛大にため息をついた。
「………………さて」
彼女は勿論、このまま言いなりになるつもりはない。キッチンで水を一杯胃に流し込み、シャワーを浴びて手早く身支度する。必要なものをポケットに詰めて、丁度45分。
待たせたら面倒なので、早いに越したことはない。こちらが待たされる時は「小五月蝿い」と文句を言うくせに。本当に始末に負えない。
赤嘴のクランルームはハビラの一等地にある。白羽のクランルームのように、オフィルに並んでいるのが一般的ではあるが、例外は多い。主に、協調性のないクランがそれに該当する。赤嘴もいかにも協調性がないと、少なくともゆあは認識していた。
ゆあのマンションはハビラの商店街の外れ。クランルームまでは歩いて10分程。
早足にメインの通りを進むと、彼女に気付いて振り返る者は多い。手を振られたり声をかけられることもあるが、ゆあはその全てを愛想笑いでスルーして、馴染みの酒屋に顔を出す。俗に言う寄り道だ。
「こんにちは」
「おや、いらっしゃい。珍しいね。こんな時間に」
酒屋の店主は笑顔で出迎えてくれる。ゆあはクランの使いっ走りにされることもあるし、自前の酒を買いに来ることもある常連なので、よくしてもらっている方だと自負していた。
「ラム酒、一樽もらってもいい?クランまで運んでほしいんだけど」
「お安い御用」
少し多めに金額を提示すると、すぐに取り引きが成立する。店主は樽を入り口付近まで転がし、少し待ってて、と奥に引っ込んでいった。
ゆあはその隙に、樽上面の金属栓を抜いてポーションを流し込み、元に戻す。数秒間の犯行に気付くものはなく、樽はエプロンを外した店主に転がされて、無事赤嘴のクランルームの入り口まで運ばれた。
スイングドアを開いて酒屋を招き入れる間も、奥から馬鹿騒ぎする声が聞こえてくる。
赤嘴のクランルー厶は表向きは酒場だが、常に貸し切り状態。客として訪れるのは、戦利品を買い付ける商人と貴族、酒とタバコを運ぶ業者、盟主目当ての女達だけだ。
「お。差し入れか?」
物音に気付いて出てきた数人が、酒屋と樽を取り囲む。ゆあはその輪からずれながら冷めた声で言った。
「どうせもう飲んでるんでしょ? 出発前にみんなでどうぞ」
「遅れた詫び酒ってやつか。可愛いとこあるじゃねえか」
速攻で攫われていく樽を見送る。冗談だとしてもキツイ……ゆあはあからさまに顔をしかめた。
遠目に仲間たちを見ると、まだ昼にもなっていないのにもう泥酔してる輩もいる。これで全員猛者なのだから、世の中どうかしていると、苦笑することしかできない。
ため息で切り替えて、酒屋の店主に礼とチップを渡し、見送りを終えたゆあにクラン員の一人がジョッキを差し出した。
「あんたも飲みなさいよ」
赤嘴には女性も多い。その大半が、そしてゆあの目の前の女も例外なく盟主《ヴァン》を狙っている。スキルのせいで目をかけられているだけのゆあを、全員がライバル視してくるのが大変煩わしい。
「あら、わざわざありがとう」
「変なもの入ってたら困るもん。ねー? みんな」
笑顔で受け取ったゆあを、背後の女性達もくすくすと笑う。その中心にいたヴァンが立ち上がると、周囲の人間も一斉に動いた。
「乾杯後に出発だ。今日も狩るぞ」
簡潔な宣言が歓声を巻き起こす。木製のジョッキが掲げられ、打ち付けられ、全員がゆあの《《差し入れ》》を一息に飲み干した。
ガランガランガラン……
響いたのは大量のジョッキが床に転がる音。次いで、沢山の可愛らしい鳴き声。
「にゃー」
「にゃ?にゃにゃにゃ?」
「にゃおー! にゃあ」
クラン、ベックルージュ【赤嘴】のメンバーは一人残らず猫になった。どうしてこうなったかは明白だが、如何せん猫となってしまった今、どれが誰だか分からずにもみくちゃになる。
そんな中、唯一盟主だけはしっかりと女性陣に囲まれていた。
末恐ろしい。
盟主を狙う女共の狡猾な争いに、勝手に巻き込まれるのもうんざりだ。騒ぎに乗じて表に飛び出し、雑踏に紛れた猫姿のゆあは、近場の木箱を伝って屋根に飛び乗り一息つく。
ゆあが仕込んだのは、コトワリがハロウィンに使用する悪戯用のポーションだ。効果は丸一日。ただただ猫になるだけの無害なポーション。解除薬はコトワリにしか作れないし、ゆあ自身は持っていない。
(これで1日ゆっくりできる)
本当は食料品の買い出しや新作スイーツ巡りなど、やりたい事はそこそこあったが。それはまた別の機会でいい。
本日の……いや。いつも最優先事項は、彼女の中で決まりきっていた。
考えながら身体を伸ばし終え、普段の自分の金髪に近い毛並みを整え、屋根伝いに目的地を目指す。メインの商店街からは少し遠いが、人混みを抜けなくていいのは助かる。
下り気味に家々を飛び、いつもと違う角度から馴染みの道を探していると、あまり会いたくない人物を見つけた。思わず足を止めて身を隠す。いや、猫だからバレないかもしれないと考えたが、それでも関わりたくはない。
時々贈り物をくれるけれど、あまり趣味が合わないのと、いらないと伝えても理解してくれない理解力のなさが面倒なのだ。善意からくるものだから余計にタチが悪い。加えてもう一つ。
「今日の商談相手は富豪だぞ。あの雑魚雑貨屋じゃお目にかかれないような、凄い品を仕入れてギャフンと言わせてやろう」
好きな人を目の敵にしている人間と仲良くしたくない。これが本音だ。
部下か仲間を連れ立って階段を上っていく眼帯の男をやり過ごし、なるべく人目につかない場所を選んで目的の店に辿り着く。
いつ来ても本当に目立たない、階段下に押し込まれたような雑貨店。入り口は閉まっていて、CLOSEDの看板がかけられていた。
(コトワリくん、いないのかな?)
諦めきれずに窓枠に乗って、カーテンの隙間から中を覗くがよく見えない。肉球で窓を叩いてみても、反応どころか気配もなかった。どうやら本当にいないらしい。
がっかりして耳と尻尾が下がったところに影が落ちた。でも影の主は絶対に彼ではないと、ゆあは思う。何故ならコトワリは不用意に動物に近付かないからだ。理由はよく分からない。でも多分、ひっかかれたり蹴られたりするんだろうなと予想している。
「今どきは猫も雑貨屋に買い物に来るのか……」
緑の髪の男が物珍しそうに見てくるので、なんとなく距離を取った。悪い人ではなさそうだが、捕まるわけにはいかない。
大き目のカバンにはポケットのシンボル。PP……ポケットポケットの人らしい。伸びてきた手を避けて床に降りると、残念そうな顔をされた。
「警戒心強めだな……なんにもしないって」
床に足を付き、頭を撫でようとしていることは分かったが、知らない人に触られるのは少し嫌かもしれない。樽と木箱を伝って屋根に登ると、緑髪の人は困ったように頭を掻いた。
「あちゃー……悪かったよ。ここの店主の知り合いなら、また来るって伝えてくれ。……なんて、猫に言っても仕方ないか」
独り言よろしくそう言って、男は肩を落として去っていく。申し訳ない気持ちもあり、猫も大変だなと別の同情が生まれたりと気もそぞろなところに、また声が飛び込んだ。
「ねこさんだー、こんにちはー」
振り向くと、階段下辺りからこちらに手を振る人がいる。
(白羽のピンクの子だ)
何度か顔を合わせているし、挨拶もした。それでもまずは綺麗な髪色が目に入り、頭の中で勝手にそう呼んでいるゆあである。
(名前は確か、アロくん。よくコトワリくんと一緒にいるんだよね)
2人でいる時、コトワリはよく白羽のことを話した。アロには奇抜なことで驚かされた……という内容が多いが、どれも微笑ましい体験談だったと記憶している。
(撫でさせてあげたいところだけど、生憎私はコトワリくん専用なんだよね……)
ゆあは心の中で唱えて、屋根から降りる代わりに尻尾を振った。するとアロは背後を振り向き気味にゆあを指す。
「ティトンー、あのねこさん」
「あ、ほんとだ。猫いるね。コトワリの知り合いかな」
「そうかもー?」
会話しながら階段を登り、通り過ぎていく2人。楽しそうな雰囲気に思わず気が緩む。
(青い子もいたのか。あの子はヴァンも警戒してるんだよな…)
可愛い顔してS級シーカー。ダンジョン探索界隈では有名な人だ。彼とはダンジョン攻略について語ってみたくはある。しかし彼の考えを赤嘴に取り入れさせる自信はないので、知識の持ち腐れになりそうで申し訳ない。
戦略や作戦を練っての攻略には憧れる。なんなら話し合いができるだけでもいい。しかしレイド討伐主体のクランは少なく、なおかつ最高ランクのレイドをバサバサと倒せるのが条件……となると、現状では赤嘴に所属する他なかった。
(レイドはともかく、一回だけでいいから白羽のダンジョン探索に同行してみたいな。おもしろそうだし)
実現が難しいのは理解している。でも考えるだけなら誰も文句は言わないだろう。
Re: 【エデン】ねこねこ事変:後編 - ②
2026/03/30 (Mon) 09:16:59
しっぽを揺らして寝そべるゆあの目の前を、また知った顔が通り過ぎていく。
真白な髪を後ろに束ねた、筋骨隆々な隊長。その後ろを赤いしっぽのアヒルが付いて歩いている。
(ダック隊長とイーサンだ)
一人と一匹もまた、階段を上っていた。その途中、こちらに気付いたイーサンが足を止めて羽ばたく。ダック隊長は一瞬立ち止まり、気を付けるよう爽やかに注意して去っていった。
(もしかして導かれて来てくれたのかな?)
イーサンが特別なアヒルだということは知っている。コトワリ伝に面識ができた日になんとなく気付いて、噂を経て隊長経由で裏を取ったからだ。
羽根があれどもアヒルは飛べるわけではないので、どうにか手摺を乗り越えてこちらに来てくれる。
(コトワリくんの居場所知らないかな?)
折角なので聞いてみたい。とはいえ、猫語を操れるわけでもないので困っていると、イーサンの方から話しかけてきた。
「グワッ? グワッグワ」
羽根を動かした後に胸を張っているし、任せろ、と言っているように見える。が、残念ながら猫でもアヒル語は理解できなさそうだ。
それでも意思の疎通ができるのが不思議ではある。頷くと、イーサンはまた階段の手摺を乗り越えて行ってしまった。
(きちんと会話になったら面白いのに……残念だな)
今度はアヒルになれるポーションを作ってもらおう。作れるかは分からないけど。
さて、あとはイーサンが連れてきてくれるのを待つだけだ。正直あまり具合もよくないし、このまま軒先で待たせてもらおう。
屋根の上は安全だが目立つ。それに、草やツタが茂っていて少しくすぐったい。
扉の横にある棚の中にいれば、そうそう見つかることはないだろう。ゆあは静かに床に降り立ち、人目がないのを確認してから植木鉢とつぼの間に滑り込んだ。
暫くの間は静かだった。
商店街の方角が騒がしい気もしたが、距離があるので関係ない。
毒気に浮かされてうとうとしていると、重い足音が近づいて来る。
やがて雑貨店の扉の前に立ったのは、鎧を着た金髪の男だ。
「うーん……今日はまだ開いていないか」
CLOSEDの看板を恨めしげに確認して、急ぎ気味に去っていく。
彼が秩序【パレス•オーダー】の中でも勤勉なことはよく知っていた。騒ぎを聞きつけて、もう動き始めたのか。ハビラは今日も平和だなと、ゆあはしんみりする。
(コトワリくんのことよく知ってるコなら、解除用のポーションがあると踏んだのかな)
はたまた、ハロウィンに《《イタズラ》》されたクチか。ちなみにゆあは話を聞いて頼み込み、譲り受けただけで、飲んだのは初めてである。
人によっては罰ゲームにもなりうるポーションだろうが、ゆあ本人は楽しめるのでなんの問題もない。寧ろ休むために利用させてもらったくらいだ。クランの仲間に後でぶーぶー言われるのも、結果としては変わらない。それならぶっ倒れるよりも、しっかり休んだ後に受け流した方がいい。
そういえば、酒に混ぜてしまったからどんな味かわからなかった。今度は味わって飲みたいものだ。
眠れそうで眠れない。街の喧騒に混じるのは、どこかで聞いたことがあるかもしれない独特な会話。
「あらやだ、こんなところ引っかかれちゃった」
「下手に手を出すからです」
「そりゃ、あんなにいるんだもの。手も出るわよ。全員保護して猫カフェでも作ろうかと思ったんだけど、ダメね。あの子たち、気性が荒すぎよ」
「賢明ですね」
耳馴染みのある掛け合いが心地よい。
ネズミカフェ繋がりで時々見かけることがある。一人は確か、染め物屋さんだ。ネズミちゃん達のお洋服を作っては持ってくるのだと聞いたことがある。そうなるともう一人は同じクランのモノクルの彼だろう。真面目で気苦労の多そうな感じが返答にも出ている気がする。
白い服を好んで着るゆあにはあまり馴染みのない染め物屋だが、少し興味が湧いた。
魔獣討伐以外で楽しみができるのはよいことだ。何事にも気晴らしは必要である。
それが例え、急ぎの探し物の途中であったとしても。
ゆあが探しているのは、ボス魔獣から低確率で取れる「祝福の宝石」と呼ばれるアイテムだ。どのボス魔獣が落とすのか、そもそも実在するのか。情報も眉唾な超レアと言われている代物で、その効果は「ハロを持たない者にハロを顕現させる」夢のようなアイテム。
既に大きなハロを持つゆあが、どうしてそんなものを探しているのか。その理由を知る者は片手の指で数えられる程しかいない。同じクランでありながら、赤嘴のメンバーは誰一人知らないだろう。
ゆあには年の離れた弟がいる。
治癒のスキルを持つゆあにも治すことができないほど病弱で、いつもベットの上で過ごしている。
弟はいつも、元気になったらダンジョンで冒険してみたいと、色んな冒険記を読み漁っては語っていた。布団から出ずに、できることが読書くらいしかなかったからだ。
元気になったら。元気になってほしい。
だけど弟はそう永くは生きられない。そういう運命だと、医者も牧師も宣言した。
それなら生きているうちに、ダンジョンに連れ出してあげたかったけれど。それすら叶わない。だって、彼にはハロがないから。
ハロがない者はダンジョンに入る資格すらない。それならもう、やれることは1つだ。
(大丈夫。まだ、あの子は頑張っている筈だから)
その報せがいつ訪れるかは分からない。外からの手紙を恐れる程には焦っていることに、ゆあ自身も気付いていた。
恐らく、もうそんなに時間はない。だけど、自分を見失っては見つかるものも見つからないと、どこかで誰かが言っていたし。大丈夫だ。きっと。多分。
もう心のどこかで諦めてしまっているからでは、決してないと。分かりきった独り言を繰り返す。
そうして巡る思考の狭間に、また別の声が落ちてきた。
「どっかのクランから猫が大量発生したらしい」
また聞いたことがある声。白羽の一番大きい子だと、ゆあはすぐに気付いた。
「なんか騒がしいのはそれか」
続いた声はハビラでも有名な千里眼の子。
(名前は確か、大きい子がクエルくん、千里眼の子はイロハくんだったかな)
イロハも白羽のメンバーだが、ティトンと一緒で界隈にも名が通っていると、ゆあは短く思い返す。
この2人が並んで歩いているとよく目立つので、道の端で女子がひそひそきゃーきゃーしているのをよく見かける。本人達は気づく様子もないのがまた、白羽っぽいなと思うゆあである。
クエルクスは缶詰集めが趣味らしく、ゆあもコトワリに缶詰の情報がないか聞かれることがある。だからか分からないけれど、すれ違うとペコリと頭を下げてくれるので、同じように返していた。ちなみにイロハは片手を胸の前でひらひらし、ティトンとアロは大きく手を振って挨拶する。
だけど不思議と、積極的に話しかけてはこない。
(みんなコトワリくんに遠慮しているのかな?)
深読みするのもよくないので、そういうことにしておこう。
猫だからか、棚の中にいても階段付近の会話がきちんと聞こえた。また遠くから別の声が飛んでくるのもハッキリと分かる。ついでにフライドポテトのいい匂いがした。
「オレもさっきねこさんみましたよー!」
「言ってる間にも、ほら。そこにいる」
さっき上に上がっていったピンクと青のペアが帰ってきたらしい。自分の姿は見えない筈だから、仲間が側にいる可能性がある。警戒を強めて身を縮めると、離れた場所から威嚇する声が聞こえてきた。階段を挟んで反対側の小道だろうか。
合流した4人が威嚇する猫を振り向いた気配がする。
「……これ、ねこさんじゃないかもー」
短い間を置いて、アロがなんとも言えない声を出した。残念なのか、困っているのか、面白がっているのか。色んな要素を含んだ一言だった。それにすぐさまティトンが反応する。
「え。じゃあなに?」
「わかんないよー」
脳天気な答えで場が和んだ。どうやらただの勘らしい。しかし恐らく当たっていると、ゆあは思う。
その答えはすぐにもたらされた。
威嚇していた筈の猫が驚いて変な声を出す。
「人のようだねえ」
猫を視線だけで大人しくさせ、呟いたのは新たな幼い声だった。
「盟主。コトワリはどうしたんですか?」
イロハが尋ねる。幼い声の主、白羽の盟主は朗らかに答えた。
「仕入れがあるというからね。先に帰ってきたんだよ。ああ、交渉はうまくいったから、安心してくれたまえ」
がさごそと、箱を受け渡す音がする。続けてイロハが呆然と答えた。
「こんなに沢山」
「いやいや、これは一部だよ。残りは後から届けてくれるから宜しくね」
「これじゃあ、キャベツ地獄がエビ地獄にすり替わっただけでは?」
「そう心配ないでも。エビ以外の食材も来るからね」
最後にクエルクスが呈した苦言も天然で受け流す。白羽の盟主、梟はどこまでも穏やかだ。そして可愛い。
(そういえば、梟さんのスキルは猫化だったよね。もしかしたら猫語やアヒル語も分かるかも。今度聞いてみようかな)
逸れた話を淡々と、ティトンが軌道に戻す。
「食卓の心配は最もだけど、今はコトワリを探した方がよくない? 人が猫になってるってことはさ、コトワリの力が必要になるかもだし」
「……いや、食材を受け取りにいこう」
イロハがすんとした声で返すと、一息置いてクエルクスが聞き返した。
「なにが見えた?」
「んー、見えたというか、関わってもいいことは無さそうだぜ」
どうやら、イロハがスキルで状況を把握したらしい。全てを説明するわけではない彼に、ティトンが簡単な質問をする。
「でも、困ってるんじゃない?」
「その団体が白羽《うち》に友好的とは限らないだろ?」
「なるほど。そういうことか」
回答にクエルクスが頷いた事で、話はほぼ収束した。成る程、これがいつもの白羽なのか。ゆあはなんとも羨ましくなって耳を畳む。もし、赤嘴にイロハのようなスキル持ちがいてこの状況に置かれたら、根掘り葉掘り聞きほじって喧嘩になり最悪な方向に進むことだろう。
ゆあが妄想に打ちひしがれていると、アロが明るく問題点を告げた。
「コトワリさん、巻き込まれそうじゃないー?」
「ポーション探しに人は来るかもね」
ティトンが答える。的確だ。事実もう一人訪ねて来ている。
「こんな僻地に?」
「一等地だと思うけど」
「ある意味ねー」
クエルクスの冗談が軽く笑って流される。
確かに隠れ家という意味では一等地だし。外観が埋もれてさえいなければ立地も悪くない。でも、人目に付かない点で僻地である。
はやって欲しい気持ちもあれば、このままひっそりと佇んでいて欲しくもあり。複雑な感情になる店だとゆあは思う。彼等となら、この気持ちを共有できそうな気がした。なんとなくだけど。
勝手な親近感を覚えるゆあをよそに、白羽の会話は続く。
「じゃ、僕たちは一旦帰るよ。沢山買っちゃったし」
「だな。あ。例のブツあったか?」
「ふふーん、クエルさん、泣いて喜ぶくらいありましたよ?」
きっと缶詰の話だろうけど、どうして闇取引みたいになっているんだろう。面白い人達だ。
「盟主はエビを頼みます」
「任されたよ」
梟が箱を抱え直した音がする。続けて3人が去る気配。更に暫くして、クエルクスが短く問う。
「で? どこなんだ」
「ベックルージュだよ」
答えたのはイロハだ。困っているクランの話の続きらしい。
「コトワリは?」
「加護も付いてるし、大丈夫そうだぜ」
「なら予定通り、クエスト片付けりゃいいわけだ」
「そのようで」
階段を上る2人からもたらされた情報で、ゆあは少し安堵する。イーサンはコトワリと無事合流できたらしい。
(優秀なアヒルさんで助かるな)
会話を聞き取るために気を張っていたからか、また気分が悪くなってきた。盗み聞きは楽しいが忍びない。バチが当たったのかもしれない。
弱っていると気も弱くなる。ダメだ。少し寝てしまおう。
うつらうつら、喧騒と夢の狭間を漂うこと十数分。
遠くからでもよく分かる、聞き慣れた声が文句たらたらながらに近づいてきた。
「痛い痛い痛い……そう急かさないで頂けますかね? キミが変な道ばかり通るからあちこちぶつけて……え、ちょ……」
店の入り口脇にある棚に首を突っ込んだイーサンを引っ張り出したコトワリは、その先にまたもふもふがあることに気付いて絶句する。
「ね、ねこ……」
若干及び腰なのは、やはり攻撃を警戒してのことらしい。咄嗟にアヒルを盾にする辺りがなんとも彼らしいと思いながら、ゆあは身を起こした。
その間にコトワリの手から抜け出したイーサンが、雑貨店の扉を叩く。くちばしで。
「あー、はいはい、開けますから……扉に攻撃しないでください」
ゆっくり開いた扉の下部に傷がないか確認するコトワリ。その横からアヒルと猫が滑り込む。
「あっ……ちょっと」
慌てて自らも店内に入ったコトワリは、店の中央でヘソ天する猫を見て硬直した。
「ええ……??」
話せぬゆあはとりあえず早く抱っこして解毒してほしいので、いつも猫にされていることを真似てみる。警戒されているかもしれないけれど、抱えてくれさえすれば勝ちだ。
ゆあが背中を床に張り付けて、足をふわふわさせたり尻尾をふわふわしていると、コトワリはそろそろと近づいて屈み込む。
「………どうしたんですか?」
動きを止めて目を見るゆあに、コトワリは慌てて続けた。
「いえ、そうですよね。話せないのは分かっているんですけど」
どうして分かったのだろう。嬉しくなったゆあが耳を立てて擦り寄ると、恐る恐る手が伸びてくる。思わず額を擦り付け、次にひざに手を乗せた。そのクリームパンのような手を撫でながら、コトワリはバツが悪そうに言い分ける。
「瞳と髪の……毛並みが同じですし、それとその……ぼくにヘソ天してくれる猫なんて、この世にいないんですよ」
ため息交じりに抱え上げられたゆあは、なんとも言えぬ感情と共にカウンターに降ろされた。コトワリはそのカウンターを乗り越えて、窓際からブランケットを引き寄せる。
その間に小さな階段状の棚の最上段に置かれた籠に収まったイーサンが、バサバサと羽ばたいて位置を調整していた。どうやらそこが彼の定位置らしい。
「時々遊びに来るんですよ。勝手に抜け出しても怒られないみたいでして」
そんな時は決まって何かしらの事件に巻き込まれるんだろうな。ゆあは想像して羨ましくなる。
狭いカウンターの内側で、コトワリが椅子に収まり膝の上にブランケットを敷いた。箱座りしていたゆあが立ち上がると、条件反射かコトワリの肩が跳ねる。
「新品ではないですけど、洗ったばかりなので」
ブランケットの話だろうが、そちらはあまり気にしていない。どちらかというと怖がられている方が気になるのだが。
ゆあのジト目に気付かず、コトワリはゆっくり手を伸ばす。それに大人しく両手を乗せると、なぜか困惑された。暫く無言でせっせっせが行われる。
謎の儀式を経て、持ち上げられたゆあは無事ブランケットに包まれた。
「大丈夫ですか?」
小さな問いに、ゆあは身を預けることで答える。コトワリはすぐに察したのか、そっと背中に手を当てた。
「大分辛そうですね……大丈夫。心配せずゆっくり休んでください」
雑貨店は静かで、喧騒がずっと遠くに感じられる。陽射しとブランケット、コトワリの手の温かさのせいもあって、ゆあはすぐに眠りに落ちた。
***
その後もコトワリの店の平和が護られたのは、【秩序】や集められた(猫専用の)警備団、教会の尽力のおかげであるが、それを知るのは関係者とイロハくらいだろう。
慌てふためく彼らにイロハが密かに口添えしたのは、原因と解除期日くらいで、特別なことはしていない。らしい。
猫化すると、どうやらハロも使えなくなるようなので、普段から赤嘴にいいようにあしらわれているクランが手を出せないよう、秩序は早々に箝口令を敷き、猫を保護することで全てを収めた。
幸い、秩序の中に動物を従えるスキルの持ち主がいたため、暴れていた赤嘴猫達を鍵のかかった部屋に閉じ込めることは容易だったそうだ。
その後、この事態は同盟主達の会議に議題として持ち上がり、無理なダンジョン探索はほどほどにするよう、赤嘴に通達された。
元々彼等はダンジョンから持ち帰った高レベルの装備や素材を独占し、常識外れの値段をつけることも少なくなかった為に、ヴァンは度々盟主会議に呼び出されて説教されていたのだが。
強さに自信のある若者達が、そうそう大人しく引き下がるわけもなく。
結局は元の黙阿弥。何事もなかったように、元の日常が戻ってきただけであった。
***
さて。
一晩コトワリの介抱を受け、すっかり毒も抜けたゆあは満面の笑顔である。
これから人型に戻った赤嘴のメンバーと対峙するというのに。
彼女にとっては、些末なこと。
それよりも、普段猫を撫で慣れていないコトワリを、猫を吸うまでに堕落させられたことによる満足感の方が上なのだ。
「またいつでも撫でさせてあげるね」
そう言って手を振るゆあを、コトワリはただただ心配そうに見送る。
その後、ゆあが赤嘴のメンバーを瀕死に追い込んでから復活させた……という話が、流石に噂に尾鰭がついただけだと眉唾ものにされたと、風の噂で聞いた。
【エデン?】2026/1【5題企画】 - あさぎそーご
2026/01/12 (Mon) 09:55:36
【お題5個詰め込み企画概要】
眼鏡
本
来訪者
怪盗
真夜中
【5題企画】「この夜は盗ませない」 - ①
2026/02/04 (Wed) 19:59:54
粉雪の舞う真夜中の空に、サーチライトの光が踊る。
豪奢なネオバロック様式を取り入れた大きな館の屋根の上、円頂塔《キューポラ》の陰に身を潜めて飛び交う光線をやり過ごしながら、俺は小さく舌を鳴らした。
左手でしかと抱えているのは、ビニール製の黒いファイルケースに入った一冊の分厚い本――通称、「ラウールの回想録」。十九世紀末から二十世紀初頭にかけて活躍した、とある世界的な冒険家のものとされる手記である。
この屋敷の主にして本の所有者である大田黒は、国内屈指の資産家として知られる一方、希少本の蒐集家としても名高い男だ。「ラウールの回想録」は、奴のコレクションの中でも随一の品であり、オークションの落札価格は一億円を超えたとも言われている。
館の最上階に設けられた悪趣味なコレクションルームの中央、強化ガラス製の展示ケースの中で厳重に保管されていたこの本を屋外へと持ち出したのは、他ならぬこの俺だ。勿論、許可など得ていない。盗み出したのだ。郵便配達員のフリをして届けた、一通の予告状どおりに。
“今宵、「ラウールの回想録」をいただきに参上します。怪盗ルブラン”
俺は金持ち専門の怪盗だ。暴力に頼ること無く獲物を奪う鮮やかな手口が売りで、活動を始めてからの二年ほどで、盗みに入った屋敷は十を超えている。そしてその間、俺は一度も捕まることなく、狙った品を手に入れ続けていた。
単語としての「泥棒」と「怪盗」に確たる区別は無いのだろうが、怪盗と名乗りたいがために欠かさず犯行予告を出していた結果、今や「怪盗ルブラン」の名は知る人ぞ知るものとなっている。富豪を自負する大田黒も、当然「知る人」の一人だ。予告状を悪戯とみなして無視することもできず、奴は招かれざる来訪者に備えて臨時警備員を三十人も掻き集め、屋敷の内外に配備させた。その中に、身元を偽った俺が紛れ混んでいるとも知らずに。
俺は首尾よく屋敷に入り込んでコレクションルームに侵入し、諸種の演技や仕掛けや情報技術を駆使してまんまと「ラウールの回想録」を入手した。天井点検口から屋根裏を経由して円頂塔内へ移動し、制服を脱ぎ捨てて全身黒ずくめになってから屋外へ脱出……したまでは良かったが、拙かったのはそこからだ。
日が落ちてから降り始めた予報外れの雪は、屋根を白一色で覆い隠してしまった。この黒い姿で屋根の上を歩くのは目立ち過ぎる。さらに、円頂塔の頂点付近の天窓から表へ出た俺は、雪で滑りやすくなったドーム状の屋根を伝い降りる際にしくじって、着地の際に足を挫いてしまったのだ。
愚図愚図している間に「本が奪われた」という情報は全館に伝わったようで、広大な庭には臨時警備員や大田黒の部下たちが溢れ返り騒然としている。本来は、こうなってしまう前に屋根から屋根へと飛び移り、仕込んでおいたロープで地上へ降りて茂みに隠した別の制服を着て、何食わぬ顔で他の警備員に紛れ込む計画だったのだ。だが、雪の降り積もった急勾配の屋根を、ズキズキと痛むこの足で駆け抜けることは難しい。ここが見つかるのは時間の問題だろう。そうでなくても、こんな薄着で真冬の夜の外気に晒され続ければ、凍死してもおかしくはない。
万事休すだ。逃げおおせる算段も無く、だが、こんなところで死ぬ覚悟も無い。自らサーチライトの元にこの身を晒そうと立ち上がりかけた、その俺に。
「お前さん、そこで何をしとるんだね。そんな馬鹿げた格好で」
真横から声が掛けられた。
仰天した俺が慌てて首を回せば、そこにはまるでパーティー帰りのような、俺以上に馬鹿げた格好をした恰幅の良い老人男性が、寛いだ様子で座っているではないか。
警備員では無さそうだが、通りすがりの徘徊老人がこんな場所にいるはずがない。屋敷の関係者だとしたら、俺に気付いたにも関わらず騒ぎ立てないのは妙だ。老眼鏡の奥で小さな目をくりくりと丸くし、老人は声も出せずにいる俺をしげしげと観察したかと思うと、「ははぁん」と得心顔で顎髭を撫でつけた。
「この騒ぎはお前さんの仕業かね。下の連中が血眼になっておるようだが、探しているのはそいつだな? よりにもよってこんな夜に泥棒とは、困ったやつだのう」
そいつ、と言いながら、老人は俺が腕に抱えるファイルケースを指差した。俺は自分の体でケースを隠すように庇いつつ、老人から距離を取ろうと試みたが、元より塔の外壁に密着しているため逃げ場は無い。かと言って、強引に押しのけるような真似は怪盗としての矜持に反する。
そもそも、俺は投降を考えていたのだった。ならば今更、見苦しく逃げ回る必要も無いだろう。
「あんたこそ、ここで何をしてんだ。俺を捕まえに来たってわけじゃなさそうだな。一体どうやってこんな場所まで上がってきた?」
開き直って問い質すと、老人は意外そうに目を剥いた。
「この格好で分からんかね。それと、ワシは上がってきてはおらんよ。降りてきたのさ」
「言わんとすることは分かるが、信じるはずがないだろう。百歩譲って信じるにしても、だとしたら、それこそ何でこんなところにいる? あんたとは無縁の場所だと思うがな」
「ホッホッホ、お前さんは調査不足だな。この屋敷の主には、五歳になる養子がいる。立派な跡継ぎにと勉強ばかり強いられて、玩具なんぞ到底買ってもらえない気の毒な子だ。ワシが訪ねるには十分な理由だよ」
「え……」
老人からもたらされた情報に、俺は絶句する。それが事実だとして、この老人の正体が見たとおりだと考えるなら、確かに、老人がここを訪れる十分な理由なのかもしれない。
そして同時に、俺にとっては、今夜の盗みを後悔するのに十分な理由でもある。
――俺は物心つく前に両親に捨てられ、児童養護施設で育った。飢えることまでは無かったが、高価な玩具や本など買い与えられるはずもなく、裕福な家庭で暮らす同級生たちがいつも羨ましくて仕方が無かった。成長するにつれて羨望や僻みは大きくなって、やがて憎しみに変わり、それは富を独占して必要以上の贅沢三昧に更ける金持ちへと向けられるようになった。
だから、俺は怪盗に――義賊になったのだ。
金持ちから奪った品を独自に開発した裏ルートで金に換え、その金で全国の恵まれない子どもたちに匿名で玩具や本を贈ることが、今の俺の生き甲斐だった。例えそれが、許されざる犯罪行為だと分かっていても。
だと言うのに、もしかしたら俺の予告状は、この屋敷に暮らすその子どもに怖い思いをさせてしまったのかもしれない。コレクションを守ろうと躍起になる義父と物々しい警備に囲まれ、怯えながら「この夜」を過ごしている子どもの心境を思うと、胸が締め付けられた。
真っ暗な空から降り注ぐ雪を見上げて長く息をつくと、ファイルケースを抱え直し、俺は挫いた足を庇いながら今度こそ立ち上がる。再び目をぱちくりとさせる老人を見下ろし、自嘲気味に笑いかけた。
「悪かったな、あんたが主役の夜を台無しにしちまって。今からこいつを返して、ついでにお縄になってくるとするよ」
「ほほう? 随分と急な心変わりじゃないか」
「潮時だと思ってたところだったんだ。今夜で怪盗ごっこはお終いにする。その子どものことは任せるから、できれば笑顔を届けてやってくれよ。あんたが本物なんだとしたら、な」
最後に皮肉を付け加えた俺の顔を、老人は豊かな髭を撫でつけながらまじまじと注視する。ふむ、と小さく唸ったかと思うと。
「朝飯前じゃわい」
老眼鏡の奥の目が楽しげに笑い、次の瞬間、老人の姿が掻き消えた。
「は――?」
俺は間の抜けた声を漏らしたが、屋根の上の雪には老人が尻を乗せていた跡が残るだけで、ぽっちゃりとした体は影も形も無い。狐につままれたように呆然と立ち尽くす俺の正面を、サーチライトの強い光が横切っていく、その寸前。
「これ、ぼさっと突っ立っとるんじゃない。見つかるぞ」
そんな声とともに背後から腕を引かれ、俺は死角の暗がりへと引っ張り込まれた。慌てて振り返れば、先ほどの老人が「シィ」と指を立てながら、下手くそにウインクをしてみせる。
「任された仕事は完遂したぞ。明日の朝には笑顔になるじゃろうて。ついでにあの子の枕元に、さっきの本を返しておいた。お前さんの代わりにな」
「本、って……」
目を白黒させながら、俺はそこで初めて、自分の腕の中から「ラウールの回想録」がケースごと消えていることに気が付いた。もはや驚きを通り越して恐怖すら覚えながら、俺は真っ白な髭を生やして真っ赤な服を着た小太りの老人をただただ見つめるしか無い。
「なんで?」
ようやく絞り出した言葉がそれだった。老人の行動はどう考えても、本来の仕事からかけ離れている。彼が「本物」だとしたら、その使命は子どもを喜ばせることであって、大人、それも、こんな怪盗気取りの間抜けに構っている暇など無いはずだ。
だが、老人は澄んだ瞳でじっと俺を見つめていたかと思うと、やがてにんまりと笑った。
「お前さん、ワシの手伝いをしないか?」
唐突に告げられた言葉に、俺は口を半開きにして固まってしまう。そんな俺をさも愉快そうに眺めながら、老人は重ねて言う。
「評判は常々耳にしておったぞ、怪盗くん。その腕と度胸があれば、きっと良い仕事ができるようになる。ワシは最近、どうにも目が霞んで、足腰も弱ってきてなぁ。ちょうど助手が欲しいと思っておったところなんだよ」
聖夜に雪が降り注ぐ。老人は、ふっくらとした赤い手袋を嵌めた右手を、俺の前へと突き出した。
「ワシの目が黒いうちは、この夜を台無しにはさせんよ」
豊かな白い髭を揺らして、ホッホッホ、と老人が笑う。
その手を取るより他に、俺に一体、何ができただろうか?
【5題企画】「魂の重さは21g」 - ②
2026/02/10 (Tue) 20:56:50
やばいと思った時には既に遅く、衝撃につつまれる。
次に訪れたのは静寂だった。
目を開いても真っ暗で、何も見えない。
どうなったんだ?
頭の中に自分の声が響く感覚。いつもと変わらず思考できるということは、まだ生きてはいるらしい。
しかし身体の感覚はなく、まるでふわふわと宙に浮かんでいるような、しかし地に足がついているような、表現しがたい不思議な状態。移動を試みようにも、こうも暗くては動くのが怖い。仕方なくその場で目を凝らすと、うっすらと文字が浮かんできた。
『真夜中』
そう書いてあると認識した瞬間、視界が開け、地に足が付く。
群青に浮かぶ様々な光の輪郭。真夜中の街にビルが並んでいるのだと、目が慣れてやっと理解した。
しかし、建物はあれど人の姿はなく、辺りはしんと静まり返っている。車の走行音も、雑踏もない夜の街は酷く不気味に思えた。世界に一人取り残されたような、声を出したら取り殺されそうな、とにかく不安が込み上げてくると同時に、自分が立っているのが横断歩道の真ん中だと気付いて慌てて歩き出す。いや、車が見当たらないのなら避ける必要はないだろうが、今の気分的にそこに立ってはいられなかった。
歩道に辿り着いてやっと安心する。一息ついて振り向いて、自分が味わった衝撃を思い出した。
昼前。出勤する為に車を運転していたところ、交差点で右から突っ込まれたのがつい先程のこと。先頭付近で信号待ちをしていて、青信号になったのを確認してから走り出した筈なのに。
しかしここに事故の痕跡はないし、いつの間にやら夜になっているし、何より痛みが無いのはおかしい。つまり、これは夢のようなもので、現実の自分は意識が飛んでしまっているのだろう。
そうなると、目を覚ました方がよさそうだ。これといった未練はないが、まだ死にたくはない。
とはいえ、夢から覚める方法に心当たりはないので、片っ端から試してみることにする。
まず目を閉じた。
夜景が瞼の裏に隠れて闇が増す。その向こう側に何かが浮かんでいたので、目を凝らしてみた。暫くかかったが、なんとか読める。
『空腹』
ぐーと、腹が鳴った。次に押し寄せたのは文字通り空腹で、とにかく何かガッツリしたものを食べたくなった。しかし本当に人の気配も無ければ、オフィス街のど真ん中のような場所なので飲食店どころか店の類も見当たらない。
どうしたものか。考えるよりも前に身体が動く。食べるものを求めて。
暫くフラフラと散策してみたものの、景色にも状況にも変化はない。すぐに困り果てて、また目を閉じる。もしかしたらまた文字が浮かんできて、状況を変えてくれるかもしれない。ここはきっとそういう場所なのだ。そうであってくれ。
願い、じっと瞼の裏側を見つめるという理解しがたい行為を続けていると、仕方がないと言わんばかりに文字のようなシミが見えてくる。先程より少し長いが、最後の方はよく見えない。
『突風で××××』
脳内で読み上げるとその通りになる。突風が吹いて、しかし何事もなく過ぎ去っていった。×の部分は読めなかったが、突風は確かに起きたし、予想は間違っていないのだろう。
もう一度。もう一度だ。
今度は文字が見えるまで根気強く待った。眼球に力を入れすぎて頭が痛くなりそうではあるが、三大欲求には勝てないし、何よりもう動きたくない。
黒が蠢く。そのうちにカタチが見えてくる。ぼんやりと、よく知った単語。
『コンビニ』
頭の中で唱えた途端、眩しさを覚えて細く目を開いた。明るい視界の中心には、見覚えのあるカラーリングの看板がある。コンビニだ。
先程まではなかった筈の建物が、不自然にならないようにビルの間に収まっている。知らない街の、知らない、しかしよく知っている系列のコンビニ。
見る限り、人影はない。中にも外にも誰もいない。それなのに店内は煌々と輝いている。
自身の身なりを確認したが、着の身着のまま、所持品はなさそうだ。ついでにいうと眼鏡もない。なくても困りはしないが、運転や細かい文字を読むとなると差し支える。まあいい。ないものは仕方がない。それでも何か起きるかもしれないと、自動ドアの前に建つ。
聞き慣れた入店音が響いた。店内は暖かく、レジ前には肉まんも並んでいる。空腹のせいで喉が鳴った。誰もいないのなら、勝手に取って食べても怒られることはないだろうが、防犯カメラもあるし、もしかしたら奥に人がいるかもしれないと、レジに片手を付いて身を乗り出す。
「すみませーん」
レジ横の通路は真っ暗だった。店内の明かりのおかげで、辛うじて、恐らくだが「従業員専用」と書かれたドアがあるのが見える。
返事はない。自分の声すら久々に聞いた気がして、動悸がした。暫くそのままの態勢で緊張を保っていたが、あまりの変化の無さに肩の力を抜く。
もう一度周囲を見渡してみたが、声も、音も、気配も動きもない。
それでも店のものに手を付けるのは気が引ける。どうするべきかと考えたところに。
『ノックが響く』
目の前に唐突に文字を突き付けられた。
先ほどまで朧気に見えていたものとは明確に違う。一番の違いは手書きの文字だということ。
驚く間もなく、ノックが響いて扉が開く音がした。
開いたのは先程まで見ていた従業員専用のドア。その向こうの暗闇から真白な服に身を包んだ男が出てきて、柔和に微笑みこう言った。
「やあ、すまないね。少々手違いがあって」
言いながら近付いて来てカウンターを乗り越える。あまりにも自然な仕草に呆然としてしまったが、我に返って身構えた。
しかし目の前の男は気にする素振りも見せずに顔を近付けてくる。
「そう警戒しないでおくれ。単に盗むものを間違えただけさ」
「盗む?」
芝居じみたセリフの中から疑問を抜粋して声にした。すると男は頷いた後、長い金髪を耳にかける。
「私は人の魂を盗む怪盗なんだ」
満足そうに回答し、何処からともなく取り出した真っ白なシルクハットを被る男に、再び疑問を突きつけた。
「魂を盗むのは寧ろ誘拐では?」
「ははは、確かに魂は物質ではないけれど、質量はあるとされているのだよ。聞いたことがないかい? それに、意思はあれど魂単体で動くにはコツがいるからねぇ。少なくとも私は物扱いで問題ないと認識している」
長文の返答は実のところどうでもいい。現状の説明にならない質問を後悔しながら、頭の中で話をまとめる。盗む魂を間違えたから、自分は今ここにいる。つまり盗まれたのは自分の魂。
「どうしてそんなことを」
思ったままが口をついて出た。真っ白な男は大袈裟に笑って両手を広げる。
「決まっているだろう? 愛でるためさ」
「は?」
気色が悪いと思った瞬間、自称怪盗に背中を叩かれて戦慄した。エレベーターに引き上げられるような、ジェットコースターで落ちるような感覚がして思わず目を閉じる。
数秒後には動きが収まり、喧騒が聞こえてきた。目を開けると、怪盗が持つ本のページから、上半身だけ出ている状態にある。
どうしていいか分からずに気まずくなっていると、首根っこを掴まれ引きずり出された。
今度は完全に宙に浮く形になり慌てたが、どうやら落下するでもなくその場に留まることができるらしい。理由は、眼下の光景を見て理解した。
交差点の真ん中でひしゃげた車が2つ、周辺には救急車両や野次馬、警察も続々到着している。そのうちの1つ、赤い乗用車に乗っているのが自分だ。
全てを俯瞰して見られる程、高い位置からでもよく分かる。あれはもう助からない。だから今こうして幽体離脱している、つまりは死んだということだ。
その悲惨な状態の車のうちもう一つを示して怪盗が言う。
「私が用があるのはあの女性の方だよ」
「女性の」
横から追突してきた車から引き摺り出された人物を見て、俺は直感的に確信した。
「あんた、もしかして目が悪いのか?」
「ギクリ」
「効果音を口に出すな鬱陶しい。俺が喋るまで間違いに気付かなかっただろ?」
こちらもあちらも、ハーフアップを丸めて団子にしているし、上着も赤い。ついでに茶髪の細身である。両者後ろ姿だけしか見ていないなら間違えてもおかしくはないだろうか。しかしだ。
「そもそも、どうして本の間に挟まれなきゃならん」
当然の主張にも怯まず、怪盗はうっとりと言い切った。
「魂の状態なら本の中に入れるからだよ。私はその様子を上から眺めて楽しむのさ」
「はあ? 誰もいない夜の街に放り込んで?」
「む? そんなはずは。この本の中なら様々な冒険ができると思うのだが」
「壊れてんじゃねえの?」
怪盗がパラパラと捲る本を覗き込む俺。そのしかめっ面を横目に、怪盗は勢いよく本を閉じた。
「む。分かったぞ! もしや貴様も目が悪いのでは? 本なのだから、読めねば機能しないに決まっているだろう」
確かに、見えた文字はどれもぼやけていた。だとしても責められるいわれはない。
「知るか! 眼鏡なら多分、事故で割れた」
「そうか。互いに災難だったな」
理不尽への怒りは頷きで躱され、すぐに萎んでしまった。そもそもこんなワケの解らない怪盗と言い争うのも馬鹿げている。
「あんたの眼鏡も割れたのか?」
冷静に問うと、怪盗はそうなんだよと大袈裟な身振りで答えた。
「いやあ、犯行声明を送ったら、眼鏡を壊されてしまってねぇ」
「犯行声明」
「怪盗だからさ。出すだろう? 予告状」
「アホくさ」
「わからんかね。様式美というやつだよ」
ドヤ顔で諭されても理解してやれそうにない。気安く肩を叩かないでほしい。そう思っていると、怪盗は帽子のつばをつまんで上空を見あげた。
「おや、お客様だ」
つられて仰ぎ見ると、雲の切れ目からこれまた真白な人が飛んでくるのが見えた。こちらもスーツを着てはいるが、見事な羽根を背負っている。勿論真白な。見るからに天使だが、近くまで来たら顔が怖くて一瞬で天使だと思いたくなくなった。
「まだ眼鏡はできていないはずですが?」
強面は開口一番、低い声で怪盗に言い放つ。しかし全く意に介さず怪盗は愉快そうに笑った。
「ははは、眼鏡がなくとも盗ることはできるさ」
「間違えたけどな」
愚痴兼皮肉を零すも、やはりこの怪盗には効かないらしい。本をしまい、身を翻しながら恭しくお辞儀をする。
「そうなんだ。うっかり間違えてしまったがね。まあ、失敗は成功のもと、ということで。このお方は頂いてゆくよ」
胸の前に広げられた右手の上に、人魂のようなものが乗っているのに気付いた時にはもう遅かった。恐らく眼下で担架に乗せられた女性の魂であろうそれごと、怪盗は遥か遠くの雲に紛れる。
「いつの間に」
遅れた感想にため息が重なった。残された強面と自分と、現世の喧騒と。再び気まずい空気の予感がして慌てて問いかける。
「いいのか?」
「よくはないですが、仕方がありません」
「仕方がないって」
「仕事が多すぎて手が回らないのです。なにせ、現世では人が死にまくっていますから。特にこの日本では」
「高齢化社会の弊害、あの世でも起きてんのか。つか、そんな漫画どっかで読んだな」
「存じております」
「それにしたって、魂を盗まれちゃ困るだろうが」
この強面、思いの外話しやすい。脳内感想を頭の隅に押しやる間に、また1つため息が溢れた。
なにか複雑な事情でもあるのかと返事を待つも、返ってきたのは呆れた解説。
「あの同僚は勧善懲悪の『悪』が、痛い目をみる姿が大好きな変態なんです」
「悪ねぇ。つか、同僚って」
「同僚ですよ、不本意ですがね。連れて行かれたあの女は、相当色々やらかした悪人です。主に男関係で」
「綺麗な顔して恐ろしい話だ」
「今も浮気がバレて恋人の車で逃走中だったそうで」
「俺はそれに巻き込まれたわけか?」
「ご愁傷さまです。キミは悪人ヅラのくせにそこそこ善行を重ねていたそうですのに。残念でしたね」
自分より悪人顔に悪人顔と言われるのは心外だが、確かにその自覚はある。反論できずに別の単語を拾って話を逸らすことにした。
「善行ってほどのことはしてねえけど。あんた、なんでも知ってるんだな」
「ホトケ様の素性を調べて連行するのが我々の仕事ですので」
ホトケ様。言われて再認識したのは自分が死んだ事実。死にたくはなかったが、こうなってしまっては仕方がない。死んで早々こんな茶番に巻き込まれたんだ。諦めもつくってもんだ。元凶の二人が去った方角を睨みつけながら皮肉を零す。
「情報を悪用する怪盗もいるみたいだけどな」
「あいつの趣味は、悪人にとっては懲罰になりうるもので。上司も忙しさにかまけて放置しているというわけです。盗まれた魂分、仕事の先延ばしにもなりますし」
「ブラックじゃねえか」
「天使なのでホワイトでありたいんですがね」
「あんた、その顔で天使とか」
「顔は関係ありません。キミにも羽根をつけて差し上げましょうか?」
「ふざけんな、こちとら最上級の災難にあったばっかだってのに」
「ならせめてしおらしく付いてきてください。胃が痛いので」
ああ、この強面天使も苦労しているんだな。一気に同情的になり、言われた通り裁かれにいくことにした。
「それはそうと、あの怪盗も天使なのか」
衝撃の事実の連続に頭が回らない。どんどんどうでもよくなっていく。考えることを放棄したら後は早いものだ。
幸い、悪人なのは面だけだったので、俺は無事天界行きを命じられる。
その後、例の怪盗とは天国で再会した。
なんでも、地獄見学禁止令を食らった挙句、穢れた魂に触れられない職種に左遷されたのだとか。
「平和すぎて浄化されてしまう」と宣う怪盗天使のしょぼくれた姿を前に、かけてやる言葉が見つからなかった。
しかし一番不幸なはずの俺がなぜ慰めてやらにゃならんのか。
思い直して反省を促してやった。
「真面目に天使をやれ」と。
【5題企画】「嫁入り戦車と学者の夜」③ -
2026/02/14 (Sat) 12:47:19
「怪盗というのはどのようなものなのでしょう」
鈴を揺らすような声に男は顔をあげる。天井からぶら下がった電球が部屋の中を照らしている。あまり度の合わない丸眼鏡越しに見る四畳半の小さな畳張りは、どこを見ても本の山だった。それらの間に申し訳なさそうに布団やら火鉢やらが置かれている。どれも買ったものではなく、誰かに譲ってもらったか、塵捨場から拾ってきたものだった。自分の給金で買ったと自慢できるのは小さな和机一つきりで、それとて最近は郵便物を置く台として使われている時間のほうが長い。今も勤め先の大学から送られてきた大きな封筒が我が物顔で鎮座していた。教授と呼ばれて少し経つが、事務局にまだそれが知られていないのか宛先は「助教授」になっている。
男は綿の草臥れた座布団に座っていた。最後に日に干したのはいつのことかわからない。来客など来たことのない部屋で見栄を張る必要もないし、そもそも男はあまり片付けだとかそういったことが得意ではなかった。五年前に愛想をつかして出て行った妻は、それでも最後にゴミだけは見かねて片付けていったくらいである。
「どのようなと言われてもね。なんだってそんなことを聞くんだい」
男は畳の上に置かれたままの煙草の箱に手を伸ばした。パッケージは「金枝」と印字され、その周りに桜のデザインが施されている。戦時中に国の命令で名前を変えたその煙草は、戦後となって暫く経った今も元の名前に戻す様子が見られない。ただ、まだあの戦争から二年も経っていないともなれば当然かもしれなかった。煙草の名称を変えるより、やらねばならぬことはいくらでもある。
大体にして男も煙草会社のことを気に出来るほど上等な人間ではなかった。座布団に負けず劣らずの古びた浴衣に股引。伸びるにまかせた髪は櫛を通しても大して格好はつかず、一応大学の講義がある時だけは髭と一緒に形だけ整えはするものの、貧相な見た目を変えてはくれない。若い頃はいっぱしの文学青年を気取っていたが、その名残といえば眼鏡と本の山だけで、取り残された身体はただの中年と化している。
「今日、そんな話を聞いたのよ。新聞の連載小説とか、そんな話だったわ」
開け放たれた窓から初夏の心地よい風が吹く。外は真っ暗で、こんな時間に電気を使っているのは自分ぐらいのものだった。戦争中であれば、夜にこうして灯りを外に漏らすことなどとんでもないことだと言われたに違いないが、今は気に留める者はいない。
男は話し相手を見た。窓に腰掛けているのは少女だった。白いワンピースに黒く長い髪。年の頃は十七かそのあたりに見えた。風が吹くと外の空気に混じって真新しいオイルの匂いが鼻に届く。
「聞いたというのは、君の清掃員か」
「えぇ、そうよ。お名前は知らないのだけど。今日も綺麗に私を磨き上げてくれたの。ご覧になって?」
「いいや」
「見てくれないと嫌よ、先生」
不満そうに少女は頬を膨らませる。男は窓の外の暗闇を見た。少し先には軍の施設だった場所がある。フェンスと鉄条網で囲まれた敷地の中には、戦時中は武器を持った兵隊が闊歩していたものだが、今はそんな姿も見られない。このあたりの女性や子供は敷地内の草取りやら洗濯やらで日銭を稼いで暮らしていたが、もはやその需要もなくなって人口もめっきり減ってしまった。
「明日見るよ」
「約束よ。だってあと五日しかないんだもの。五日経ったら私は」
「お嫁に行く、だろう」
フェンスの向こうには一台の戦車がある。真っ白に塗られた美しい戦車が。
戦争が終わって暫く経ったこと、争った国同士はその和解を形に残すために様々な手段を取った。互いの国に互いの領地を作り、歌を贈り、会社を興した。そして戦争が終わったことの象徴として、この国は戦車を贈ることにした。戦う意思などもうないことをアピールするための、戦闘能力も駆動力も無い真っ白な戦車を。
少女が男の前に現れたのは、白い戦車が運び込まれたのと同じ日の夜だった。突然訪れて自分を戦車だと名乗った少女に最初こそ呆れて色々と、そう例えば頭の状態などを疑ったものだが、いくつかの証拠を見せられて納得せざるをえなかった。
「しかし嫁入り前の戦車が男のところに出入りしちゃあ駄目だろう。え?」
男はそんな軽口を叩いたが、少女は首を左右に振った。
「嫁入り前に教養として先生にご教示願っているだけだもの。花嫁修業というものよ。私、向こうの国でもきちんとしたいもの」
男は視線を逸らして煙草の煙を吐いた。行った先で戦車がどのように扱われるかはわからない。流石にスクラップにはされないだろうが、そこまで丁重に扱われるとも思えなかった。良いとこ、誰も訪れないような博物館にオブジェの一つにされるぐらいか。しかし自分は嫁入りするのだと固く信じている戦車の夢を砕くのは忍びない。
「それで、怪盗の話だっけね」
男は無理矢理話を元に戻した。
「大体世の中に浸透しているのは、シルクハットを被ってコートを着た紳士的な怪盗だ。どこからともなく現れて、群抜けた知能を使って様々なものを盗み出すと、まぁそんな感じだね」
「泥棒とは違うのかしら」
「泥棒さ。泥棒を格好良く翻訳した者がいたんだね。それで怪盗だなんて響きになった。ドロボウ、だと濁点も多いし使っている漢字も随分俗っぽいが、カイトウは舌触りが良いし漢字も非日常的だ。しかも本人が眉目秀麗な天才とくれば、まぁ泥棒だろうと構いはしない。そんな連中が喜んで読むのさ、そういう俗本をね」
「先生はお嫌い?」
「好きでは無いな。だがまぁ趣味嗜好は自由だと、国が定めているから仕方が無い。そのおかげで僕だって、こうして金にもならない国学者なんて仕事を続けられる」
男はそこで、自分の言葉に必要以上に毒が含まれていることに気がついた。昔ながらの文学が近頃では古くさいと馬鹿にされて、簡単に読める大衆文学が持ち上げられていることへの怒りが混じってしまっているようだった。
「君は怪盗が気に入ったのか?」
「そういうわけではありませんけど、お話によるとその怪盗が大きな銅像を盗むとかで。どうやってそんな大きなものを盗むのかしら、盗んでどうなるのかしらって、そればかり気になっていたから」
少女はどこか申し訳なさそうな、言い訳するような調子で言った。男が怒っているとでも思ったのかもしれなかった。男は目を細めて口元に笑みを浮かばせる。
「銅像を盗む、か。一人で運搬は難しそうだ」
「小さく砕いてしまうのでしょうか。でもそれだと盗む意味がないものね」
「そうでもない。銅は溶かしてしまえば金属として売りさばける。存外、君の考えが正しいかもしれないな。皆が銅像が盗まれると思い込んでいる隙に、怪盗は小さく砕いた銅を持ち帰るという寸法だ」
「それだと怪盗っぽくはないし、つまらないと思いません?」
少女は眉を寄せて不満を見せた。
「続きが気になるけど、次のお話が出る時には私は嫁いでしまっているから。先生が代わりに読んでくださらない?」
「僕が代わりに読んでも君に伝えられるわけじゃないよ」
「でも気になるんだもの。できれば銅像を壊さないで盗むやり方がいいわ。そっちのほうが浪漫があるもの」
「怪盗に浪漫も何も無いと思うけどね」
短くなった煙草の火種を灰皿に押しつけて消す。磨り潰してしまうと後で巻き直して吸うことが難しくなる。煙草も近頃では高くなってしまって、大学教授の月給では贅沢品の部類に入った。
「まぁ君がそうして欲しいというのであれば、それに応じるのはやぶさかではない。しかしどの新聞だろうね。少なくとも僕がとっている新聞ではそんな話は読んだことがないな」
「何を読んでいるのか、注意して見ておくわ」
「そうしなさい。いくらなんでも新聞を何社も取ろうなんて思わないからね」
男の言葉に少女は嬉しそうな顔をした。その顔を見て男は苦笑する。実際のところ、新聞社なんて限られているし大学で取っているいくつかの新聞を確かめれば済むことだったが、こうした「約束」を取り付けるのは悪くないと思っていた。明日もこの少女が来てくれることを期待している自分がいる。
「でも新聞を読むとき、皆少し離れたところに行くのよ。ちゃんと見えるかしら」
「どうだろうね。それは君の努力次第だろう」
「先生の眼鏡を借りたら、もっとよく見えると思うわ。眼鏡貸して下さらない?」
「君には多分合わないよ」
そう言いながら男は眼鏡を外して、浴衣の裾で丁寧にレンズを拭った。ぼやけた視界の中で相手にそれを手渡す。少女は受け取った眼鏡を少しの間、照明に翳してみたり重さを確かめたりした後で顔にかけた。
「何も見えないわ」
「まぁそうだろうね」
不満そうな少女の声に男は笑う。ぼやけているが、眼鏡を掛けている少女はいつもよりあどけないように見えた。
「君は眼鏡を掛けなくていいよ。そのままで視力は十分だ」
手を差し出すと、眼鏡がその手の上に戻された。元通りの位置に戻して改めて少女の顔を見る。
「うん、やはりそっちのほうが良いね」
男は心からの言葉を零した。
【5題企画】「アフタートーク」 - ④
2026/03/14 (Sat) 17:56:12
三雲町の三笠貴一といえば、全国的にも名のしれた書物の蒐集家にして研究者であり、おぎゃあと生まれたその日から書斎での読書中にポックリ逝くまで三雲の地に住まい続けた町の名士でもあった。
その彼が終の住処としたのが通称三笠書庫。
増築改修によって三笠貴一が亡くなる頃には地下一階地上三階と化した建造物は生涯にわたって収集された蔵書が十万冊以上収められていたとも言われる。
ごく最近まで床や柱の改修補修工事を繰り返していた事実から考えれば、今は噂以上の蔵書が収められていると考えてよいだろう。
が、一般公開はされず、研究者や一部の学者にのみ限られた閲覧許可が与えられてきた故に、伝説の如く語られるのみだ。
その閉ざされた伝説に、思いもよらぬ形で終止符が打たれる。最後の当主・三雲道代が亡くなったのだ。
彼女には子供はおらず亡くなる直前、町役場と地元の弁護士を呼び寄せ、極めて簡潔な遺言を遺している。
『眼鏡を探し謎を解いた者に全てを任せる』
遺言が公開されると書物と謎に目がない者、金と名声を求める者、様々な思惑を抱いた者たちが三笠書庫へ押し寄せた。しかし、遺言の執行人である弁護士は彼らの三笠書庫への立ち入りの一切を禁じた。
怪盗ノクスを名乗る一通の予告状が届いたのは、それから間もなくのことだった。
『三笠道代の遺した最後の一冊を頂きに参上する』
本来古くからの住宅が肩を寄せ合うように並ぶ宵待通りは、夕刻になると各家の軒先に灯る橙色の明かりが通りを満たし、その名の如く、宵の訪れを待つような穏やかな空気が漂う。
周囲の二階建て住宅に比べて頭一つは大きく幅も奥行きも段違いに大きい。外壁は、煉瓦、板張り、漆喰と多彩で幾度も増改築を繰り返したのだと如実に語る。しかし、不思議と秩序だって組み合わされているように見え、まるで初めからそのように設計されていたのではないかとも思わせた。
通りに面した正面には、建物から張り出す形でサンルームが設えられている。昼間には陽光を集め、いつもならば夕刻には街灯と家々の明かりを映し返す、白く塗られた鉄骨の枠に支えられた透明なガラス面は、非常線を張るために集められたパトカーの警告灯の赤をただ反射していた。
すでにノクスを名乗る怪盗とその怪盗の挑戦を受けた探偵『藍沢啓介』がその内部にて相対し共に謎を解いているなどおくびにも出すことなく。
というような事柄があったのが昨日のこと。
サンルームには昨夜の怪盗ノクスによって紐解かれた三笠書庫のカラクリも明らかにされた三笠道代の真意も何もかも欠片も残さずただ月光だけが穏やかに振り注いでいる。
「先生、お茶が入りましたよぉ」
甘ったるい、春の木漏れ日のような声。電球の明かりに照らされたサンルームに束の間陽光が差し込んだような、そんな錯覚。
サンルームの片隅のテーブルで読書を続けていた探偵『藍沢啓介』は、顔を上げた。口元には余裕めいた微笑を浮かべ、顔を上げるという動作すら妙に優雅だ。ありがとうと手を伸ばす仕草は、無駄に伸びた背筋と合わせて舞台俳優のように芝居がかっていた。
「それが昨日見つかった本ですかぁ」
十七、八ほどの少女は言う。腰まで届く淡い栗色の髪は低い位置で結わえられ、前髪は几帳面に眉の位置で切りそろえられている。大きな瞳はわずかに潤み、長い睫毛がその下に淡く影を落としていた。制服の上から羽織った薄紅色のカーディガンは大きめで彼女の華奢な体躯を包み込んでいる。所作の一つ一つが丁寧で立ち振る舞いのすべてが不思議と目を引く、そんな少女に見えた。
「その通り、なかなかに興味深いものだよ」
言いながら、しかしパタンと本と閉じ、題名のない表紙を少女に見せてから探偵は受け取った茶をすする。
「そうですかぁ。でも、どうしてこんな所で読んでいるんですかぁ?」
当然の疑問だろう。現場検証は終わっているとはいえ、いや終わっているからこそ探偵が未だ三笠書庫にいる必然性は、ない。
「美弥君。それはいい質問だね。実は、件の暇な怪盗君が遊びに来てくれる気がしてね、こうやって待っているという訳なのさ」
「暇なって。あはは、酷い言われようですねぇ」
「このご時世にわざわざ怪盗を名乗り、あまつさえ予告場まで出す御仁だ。余程の暇人か、古き良き探偵小説の読み過ぎの行き過ぎた信者というほかないだろうね」
探偵はにやりと口元を歪め、指を立てる。
「そうだろう? 相変わらずその変装の腕前は常軌を逸したものだとは思うが、しかしイマイチ詰めが甘いとしか言いようがないね、怪盗君」
「……バレてたのかよ」
少女の姿が一変する。
くたびれたパーカーにカーゴパンツ、ところどころ補修跡のあるスニーカーと街中でどこにでもいそうな青年がそこにいた。気だるげな、しかし鋭いまなざしが探偵を射抜く。
「知らなかったかな。美弥君はかの清和流茶道の名取だよ。君の総錯覚による認識設計は確かに見事なものだけれど、今回の場合は茶の腕を磨くべきだったね」
探偵はそんな怪盗の視線など気にもした様子もなく、再び茶をすする。そんな姿すら、無闇にはまっている。
「マジか、あの嬢ちゃんに、んな特技があったのかよ」
怪盗は天を仰ぐ。
人は目にしたものをそのまま認識しているつもりでいるが、実際には視覚情報のほとんどは仕草と印象で補完していると言っていい。見ているつもりで、見ていない。だから、相手の視線の外側から、それらしく振る舞えばほとんどの人間は錯覚してしまう。口で言えばこれだけだが、実践するとなれば常識がひっくり返る騒ぎだ。
とは言え、技術まで錯覚させるのは難しく、事前の綿密な準備は欠かせない。その意味で探偵の言は酷く正論だ。
「人は見かけによらないものだよ、君のように。いや全く、誰も想像しないだろう、かの怪盗紳士のフォロワーがこんなヤサグレた兄ちゃんだなんてね」
「うるせぇ、誰がヤサグレてるって。どこぞの舞台役者気取りな探偵よりはマシだろうぜ。聞いたぜ、絶海の孤島の洋館、波間邸だっけか。着いた早々にあらましを聞いただけでトリック暴いた挙げ句、逃げようとした犯人を組み伏せたって? 浪漫もへったくれもあったもんじゃねぇだろ、んなもん。あーやだやだ、これだから夜を昼に換算する奴は無粋極まりねぇ」
「夜が明けなければ、道に迷ってしまうからね。それにあの事件は、君が言うところの高尚なトリックなど存在しない行き当たりばったりが上手く嵌まってしまっただけの悲しい事件だったよ」
「そうなのか」
興味が湧いたのか怪盗は探偵に問いかける。
「財閥の当主とその妾の間に生まれた息子が冷遇された母親の復讐の為に瓜二つの正妻の娘と入れ替わって一族の乗っ取りを目論み、当主と正妻を殺害したのだよ」
「おーおー、すげぇな。そんな漫画みたいな事件あるもんなんだな」
「現代日本で怪盗を自称している君が言えるセリフなのかな」
「それもそうだなって、おいちょっと待て! 今、なんかかなりおかしな事言ってなかったか?」
「状況が落ち着いたら密かに手術を受けるつもりだったと供述していたそうだ。おそらく後先考えていなかったのだろうね。恐ろしい事件だった」
「恐ろしいの意味が違いすぎんだろ、ジャンル間違えてんじゃねぇのか」
「私としては、浮気調査に失踪人の捜索、迷い猫探し同様、謎解きも探偵の大切な仕事だと考えているよ」
白い歯を見せて探偵は笑う。キラッという書き文字が探偵の横に浮かんだような気がして怪盗は慌てて首を振った。俺が目指しているのは古典的怪盗、トムジェリみたいな追いかけっこがしたい訳じゃない、呪文のごとく呟いて、仕切り直す。
「あー、まあその辺はどうでいいわ。やり残しの仕事を片付けんぞ」
ポケットから取り出したのは昨夜三笠書庫のカラクリを暴いた眼鏡だ。
フレームは黒曜石を連想させる深い墨色。しかし、光を受けると表面には干渉色が浮かび、層構造であるのが分かる。レンズも、一見無色透明だがよく見れば3層構造となっている。装飾はほとんどない実利一辺倒な精密機械を思わせる眼鏡だった。
「まず、コイツはアンタに預ける」
「いいのかね」
「良いも、悪いもあるか。これがなけりゃ隠し部屋には入れねぇ。見てただろうがよ」
そう言いながら、無造作に眼鏡を探偵に投げつける。そして、危なげなく受け取った探偵に舌打ちを一つ。
「確かに偏光、UV反応、位相差を用いた視覚変容による文庫内の変貌は驚嘆に値するし、固有振動値を利用した解除キーでもある。いや、ここまで来ると三笠最後のご当主は蔵書家であるだけでなく、最先端の金属工学まで修めた技術者と言ってしまって良いね」
「道代のばぁさんだからな。錬金術修めてるって言われても不思議じゃあねぇわな。実際あれは魔女だよ」
「レディに対してそれは失礼じゃないかな」
怪盗は胡乱なものでも見るような目で探偵を見た。つま先から視線を上に移す。白のスーツには、朝から座りっぱなしだったろうにシワ一つない。些か常識外れだ。つまりこいつは一般的ではない。故にこいつの言うこともまた、例外として扱って問題ない。
「とにかくだ、こいつはばぁさんが意識したかどうかはともかくその本同様に遺産相続の証とみなされんだよ」
でだ、と前置きして怪盗は続けた。
「あんたは遺産たるその本を読んだんだ。やるこたぁわかってるよな?」
剣呑な輝きを帯びた目で怪盗は探偵を見る。左腕が仰々しく動き、その影で右手が背後へと消えた。
「当然、だね」
と返した探偵は、すっくと立ち上がる。手にした本をそっと胸元へ抱き寄せて、あたかもスポットライトに照らされた役者のごとく朗じた。
「かくも名高き三笠書庫。そこに蓄えられた叡智は、あまりにも深く、あまりにも危うく、故に、限られた者にしか開かれなかった。それは、創始者が望んだからではない。時代と、状況と、運命と、すべてが噛み合ってしまった、その結果だ。これは呪いだ。避けようのない、因果の呪い。
だからこそ。いかに創始者の直系であろうとも……否、直系であるが故に、どれほど抗おうと、この封は解けなかった」
「ならば、いかなる手段を用いれば、この解き難き楔を解すことが叶うのか。三笠道代女史は、それを知ってはいた。ただ、その方法が己ではなし得ぬことも、また分かっていた。では、どうしたか? 内より開けられぬならば、外から試みればよい。己が死すら利用し、しがらみなき者に委ねればよい。違うかな?」
怪盗は、答えない。ただ、両の掌を上に向け、大げさに肩をすくめてみせた。
「その為の『本』であり、『眼鏡』だ。本は後継の証しであり、眼鏡は本へたどり着くための鍵であると共に、この試験の監督役の証といった所。そうじゃないかな?」
犯人を名指しするがの如く探偵は怪盗に指を突きつけた。怪盗はと言えば、おーと感情のこもらない声を上げながらおざなりに手を叩いてみせる。
「まあ、本に目を通したんなら、それくらいは想像つくか。概ねあんたの言う通りだよ。違う所は、監督役じゃなく見届人って所かね」
「なるほど。では、私が間違えた場合は、三笠文庫の叡智は全て灰と化すと言ったところかな。安心し給え。責任を持って三笠道代女史の願いを叶えよう。もとよりそのつもりであることだしね」
「了解了解。確かに聞いたぞ。後から反故にすんじゃねぇぞ」
まるで悪戯が上手くいった悪ガキのような笑みを浮かべて怪盗は改めて眼鏡を、そして本を指さした。
「さっき俺は概ね正解って言った訳だが、訂正しようか。遺産に関しちゃ半分だ。証であり、道標さ。そいつをかけて、もう一度読んでみな」
怪盗は顎で二つの遺産を指し示す。
「ほう?」
探偵は素直に眼鏡を掛け、そして題名のない表紙をもう一度見た。
「これは、また……」
探偵の声に確かな驚きが、混じっていた。怪盗がしてやったりという笑みをはっきり浮かべているのさえ目に入らない様子で、探偵は視線を走らせる。
先ほどまで無地だった表紙に、文字が浮かんでいた。
『寄贈予定 一覧』
探偵ははやる気持ちを抑え、冷静たらんと務めてゆっくりと表紙を開く。
三笠道代の本に関する随筆が書かれていた紙面は一変していた。眼鏡越しに見ると淡い筆跡で別のものが浮かび上がっている。
『東三雲微小物理観測棟』
『柏陵大学文学部附属図書館』
『私設児童文庫 宵待文庫』
ページごとに、寄贈先と書名が記されていた。予感は確かにあった、しかしこれほどまでとは思わなかった。ページを埋める文字列から視線を外す。
「なるほど」
探偵は眼鏡を外し、怪盗を見た。溜息を一つ。
「三笠書庫の蔵書の行き先、という訳だね」
「ご名答」
怪盗は肩をすくめて見せた。
「先生、あーいや、道代ばぁさんの遺言の意味は最初からそれだけなんだぜ」
『眼鏡を探し謎を解いた者に全てを任せる』
「あの人はな」
怪盗は天井を仰いだ。天井の更にその先を見ているようにも、ただ涙を堪えている様にも見える仕草だった。
「本が死ぬのが嫌いだった……」
静かな声だ。
「十万だか百万冊だかだか知らねぇがよ。誰にも読まれねぇまま本棚に収まっている本なんざ墓石と同じか、それ以下だろうさ」
「さすがにそれは偏見が過ぎるのではないかな?」
さすがの探偵も思わず口を挟んだのだが、帰ってきた言葉に口を噤んだ。
「ばぁさんの言葉だ。文句なら直接言ってくれ。まあ、なんだ。そんなんだから解体するつもりだったんだよ、この書庫」
怪盗は胸の前で手を打ち、大げさに両手を広げて見せた。
「大学、研究機関、町の図書館、児童文庫、etc、etc。蔵書を全部ばらして、必要な場所に配る」
「なるほど」
藍沢は頷いた。
「だが、それを身内に任せなかった、と」
「身内だと止める奴が出るからな。実際、ばぁさんに秘書やってた奴は、ここをばぁさん一族の記念館にするつもりだったとさ」
くだらねぇと、怪盗は言う。
「だから無関係の人間に任せる。ばあさんほど上手くやれるかは知らねぇが、それはそれって話だ」
「その人間を試すための舞台か」
探偵はサンルームを見回す。ゆっくりと、感慨深げに。
「怪盗の予告状、密室の書庫、謎の眼鏡。なかなか手の込んだ舞台装置だ」
「脚本は道代ばぁさん、演出は俺な。候補に挙がったのがあんただったのは、画竜点睛に欠けるけどな」
怪盗はしゃあねぇと笑う。
「俺ぁ一応、あの人の教え子だからな」
頭が上がんねぇんだよと。
「だから眼鏡を預けられた理由という訳かい」
「そういうこった」
探偵はもう一度本を開く。眼鏡越しに最後のページに短い一文が見えた。
『任せます』
短いが、そこに込められた願いは重い。
「成程。私への依頼という訳だね」
「結果的にはな。で、どうする探偵先生」
怪盗はサンルームの窓を開けながら、振り返り探偵を見た。
「この書庫、全部あんたに任せるってよ」
探偵は少しだけ沈黙し、それから。
「仕方がない。私は司書ではないけれど、依頼を受けた以上はこれもまた探偵の仕事だよ」
朗と微笑んだ。
「あんたならそう言うと思ったよ」
怪盗が笑う。窓の外、月明かりが差し込む。
「じゃあ俺の用事はここまでだ」
月明かりのスポットライトの下、怪盗は大仰に礼をしてみせた。
「もっとも怪盗としての、だけどな」
その夜から三笠文庫には、本の行き先を探す探偵が住み着いた。
もっとも……。
探偵が眼鏡を掛け、書架の前で腕を組んでいた。
「この医学書は大学病院、こちらの古写本は研究機関……」
呟きながら本を抜き取る。その手が止まった。あるべき本がそこにない。
探偵が声を出す。書庫で出すような声量ではないが、利用者は一人しかいないのだから、咎めようもない。
「また君か。読書を咎める気はないが、毎日入り浸るのならば手伝いの一つもお願いしたいところだよ」
「あー、いいだろ。貸出カードも作って返しに来てんだから。本は読まれてこそ、だぜ。探偵先生っ」
「そういう話ではないのだけれどね」
単なる本好きがほぼ連日連夜来訪しているようである。
【5題企画】「ジェーン・ドゥの殺人」(提出時「ジェーン・ドゥからの挑戦状」) - ⑤
2026/03/16 (Mon) 22:31:07
【十二月十四日 〇〇三三時 郷田屋敷 玄関ホール】
怪盗を追ってきたら人が死んだ。最悪とはこういう状況を言うのかもしれん。
怪盗の名前はジェーン・ドゥ。もちろん予告状の署名だから本名ではない。
別名を『真夜中の怪盗』。あるいは『千貌の|書籍狂《ビブリオマニア》』。通り名の理由なんて単純で、そいつはいわくつきの書物しか盗まない。それも今どきご丁寧に予告状を送りつけて、だ。それこそ奴が盗んだ、自死したヴィクトリア朝ロンドンの怪奇作家が記した小説にしか出てこないような古風なカードに、瀟洒なフォントでキザったらしい文面で、もちろん文末には自分の署名を入れることも忘れない。
俺はといえば、そんなクソみたいな怪盗の専任捜査官――の、おまけだ。身長体重国籍すべてが謎の、世界を股にかける大泥棒様の担当なので所属こそICPOであるが、人死にとなれば途端に邪魔者扱いである。
死んだのは、この屋敷の主人である|郷田《ごうだ》|楠雄《くすお》。世界で一番売れていると言っても過言ではないミステリ作家である。今となっては「ミステリ作家《《だった》》」と言うべきだろうが、それはともかく。
彼が死んだのは『郷田屋敷』と揶揄される、山中深くの豪邸だ。施錠された書斎で毒を飲んで死亡していた為、自殺の可能性が高い。近くには遺書らしき紙も落ちていたことだしな。
ただ問題なのは、屋敷の人間が誰一人納得していないのだ。やれ「遺産目当てで殺された」だの「我慢の限界がきたんですよぅ」だの「借金をチャラにしたかったんじゃないのか」だの、なんだの。
主人が主人なら、住人も住人だと言うべきか。殺されたという意見は一致しているくせに、誰もが「犯人は自分以外だ」と言い出す始末である。
とはいえ、俺たちも郷田が自殺するとは思わなかった。死ぬつもりだったなら、怪盗警備に警察を呼んだりするもんか。
「こっちは駄目だねえ、何も見つからなかったよ。|日下《くさか》くん、そっちはどうだった?」
背後から掛けられた声に俺は振り向く。
玄関ホールの両脇から南北に伸びる廊下、その南側から足早にやってきたのは俺の上司でありジェーン・ドゥの専任捜査官である|星野《ほしの》警部だ。
俺同様に地味なスーツを着てトレンチコートを羽織った、四十代前半の男である。背が高くなで肩で、目も眉も細く柔和に下がっている。わけの分からん殺人事件や怪盗に振り回されているより、大学で教鞭を取っていると言われた方が納得する容姿だった。性格も温和でおっとりしており、行動を共にしてもうすぐ半年が経つが、その間に彼が声を荒げたり怒ったりしたところを俺は見たことがない。ジェーンの犯行を何度も防いでいるらしいが、正直俺はいまだに疑っている。
「こちらも怪しいものは見つかりませんでした。やはり自殺じゃないでしょうか」
「うーん、そうだねぇ。でも|絹代《きぬよ》さん達の言うことも一理あるし、一応もう少し調べてみようか」
「自殺するつもりの人間が明日の朝飯のリクエストをコックにするってのは、確かにおかしいですけどね。でも動機があるのなんて、例の六人しかいないでしょ。俺たち警察は郷田と会ったのは今日が初めてなんだし」
俺と星野さんは警備の相談のために何度か屋敷を訪れているが、それでもジェーンの件がなければ関わることはなかったはずだ。
「で、その六人はほぼ完璧なアリバイがあるんですよ。小説みたいに、『いかにも怪しいです』って不審者が出てきたならともかく」
「そういう不審者はミスリードだよ。この前読んだ話がそうだった」
「出てこなくて結構です。現実でこれ以上の複雑さはいりませんから」
二人して不景気なツラを突き合わせてぼやいた時だ。無駄に豪華な玄関の両開きドアが、大きな音と共に開いた。入ってきたのは、周囲にも屋敷の中にも数多くいる制服姿の警察官だ。
「星野警部! 付近をうろついていた不審人物を連れてきました!」
「………………はい?」
俺と星野さんが揃って間抜けな声を上げたとしても、責める奴は誰もいないだろう。
【十二月十四日 〇〇四〇時 郷田屋敷 玄関ホール】
俺たちの前に連れてこられた不審人物――もとい、予想外の来訪者は|黒滝《くろたき》|荘司《そうじ》と名乗った。
出された名刺には、携帯電話の番号と仕事用らしきアドレス。左上に燦々と輝いている肩書は『フリーランスライター』だ。
年は俺と同じ、三十を少し過ぎた辺りだろうか。不健康に落ち窪んだ目と薄い唇、長身の猫背はどことなく骸骨を連想させた。後ろで無造作に束ねた黒髪はファッションではなく不精のせいだと断言できる。しかも身につけているのは、くたびれた黒いダウンジャケットに黒いジーンズという、センスの欠片も見出せない黒づくめ。いや本当にいるんだな、こんないかにもな不審者って。
「なぜここに?」
俺と一緒に名刺を覗き込んでいた星野さんが、注文を聞くアイス屋みたいなのんびりとした口調で尋ねた。
「ライターが怪盗の取材をするのは、そんなに不思議ですかね。どうせ私なんかじゃ中に入れないので、せめてスクープになることでも起きてくれないかと近くで待機してたんですよ。ジェーンはいつも真夜中に盗むから」
「それにしても、こんな山奥で……。寒くなかったですか?」
「ここまで歩いてくる間は寒かったですよ。でもあんたら警察に起こされるまでは、毛布にくるまって快適な仮眠生活をエンジョイしてましたから」
ぼそぼそと黒滝が答えた。陰気な喋り方のくせに、皮肉の切れ味だけはやたらと鋭い。なんとなくだがこの男、友人は少なそうである。
「はぁ、それは申し訳ない」と星野さんが頭を下げた。これではどちらが警察官か分かったものではない。
「ちなみに、本日の十八時から二〇時の間はどこにいました?」
「スーパー銭湯行って、近くの飯屋入ってましたね」
くそ、羨ましい生活してやがる。俺と星野さんなんて、コンビニおにぎり流し込んで以降は屋敷をうろついてるから、ロクに座ってもねえのに。俺の殺意混じりの視線をものともせず、黒滝はのうのうと続ける。
「ダッシュボードにレシートあるんで、勝手に見てください。鍵はさっきの警察の人に渡しましたから。ああ、私はここで待っててもいいですかね? 氷点下の中、また車まで戻りたくないんですよ。それか、私の身体が温まるまで待ってくれるとでも?」
星野さんが困ったように、八の字眉をさらに下げた。黒滝は引く気はないようで、じっとりとした半眼でそんな星野さんを見つめている。ふてぶてしい奴だ、仕方ない。
「星野さん、いいですよ。俺がこの男を見張っときます」
「でも日下くん……」
「ゴネられても面倒臭いでしょ。大丈夫ですよ、幸い俺は門外漢扱いで手が空いてますから」
「そう……? じゃあ、お願いしようかな。ごめんね」
俺と黒滝にぺこぺこと頭を下げて、星野さんは馬鹿でかい玄関扉を開けて外に出ていった。寒風がひとしきり俺と黒滝の体を撫でまわし、再び扉に遮られる。
「ジェーン以外に何かあったんですか?」
扉が閉まってきっかり三秒後、黒滝が陰気な顔のまま問いかけてきた。俺はじろりと奴を睨みつける。
「人が死んだんだよ。それで、周囲に不審者がいないか調べてる」
「ほう」
感嘆かため息か分からぬ声を出し、黒滝は低いテンションのまま言う。
「自殺の証明ができないというのも、難儀ですねえ」
「そうなんだよな……って、ちょっと待て」
俺は黒滝を睨みつけた。
「なんで人が死んだってだけで、自殺の調査って分かるんだよ」
「別に大したことではありません。あからさまな殺人事件なら人が死んだ、ではなく殺されたと言うでしょう。私の扱いももっと慎重になる。門外漢の部下一人に任せるはずがない。では事故? 外ならともかく、どうやら事件はこの邸内で起こったらしい。それならば外部からの不審者や不審物を調査するのは、少しばかり不自然だ。それに事故死なら、別に迂遠な言い方をしなくてもよい。
では残る可能性は? まだいずれともはっきり断定できない場合。つまり、不自然な状況で誰かが自殺したということではないですかね」
俺は呆気に取られた。こいつ、今の俺の一言でそこまで見抜いたってのか。
と、黒滝が唇の端を歪めた。
「ま、実際にはここに連れてこられる途中で盗み聞きしたんですけどね。あとは君の反応を見て確信しました」
「な、てめえ……っ!」
「ホットリーディングは記者の基本的なテクニックですよ。君も、わけの分からん怪盗の担当ではなく、知能犯的事件の担当になりたいなら覚えておくといい」
まただ。俺はこいつにジェーンの担当なんて言った覚えはないのに、当たり前のように話を進めてくる。それに、よく考えたらさっきの話でも俺が星野さんの部下だと言っていた。
「なんで俺がジェーンの専属って知ってるんだよ。あと星野さんが上司とは限らないだろ」
「君がさっき自分で言ってましたから。『自分は門外漢だ』と。今がジェーンより事件を優先させている状況なら、普段の君は人が死ぬこととは無縁の警察官ということになる。この状況で一番自然なのは、ジェーンを追ってきたICPOの専属捜査官でしょう。それに現場の制服警官はどうやら星野さんに指示を仰いでいるようですが、君は相手にもされていない。なら君は星野さんの部下ということになる。見たところ、この付近にいる警察官は君たち以外は制服を着用しているようですし」
抑揚のない声で黒滝は淡々と説明した。特に誇る様子はなく、当たり前のことを言っているだけという感じである。勢いに押されて俺がちょっと怯んだのを見抜いたのか、黒滝はさらに言葉を重ねた。
「人間観察が趣味でしてね」
「ああそうかい。そりゃ悪うございましたね」
小馬鹿にするような言い方に苛々して、俺はつっけんどんに返した。
黒滝は俺の態度など気にもとめず「ふむ」と言って顎に長い指を這わせていたが、不意に「君」と再び話しかけてきた。ちょっと黙っておけねえのかよ、このおっさん。
「よければ、私にも事件のことを教えてくれませんか?」
俺は呆気に取られた。あんた、いくらなんでも図々しすぎるだろ。
「嫌だよ。あんた、守秘義務って知ってる?」
「知ってますよ。でも、現時点ではただの自殺扱いなんでしょう? なら、野次馬根性を出した記者が一人くらい取材しても構わないと思いませんか。それに、私なら君たちに見えていないことを発見できるかもしれないし――そうすれば君の評価も上がって、異動願いが受理されるかもしれませんよ」
胸の内を見透かされ、ギクリとした。
確かに俺は今の部署が嫌でたまらなかった。怪盗担当なんてイロモノは、現場でも妙な目で見られる上に、今日みたいに別件が起これば途端に邪魔者だ。俺のような、現場経験も浅い若造だと尚更である。
好物を前に「待て」をする犬みたいに、黒滝は葛藤する俺を見ている。先ほどの鮮やかな手口を見れば、こいつが観察眼に優れていることは理解できた。
「しかし……」
現時点で一番の容疑者を好きにさせていいものだろうか。悩む俺に上から覆い被さるようにして、陰気な瞳が見つめてきた。
「ではこうしましょう。私が妙なことをしてると思えば、遠慮なく犯人として摘発してください。私は一切否認しませんよ」
「なんでそこまでするんだよ」
「ライターですからね。こんな美味しいネタを目の前にしたら取材の一つくらいはしますよ。この分だと、ジェーンどころではなさそうですし。あとは強いて言うなら……」
再び黒滝は顎に指を這わせた。
「私は、人のゴシップが大好きなんですよ」
まぁ、記者だしな。偏見かもしれないが、そういう人種であっても特に驚きはしない。もうちょっと包み隠せとは思うけどな。
「どうしても駄目だと言うなら仕方ありません。廊下でセミファイナルもかくやという勢いで駄々をこねますが、よろしいですか?」
よろしかねぇよ。あんた、控え目に言っても身長百八十はあるだろ。そんな男が廊下に引っくり返って手足をジタバタさせるとか、どんな悪夢だよ。しかもこの男の場合、今と同じ無表情でやりそうである。想像しただけで寒気がしてきた。
「…………ちょっとだけだぞ」
「話が早くて助かります。では、現場の状況と容疑者などを教えて頂けますか? どうせ聴取の時に聞き出すつもりなので、遠慮なくどうぞ」
なんで聴取であんたが聞き出す前提なんだよ! そう突っ込みたかったが、相手が星野さんならあっさり言ってしまいそうである。不安だ。
頭が痛くなるような光景をうっかり想像してしまった俺は、額を押さえてきびすを返した。
「ああもう、分かった。現場に移動しながら話してやるよ」
【十二月十四日 〇〇五四時 郷田屋敷 北廊下】
どこから話そう。とりあえず、俺たちが今回もジェーンにまんまと出し抜かれたところからだろうか。
書斎のある離れへと続く北側の廊下をゆっくり歩きながら、俺は口を開く。離れといっても、別に建物自体が独立しているわけではない。中庭を回り込んだ奥に位置する書斎を屋敷の人間がそう称しており、俺たちもそれに倣っているだけだ。中庭は三方向が建屋に囲まれており、残りの一方向は庭と繋がっている。
「お前も知ってるだろうが、この屋敷にはジェーンからの予告状が届いていた」
「ええ、知っています。獲物は確か、この屋敷の主人である郷田楠雄が書き溜めたというトリックノートでしたね」
そこで黒滝は、ちらりと腕時計を見やった。時刻は午前一時に差し掛かろうというところだ。
「いいんですか? ジェーンはいつも日付が変わってから午前二時の間に犯行を行う。殺人事件も大事ですが、君達は」「もう盗まれたんだよ」
黒滝の言葉を遮って俺は吐き捨てた。
「俺たちは本館――中庭より南側の部分だが、そこの洋室でトリックノートの警備をしてたんだよ。けど、いつの間にか偽物にすり替えられてたんだ」
警察官が十人以上はいた室内で、どうやって偽物にすり替えたのかなんて聞かないでくれよ。俺には想像もできないんだからな。
「部屋にいた警察官に周囲の捜索を命じ、俺たちは郷田へ報告に行った。夕食後はいつも離れの書斎で執筆をしてるって聞いてたしな。で、部屋のドアをノックしたんだが返事がない。中からも鍵がかかってて、ドアは開かなかった。郷田には持病があるし、何かあったのかと俺達は中庭から外に回って部屋の窓を覗いたんだ」
話しながら、その時のことを俺は思い出した。
「郷田さん!」と窓を叩きながら星野さんが呼びかける。
床に倒れ伏した郷田はぴくりとも反応しない。意識を失っているのは明らかだった。
俺は窓を割れる石でもないかと見回したが、あいにくと砂利石くらいしかなかった。たとえ割れたところで、この窓は人が通れるほどの大きさはないはめ殺し窓だ。
デスクの上には鍵がある。扉は外開きだ。
鍵が室内にあるとなると、扉を開けるにはマスターキーを持ってくるしかない。
俺がその考えに到達するのと同時に、星野さんが身をひるがえした。
「日下くん、ぼくはマスターキーを持ってきます! 君は北階段から芹沢さんを呼んできてください!」
芹沢というのは医者だ。大急ぎで再び中庭を突っ切り、俺は部屋横の階段を使って二階へ、星野さんはマスターキーが掛けられている玄関ホールへと走った。
「――で、俺たちは部屋の前で再び合流。星野さんの持ってきたマスターキーを使って中に入ったら、郷田が死んでたってわけだ。おそらく死因は毒物だな。それも自殺の線が濃い」
「なぜ?」
「ヒュプノキシドの小瓶が室内で発見されたんだよ。それと遺書らしき紙もな」
「ああ、『世界で一番幸せな毒薬』?」
黒滝の言った俗称に俺は顔をしかめる。
ヒュプノキシドは近年発見されたアルカロイドの一種だ。無味無臭な上、少量で強い効果を表す毒薬で、俗称通り強い眠気が副作用として現れるのが特徴である。最近は日本でも自殺サイトなどを通じて密かに出回るようになっており、『眠りながら死ぬことができる』という誤ったイメージだけが先行し、自殺の助長に繋がり社会問題になっていた。自殺者が入手する毒薬としてはメジャーなため、入手ルートを特定するのは骨が折れそうだ。
「よく知ってるな」
「記者なんで。アンテナは広く浅く張っておかないと」
俺のカマかけをさらりとかわし、黒滝は顎を撫でた。どうも、ものを考える時のこの男の癖のようだ。
「部屋は普段から施錠されていたんですか?」
「いや、空いてたよ。執筆の邪魔をされたくないってんで、郷田が中にいる時だけ鍵をかけてたみたいだな」
「誰でも合鍵を作るチャンスはあったということですか」
「それはそうだけどな。郷田は普段からほとんど書斎に篭ってたんだ。鍵がなくなってたらさすがに気がつくだろ。警備する時に聞いたが、そういった戸締りに関する不審なことはなかったぜ」
それに、と俺は廊下に設置された窓から外を眺めた。
「こんな山ん中だから、合鍵作りに行くにも時間がかかる。俺が殺人犯なら、わざわざ密室作りのためにそこまではしたくないね。それに、毒殺なんて自殺かどうか曖昧になる方法は取らない」
「特に今日は、罪をなすりつけるのに絶好の容疑者が来てましたしね」
ぼそぼそと黒滝が言う人物が誰か、俺にも分かっていた。
ジェーン・ドゥ。
変装の達人で、鍵開けなんてお手のもの。不可能を可能とした手口で、いつも俺たち警察をこけにする憎たらしい小悪党だ。奴なら、鍵のかかった室内で郷田を殺して逃走するなど朝飯前だろう。
「星野さんはジェーン・ドゥは人を殺さないって言うけどな。そんなのあいつの気まぐれだ。人が一線超えるのなんて、タイミングだけの問題だしな」
奴が最初に現れてから数十年。確かにその間に人が殺されたことはないが、所詮相手は犯罪者。気まぐれで守っていたその『お約束』をいつ、自分のために破ってもおかしくはない。
俺の話を黙って聞いていた黒滝が「そうですね」と気のない相槌を打つ。
「それなのに、自殺でない可能性があると?」
「屋敷の人間が騒いでるんだよ。「こいつが怪しい」「いやあいつが怪しい」「自殺なんてするはずない」ってな」
「なるほど。では次はこの屋敷の人間……ぶっちゃけ、容疑者について教えて頂けますか?」
いや本当に、ぶっちゃけすぎだろ。別にいいけどさ。手帳を開き、俺はこの屋敷に住んでいる人間について説明を始めた。
「この屋敷に住んでいる人間は六人。一応、それぞれに殺しの動機はある」
「それはまた……。推理小説もびっくりのお膳立てですね」
「だろ? まずはさっきも出てきた医者の芹沢《せりざわ》。この男は郷田の古くからの友人で、還暦を機に自分の病院を息子に継がせてからは悠々自適な隠居生活をしている。話し相手やトリックの整合性の確認にと、郷田が呼び寄せたんだと。郷田は数年前から心臓を悪くしてたから、その主治医も兼ねていたんだな。……で、動機だ。かつての郷田は売れない三文ライターだったんだが、その時に色々とヤバいことをやらかしている。バレたら罪になるものもあるって噂が立つくらいでな。芹沢も色々と手を貸していたらしい。同居してるのは互いに監視してるからじゃないかとすら言われている」
黒滝は小さく頷いた。こいつ、メモとか取らなくて大丈夫なのか? 若干の不安を覚えつつ、俺は続ける。
「次は郷田の妻だな。名前は絹代。郷田が前の奥さんの死後に娶った後妻で、年齢は二十八歳。それから郷田の弟の|昭雄《あきお》。この二人についての動機は説明不要だな? 郷田が死んだら遺産が転がり込んでくる。郷田の両親は死んでいるし、子供もいなかったからな」
「いよいよ探偵小説じみてきましたね」
「そうだな。さて、次は使用人だ。まずは家政婦の|早乙女《さおとめ》。この女は、親が郷田に借金をしたまま死んでな。その返済のためにこの屋敷で働いている。次に庭師の|伊庭《いば》。元々スリの常習犯だったが、犯罪者の心理を知りたいと面白がった郷田が雇ったそうだ。仕方ないとはいえ、屋敷でなんか問題が起こる度に「犯罪者だから」と疑われていたらしい。で、次はコックの|牛島《うしじま》。こいつについては……まぁ、動機というにはちと微妙だが、郷田の書いた小説シリーズで毎回間抜けな道化役をやらされているキャラクターがいてな。そのモデルにされたんだよ。本人はそれが気に入らんらしく、何度も「止めてくれ」と郷田に抗議しているのを複数の人間が見ている。郷田は半年前にも新しい小説を発表しているから、その中で忍耐の限界がくることを書かれたのかもしれん。俺は読んでないから知らんがな」
一気に説明をやっつけ、俺は黒滝を見上げる。
「以上、なんか質問はあるか?」
「まだなんともですが……。後で彼らから話を聞くことは可能ですか?」
「屋敷の主人が殺されたんだ。全員一ヶ所に集まってる。話を聞けるようには取り計らってみるよ」
「ありがとうございます。なら、今のところは大丈夫です」
「結構。――で、ここが」
手帳を閉じ、俺は足を止めた。
「問題の、郷田が死んだ書斎だよ」
俺達の前には、廊下に向けて扉を開かれた部屋が室内の灯りで白々と浮かび上がっていた。
【十二月十四日 〇一〇三時 郷田屋敷 書斎】
入口の警官達を適当な説明で散らして中に入ると、まず目に入るのは正面にある本棚だ。高さは天井に届きそうなほど大きい。上から下までびっちりと本で埋められているが、大半は本屋のブックカバーがかかっていた。日焼け防止だろうか。しかし光が入りそうな箇所といえば、左手にある俺たちが室内を確認した小さなはめ殺し窓くらいだろう。窓の前には年代物のデスクが置かれており、机上には畳まれたノートパソコンと鍵が置かれていた。鍵はありふれた銀色のディスクシリンダー。デスクの引き出しは一つだけで、天板のすぐ下、ちょうど腹に当たる形でついている。他に部屋にあるものといえば、隅にある加湿器とくずかご。その横に置かれた電気ケトルと飲み物が置かれたミニラックくらいだろう。
「本好きのための書斎、という感じですね。私なら一日中篭っていられる自信があります」
部屋に入った黒滝が感心したように言った。
「実際その通りだったみたいだぜ。郷田は、飯や風呂の時を除けばほとんどこの部屋に篭っていたって話だからな」
答え、俺は視線を床に向ける。この部屋にある、もっとも重要なもの――郷田の死体がこちらに足を向けてうつ伏せで転がっていた。
享年六十三。眼鏡の奥で目を血走らせて口を大きく開けている形相は、控え目に見積もっても穏やかな死に際とは無縁だったと予想できた。この死に顔を見れば『世界で一番幸せな毒薬』というのが、皮肉にしか思えない。
右手の近くには、中身をぶちまけられたタンブラー。そしてコピー用紙の挟まれた文庫本が落ちていた。文庫の表題は郷田自身の著書でもある「千冊の罪禍」。数年前に出版されてミリオンセラーを叩き出し、映画化もされた一作だ。
黒滝がまず向かったのは郷田の死体だった。しゃがみ込んで全身を無遠慮に眺める奴の横につき、俺も油断なくその行動に目を光らせる。妙なことをしたら、すぐに引っぺがす為だ。
「日下さん」
「なんだ」
「遺書ってのはどれです?」
ああ、そういえば言うのを忘れていた。
「そこの本に挟まってる紙あるだろ。それだよ」
黒滝が、捨てられた子猫みたいな悲しげな表情で俺を見上げてきた。
「不親切すぎでは?」
「ええい、そんな顔をするな。口頭だと説明しにくかったんだよ!」
俺の言い訳に不満そうな顔をしつつ、黒滝は本を指差す。
「ちょっと開けてもらっていいですか? 私、手袋持ってないんですよね」
俺は舌打ちしたいのを堪え、紙が挟まっているページを開ける。こいつ、遠慮ってもんはねえのか。
「ほらよ」
開けたページは終わりに近い。物語のクライマックス、探偵役の謎解きが終わった後の犯人の独白シーンらしかった。ページは真ん中付近の一行だけが切り抜かれている。
――私は、あまりにも多くの罪を重ねたのです。
ページから切り離された一文は、挟まれたコピー用紙に糊で貼り付けられていた。
「なるほど、文言だけ見ると遺書ですね」
「だろ?」
俺が広げてやったページとコピー用紙をしばらく見比べていた黒滝は、やがて気が済んだのか立ち上がった。振り返り、興味をデスクへと移す。
「この鍵、確かにこの部屋の鍵なんですよね?」
「ああ、その鍵で扉の施錠ができることは確認済みだ」
「そうですか」
あっさり納得した黒滝は、無言で引き出しを指差す。はいはい、開けろってことね。
引き出しの中は、デスクの上同様にすっきりとしていた。眼鏡ケースが一つと、薬品名の書かれた茶色の小瓶が一つ。黒滝が再び顎を撫でる。
「この眼鏡ケースの中って見ました?」
「ああ、郷田が普段かけてる眼鏡が入ってたよ。死体がかけてるのは老眼鏡だ。遺書の作成とか、細かい作業をするために掛け替えたんだろう」
俺は眼鏡ケースを開けてやり、その横にスマホを並べた。画面には、スカした笑みを浮かべる郷田の正面写真が表示されている。予告状が来た時に、屋敷住人の顔写真を撮らせてもらったのだ。何しろ相手は千の顔を持つ怪盗。些細な変化を見逃さないためにも、最新の資料は持っておくべきだろう。
「なるほど、確かに」
黒滝は小瓶には特に興味を示さなかった。本棚も一瞥しただけだ。まぁ、ほとんどがブックカバーが掛かってるからな。剥き出しなのは資料用と思しき大判本や、郷田自身の著作だけだ。郷田の本は、俺が知っている限りすべて揃っているようだった。
死体を避けた黒滝は、部屋の隅に設置されているミニラックの前で立ち止まる。
「ケトルを……」
「はいはい、開けりゃいいんだろ」
うんざりしながら、俺はケトルを開けてやる。ケトルの中には、まだ半分ほど水が残っていた。容量が〇.六リットルなので、ちょうど飲み物一杯分が減ったことになり計算としてはあう。
「失礼します」
ポケットからハンカチを出した黒滝が、止める間もなく水に浸すと舐めた。
「は!? いや、ちょ、お前何してんだよ!?」
もしもこれが殺人なら、ポットに毒を入れた可能性が一番高い。それを舐めるとか、正気かよ。慌てる俺とは対照的に、黒滝は顔色ひとつ変えずに「毒は入ってなさそうですね」と分析する。
「お前ね、毒入ってたらどうするつもりだったんだよ!」
「大丈夫ですよ。ヒュプノキシドの致死量は成人で十ミリグラム。舐めたくらいでは、ちょっと舌先が痺れる程度です」
そういう問題じゃないだろ、そもそも毒を体に入れるなよ。
呆れ果てて言葉を失くす俺には構わず、黒滝が問う。
「この水、郷田が自ら汲んでたんですかね」
「そんなわけねーだろ。早乙女が朝晩に入れてんだよ」
ちなみに、と俺は付け足す。
「夕方の入れ替え時期は郷田が夕飯を食う十八時以降。それから郷田が入浴を済まして帰ってくる二〇時までが、この部屋に毒を仕込めるチャンスだ」
「ああ、それで私のアリバイ確認がその時間だったんですね。……あの加湿器も彼女が?」
黒滝がラックの下に置かれた加湿器を指差す。こちらはやや大型で、水はほとんど残っていないようだった。女性一人でこのタンクを満タンにして持ち運ぶとなればそれなりに大変だろうが――
「まぁ、そうじゃないか? 言っちゃなんだが、加湿器の水をまめまめしく変えるようなら、ケトルの水も自分で入れるだろ」
「それもそうですね。最後に入り口を見ても?」
「荒らさなけりゃな」
俺の返事を聞く前に、すでに黒滝は入り口へと向かっている。素早い。黒づくめと細長い体躯、背中で跳ねるぼさぼさの黒髪と相まって、俺はなんとなくゴキブリを連想してしまった。しかもそのゴキブリ――もとい、黒滝は廊下に出た途端にべったりと廊下に這いつくばっている。いきなり顔面を床に|擦《こす》りつける神経が俺には理解できない。
「一応確認しますが、このドアが開かないと確認したのは二人で?」
「そうだよ。二人してノブ握って引いたけど、全然開かなかった」
「それはお疲れ様でしたね」
立ち上がった黒滝が、まるっきり他人事のテンションで労ってきた。なんか腹立つな。
「もうこの部屋は結構です。ありがとうございました」
「ああ、そうかい。じゃあそろそろ」
「次は容疑者の方達に話を聞きに行きましょうか」
せめて『この屋敷の住人』とか言えんのかね、この男は。
と、そこで俺はもう一つ重要なことがあったのを思い出した。
「ああ、そうそう。また睨まれたら嫌だから言っておく。さっき言った屋敷の住人には全員アリバイがあるんだ」
黒滝がものすごく……ものすごーく嫌そうな顔で俺を見下ろしてきた。
いや悪かったって、謝るよ。だから、雨の日に外に繋がれてる犬みたいな目をしないでくれ。
【十二月十四日 〇一三六時 郷田屋敷二階 遊戯室】
屋敷の住人が集まっている遊戯室は嫌な緊張感に満ちていた。屋敷の主が死んだのだから当然といえば当然だが、それだけでは済ませられないような居心地の悪さを感じる。部屋の中央に置かれたビリヤード台を囲むようにして、六人の住人は俺たちを待ち構えていた。
「刑事さん。兄は自殺じゃないのかね?」
最初に口を開いたのは郷田とよく似た面相の男だった。弟の昭雄だ。
「いえ、まだ自殺と決まったわけではありません。今、別方面からも調査を進めています」
「でもなあ刑事さん。あんたも知ってるだろ? 楠雄の炎上騒ぎ。あれのせいで、最近は出版社からの風当たりも強くてよ。随分と悩んでたみたいだぜ」
左手に持った杖で床を叩いて言った男は医者の芹沢。「た、確かに……」と貧乏揺すりをしながら小刻みに頷いた痩せぎすの男は、庭師の伊庭である。
「自殺でないなら、私達の中に主人を殺した犯人がいるってことですか!?」
ヒステリックに叫んでいる若い女は、郷田の後妻である絹代。「そ、そんな……」と怯えたように眼鏡の奥の目を潤ませた小柄な女が、家政婦の早乙女。
「……ていうか。刑事さん達はいいとして、隣のおっさんは誰だよ」
足を大きく開いて座ったコックの牛島が、俺の隣に立つ黒滝に胡乱げな視線を投げかけた。もっともな疑問である。
「私のことはお気になさらず。刑事さんをお手伝いしている雑用係みたいなものだと思ってください」
しれっと黒滝が答える。ぬかせ、お前みたいな図々しい雑用係がいるか。
ちなみに黒滝のアリバイについては、この部屋に来る途中で星野さんと会って証明された。ダッシュボードには、確かに今日の日付が印字されたレシートが残っていたらしい。十八時半の飯屋と、十九時四十五分の銭湯。店に確認したところ、いずれの店でも黒滝の姿がカメラで確認された。なお銭湯を出たのは二十一時手前というので、しっかりエンジョイしてやがる。くそ、羨ましい。
「そもそも、私達にはアリバイがあるだろう? 仮に殺人だったとして、毒を仕込めたのは兄さんが部屋を留守にしていた十八時から二〇時の間。もちろん飲ませる以外に毒殺できる方法があるなら別だがね。指先に触れただけですぐ死ぬ猛毒なんて、フィクションの中の話だけだよ」
「しかも、だ。ワシと昭雄くんと絹代さんは楠雄と共に夕飯を取っているし、それぞれの入浴時間以外はこの遊戯室でずっと集まっていた。目につかない時間なら、むしろ使用人連中の方が多いだろ?」
昭雄の言葉を芹沢が捕捉するが、彼の言葉に使用人達が揃って反論する。
「あたしはいつも通り十八時に先生を食堂に案内して、お給仕してましたよう! 確かにその間、書斎に失礼してお水は変えましたけど毒なんて絶対に入れてません! それにそんなことしたら、犯人が私だって言ってるようなもんじゃないですか! 先生がお風呂入ってる時は、私達使用人は揃ってご飯食べてましたし」
怯えたように早乙女が一気に捲し立てる。彼女の言うように、ケトルに毒を入れていたならいずれ鑑識で分かるだろう。ついで庭師の伊庭が、目を左右に動かしながらびくびくと証言する。
「お、俺は庭仕事の後は十八時には屋敷に戻ってました。で、でも離れには近づいてません。飯時までずっと遊戯室にいました。中庭とか正面ホールの警官の人に聞いてください」
「でもよ伊庭ぁ。北階段の前には見張りの警官がいねえぜ。遊戯室からこっそり北階段下りれば、書斎には行けるだろ?」
北階段というのは、書斎横に設置された階段である。
ニヤニヤと茶化したのはコックの牛島だ。三人の中では、この男が一番アリバイとしては堅実だろう。何しろ郷田の飯時には厨房にいないといけないし、彼の入浴時には他の二人と一緒に夕飯をとっている。唯一自由になるのは片付け中だろうが、その時には郷田がいつ部屋に帰ってきてもおかしくはない。本人もそれを分かっているのか、伊庭に向ける視線は余裕に満ちていた。
伊庭は一瞬言葉に詰まったが「それを言うなら、先生が入浴中にこの部屋に集まってた昭雄さん達にもチャンスはあるじゃないか」と反論する。
「何を言うの伊庭!」と叫んだのは、例によって絹代だ。しかし確かに、奴の指摘も一理ある。黒滝がこてん、と首を横に倒して問うた。
「そもそも皆さん、どうして遊戯室なんかに?」
「不安だったからに決まってるでしょ! 得体の知れない怪盗が来るっていうのに、一人で部屋に籠るあの人の方がどうかしてるのよ! いくら毎日のルーチンだからっておかしいわ!」
絹代の叫びに、黒滝は鬱陶しそうな顔で耳を人差し指で塞いだ。やめてくれ、この手のタイプはそんなことをしたらますます手がつけられなくなる。
俺の懸念どおり、絹代は「んまぁ! 刑事さん、なんですのこの人は!?」と喚きだした。知るか、この男が何者かは俺だって知りたい。絶対ただのライターじゃないんだけどな。
俺の内心など知ったことはない、とばかりに黒滝は一番話が通じそうな昭雄に問いかけた。
「ちなみに、郷田氏の入浴中に席を外したのは誰ですか?」
「アリバイ調査というわけか。いいだろう」
昭雄が語ったところによると昭雄、絹代、芹沢の全員が少しずつ席を外しているという。
「私が席を外したのは五分くらいかな。読んでいた本がちょうど終わってね、部屋に新しいものを取りに行ったんだ。次はどれを読もうか迷ってしまって、少し時間がかかった」
昭雄の部屋は二階の奥、北階段の手前にあった。正面階段の側にある遊戯室とは距離的に一番遠いが、それでも往復に五分もかからないだろう。
「次に出て行ったのは芹沢先生でしたね」
「ああ、トイレに行ったんだ。俺はこの通り、年のせいで足がちょっと不自由でな。十分くらい掛かったぜ」
右手に持った杖を、芹澤は軽く掲げた。
「もちろん北階段なんて使っちゃいねえ。下りるだけでも相当な時間を食うからな」
北階段は、玄関ホールにある正面階段まで行くのが億劫だという郷田の希望で作られた階段だ。そのため、いかにも後付けらしい狭さと急さを兼ね備えていた。手摺こそついているが、俺も上り下りする際は少しびびった覚えがある。
書斎に侵入できたとしても、使ったのがあの階段となると彼の足では十分で帰ってくることは無理だろう。「ぼくも落ちかけましたよ。怖いですもんねぇ」と、星野さんもしみじみ頷いた。
最後に部屋を出て行ったのが絹代だ。
「私は飲物を取りに階下に行きましたわ。使ったのは正面階段です。ご挨拶したから、警察の方も覚えてくださってるはずですわよ」
「早乙女さんがいるのに、ご自分で?」
「自分の飲み物くらい自分で用意しますわ」
俺の問いに、心底軽蔑したように絹代が答えた。
【十二月十四日 〇一五六時 郷田屋敷 一階洋室】
「まったくもってその通りでございます、なんだけどよ。あんな言い方しなくてもいいじゃねえか」
ぶつぶつ言いながら、俺はコートに入れっぱなしにしていたペットボトルを取り出した。コンビニで購入した『ほ〜いお茶』。買った時は温かったが、古くて隙間風の多い屋敷のせいで、すっかり冷えきった悲しき飲み物だ。
「ごめんね、日下くんに損な役回りを押し付けてしまって」
俺同様に喉を潤しながら、星野さんが眉を下げる。もっとも、彼が傾けているのは小型の水筒だ。可愛らしい水色をしたサーモスは、やはりこんな血生臭い現場には似合っていなかった。こういうところから普段の丁寧さは滲み出るのかもしれない。
「どうだ、なんか分かったかよ名探偵」
遊戯室を出た俺たちが次に向かったのは、ノートを警備していた洋室だった。もちろん黒滝の希望だ。奴は今、星野さんから借りたトリックノート(ジェーンにすり替えられたものだ)を眺めていたが、相変わらずの陰気な顔と声であっさりと言った。
「大体は」
「何ぃ!?」
思わず俺は目を剝く。黒滝がいかにもうるさそうに眉を寄せた。悪かったな、声がデカくて。
「んだよ、じゃあここにはなんの為に来たってんだ?」
「念の為の確認ですよ。でも来たかいがありました」
むっつりとしたまま、黒滝は慎重にページを捲っていく。特に、最初と最後の数ページはじっくりと眺めているようだった。トリックノートのサイズは文庫本より一回り小さく、表紙は白の無地。表にも裏にも文字や絵の類は描かれていない。
俺も隣から覗き込むが、やはりページには何も書かれていない。いや――
「ここ、何か破った痕があるな」
よく見ないと分からないような微かなものだが、最後の数ページのノドには歪な切り口の紙が〇.五ミリ幅ほどでくっついている。
「そうですね。このトリックノート、どうして偽物って分かったんですか?」
「どうして……って。見りゃ分かるだろ。最初から最後まで白紙だからだよ」
ノートを指差し、俺はその時のことを詳しく話してやる。
「ジェーンが来るのは〇時以降だから、二十二時からは一時間ごとにノートを取り出して本物か確認するようにしてたんだよ。ちなみに、俺と星野さんで一緒にページは見てたぜ。ま、『中はあまり見るな』って郷田に言われてたから最初の二ページくらいしか見てないけどな」
「〇時の時点ではどちらがノートを持っていました?」
「星野さんだよ。ちなみに、二十三時では俺が持ってた」
そう、確かにその時点では中にトリックがびっしりと書き込まれていたはずなのだ。星野さんが「すごいねぇ」と呑気に言うのを聞きながらページを捲っていたのはまだ記憶に新しい。なのに星野さんが〇時に捲った時には、一ページ目から白紙になっていた。
「そうですか」
浮かない声で答えた黒滝がノートを閉じる。そのまま奴は少し躊躇してから、「ありがとうございました」と星野さんにノートを返した。
「他にはもういいのかい?」
「ええ、気は済みました。これはやはり殺人ですし、あとはあなたが頑張ってください。私は帰ります」
踵を返した黒滝に、俺は仰天した。
「ちょ、ちょちょちょっと待て!」
「なんですか?」
迷惑そうに振り返った黒滝に、俺は捲し立てる。
「気は済んだって、犯人は!?」
「分かりましたよ」
「だったら言えよ!」
胸ぐらを掴んで説教したくなるのをすんでのところで堪え、俺は奴の暗い顔に詰め寄った。なんのために色々と便宜を図ってやったと思ってんだ。
顔と顔がくっつきそうな程の距離で睨みつけてやると、黒滝の人差し指が唇に押し当てられた。
「私の本業は探偵ではありません。それに、野暮だと思いませんか? 犯人がせっかく作った舞台を、ただの来訪者が台無しにするなんて」
手を振り払い、俺はさらに黒滝に食ってかかろうとする。だがその前に
「んまぁ! 犯人分かったの!? やっぱり殺人事件だったのね!」
俺の背後から甲高い声。しまった、扉を開けっぱなしにしてたんだ。嫌な予感と共に振り向くと、目をキラキラ――もとい、ギラギラとさせた絹代と目があった。最悪だ。
「じゃ、みんなを呼んでくるわ! まさか容疑者扱いだけして、真相は教えないなんてことしませんわよねぇ!」
黒滝が途方に暮れたように星野さんを見る。もしかしたら助けを求めたのかもしれないが、彼は少し考えた後に「構いませんよ」と言った。
「ぼくも、あなたの口から是非とも真実を聞いてみたい」
ダメ押しの一言に、黒滝が観念したように大きく息を吐いた。
「分かりましたよ。なら、もう一度遊戯室へ行きましょう」
謎解きを宣言する名探偵にしては陰気な声で、黒滝は告げた。
【5題企画】「名探偵コトワリ外伝」 -
2026/03/18 (Wed) 13:30:23
⑥
「手に入れましたわ! これがダンジョンの秘宝『王者の覚書《《インペラル・カヴナント》》』!」
オーホッホッホ、と高笑いが響きわたるのは巨大な図書館。『ブックエンド』という名前のダンジョンで、中は広大な図書館の装いをしている。ありとあらゆる書物を読むことが出来ると言われているが、本の形の魔獣がいたり罠も多いうえに迷路のようになっているものだから、目的の本を探すのも一苦労である。
そんなブックエンド、当たり前だが高価な書物も存在する。そのうちの一つが『王者の覚書』で、これはダンジョン探索初期から存在がわかっていたものの、それを巡っての争いが絶えなかったため有志によって専用の部屋が作られて、その中の高い位置に置かれることとなった。頑丈な本を積み上げた塔のような造形物の上に。つまるところ、不可侵領域というわけである。
だがどういうわけか--というのは、本人の精神状態のことを示す訳だが--この本を盗み出すと宣言した者がいた。言わずに盗み出せばいいものを、律儀なのか単に目立ちたがりなのかはわからないが、ハビラの掲示板に予告状を貼り出した。その予告状がピンク色の用紙に蔓文様の柄だったことを考えると、目立ちたがりの可能性が高い。
目にしたからには放ってはおけないと、勇猛果敢たる人々が臨時の自警団を作って、予告状に書かれていた深夜帯にダンジョンに張り込むこととなった。ダンジョンの至る所にある時計が揃って予告時刻になったことを鐘の音で告げたのは今しがたのことである。
「素晴らしい、素晴らしいですわぁ。これがあればダンジョンの中のお宝の詳細が……」
本の塔の上で悦に浸る女。長い金髪を一つにまとめて真っ白な大きなリボンでまとめ、黒い丈長のワンピースを着ている。ソバカスの目立つ顔を隠すように黒縁の眼鏡をかけているが、そのために全体の印象がわかりにくい。しかも頭の上には大きな猫耳が天井向かってピンとそそり立っていた。アタッチメントと呼ばれる、冒険者が偶に使う聴力強化や感応力強化のための器具である。特徴はあるのに特徴が薄い。そんな印象を与える姿だった。
女は重厚な装丁の本を愛おしそうに抱きしめる。今にも頬擦りや口付けをしてもおかしくはなかった。恐らく三秒後くらいにはそうする予定だったに相違ない。ガタリと何かが音を立てるまでは。
「へ?」
女は音に気がついて振り向いた。本を積み上げた塔から見えるのは、部屋の天井と壁くらい。しかしそこにはもう一つ、あるべきものがなかった。
女がここに昇るために使った梯子が。
「ぇええ!?」
女は眼鏡の奥の目を何度か白黒させた。そして慌てて梯子があった場所まで走りよって、その下を見た。縄で作った梯子は力なく床に落ちてしまっていて、その横には一人の男が立っている。
「ちょっと貴方! 何のつもりですの!?」
「えーっと、見た通りですね」
男はジト目で女を見上げた。手首に朱色のハロが光っている。
「失礼ながら、梯子を外させていただきました」
「まぁ、破廉恥な!」
女の意味不明な叫びが部屋に響く。
「別に破廉恥ではないです。寧ろそうして叫ぶ方が……いや、失礼」
コトワリはそう語尾を濁した。自警団になし崩し的に巻き込まれて、夜も遅いというのにダンジョンに放りこまれたせいで少々機嫌が悪い。
「皆さんを眠らせたはずですわ! なぜ貴方だけ平気なんですの!?」
「まぁ予想はついていましたので……」
コトワリの言葉に同意するように、足元にいたアヒルが「グワッ」と鳴く。尾羽だけ赤く染められて、それがダンジョンの薄闇の中で光っていた。
「なぜわざわざ予告状を出したのかと疑問に思ったんです。だってメリットがないじゃないですか。ダンジョンなんて基本は出入り自由で、ここにその本があることなんて誰でも知ってます」
コトワリは相手を見上げながら続ける。少し、首が痛い。
「でも逆に言えば、不意にその本を盗みに来た時に誰かが入ってこない保証はないわけです。元々、ここに本が保管されたのもそんな経緯だったわけで」
そのことに思い至ったのは、足元でもっちりとしているアヒルのお陰だが説明は省略した。
「だから貴女は逆に特定の時間に人を集め、他の誰も来ない状況を作った。そしてその間に本を盗み見れるように。別に持ち出したりしなくても、読んでしまえばいいわけですから」
「……いつから気付いてましたの」
「人数が合わないことに気付いたあたりで。有志の人数とリストの数が合わなかった。でも余計な人は見つからない。なぜだろうと考えた時に、同姓同名がいる可能性に行き着きました。そしてそれを言い出さないということは意図的に紛れている」
女は悔しそうに両手をワキワキと動かす。しかしコトワリに直接害がある訳でもなし、話はそのまま続けられた。
「貴女は自警団を眠らせて、その間に本を読むことにしたんです。そもそも本当に盗み出したら、そのあとに総がかりで調べられるでしょうしね。でも、自警団が見張った結果、盗まれませんでしたとなれば追及されることもない」
「で、でも皆さんが眠っていたことは不審に思われるのではなくて?」
「貴方がそれを気にする理由がわからないんですが……。皆さんが起きるタイミングでわざとらしく逃げ出せばいいんです。そうすれば、「自警団を眠らせて、その間に盗もうとしたけど失敗した」と思わせられますし、自警団も間抜けな泥棒だと油断します」
「ちょっと」
コトワリの言葉を女が途中で遮った。猫耳がゆるりと動く。あの猫耳のおかげで距離があっても問題なく話せている訳だが、なんとなくコメディカルな空気は否めない。
「泥棒じゃなくて怪盗ですわ」
「は、はぁ」
「怪盗キャットイヤー。はい、リピートアフターミー!」
「嫌です」
「まぁ!」
怪盗はショックを受けたようだった。
「酷いですわ。乙女に恥をかかせるなんて」
「貴女が勝手にかいてるだけなのでは……」
「正論はいけませんわ!」
「あ、はい」
「そもそも正論が通じる人間が怪盗なんかするわけないでしょう!」
それは確かに…、とコトワリは納得してしまった。そして、このままだと相手のペースに巻き込まれそうだと思って意識を切り替える。
「取引しませんか?」
「取引?」
「貴女がその本をこちらに渡してくれたら、ぼくはこの梯子を渡します」
「嫌と言ったら」
「まぁ皆さんが起きるのを仲良く待つだけですね」
また女は手をワキワキとさせた。悔しそうな顔をしているのはこの距離でもよくわかる。しかしふと思い直したように顔をあげると、今度はフフンと得意げな顔をした。
「別に良いですわ。なんかゴロゴロと命の危険を省みなければ落ちて戻ることは出来ますし」
「怪我しますよ」
「そしたらこの本も道連れですわ。血まみれの御本をご覧になりたくて?」
脅しのつもりなのだろうか。コトワリは呆れつつも、それを顔に極力出さずに告げた。
「状態回復能力をお持ちの方が自警団にいますから、気にしなくても大丈夫ですよ」
女は遂に悔しそうに金切り声を上げたと思うと、本を小さな袋に入れた。紐を使って器用にそれを縛り上げ、何かを括り付けてから宙に放り投げた。本は途中まで放物線を描いたあとに、パンッと小さな破裂音とともに紐の先につけられたパラシュートが開いてそちらの動きに引っ張られた。ヒステリックに叫んだと思いきや、かなり冷静な行動である。
コトワリは落ちてくるパラシュートと一緒に本を受け止めた。
「ほらっ、それでいいんでしょう!?」
「えぇ、ありがとうございます」
「お約束通り渡したのですから、早く梯子を戻して下さいまし」
「あぁ、その縁のところに釘が出てますよね?」
女は訝しげに縁のあたりに移動してしゃがみ込むと、本の隙間から突き出している釘を見つけた。それに手をかけると、限りなく細い透明な糸が照明に照らされる。
細い糸をスルスルと巻き上げていくと、床に落ちていた縄梯子がそこに繋がっていた。
「騙しましたわね」
「こんなに上手くいくとは思わなくて……、なんかすみません」
「謝らないでくださいませ。なんか八つ裂きにして五等分にしたくなってきます」
「不公平な分配になりそうですね」
「今から降りますけど、途中で石を投げたり槍で刺したりしないでくださいましね」
「しませんよ」
コトワリとしても相手が大人しく帰ってくれるだけの方が助かるのである。何しろクラン一の非力と不運を誇る自分では、この女怪盗を取り押さえる自信がない。
それに、本来はダンジョンから物を持ち出してはいけないという決まりはない。かといって持ち出して良いという決まりもない。要するにそれらの采配は冒険者たちに任されている。あまり厳しくしても緩くしてもいけないのだ。
女怪盗は梯子を使ってスルスルと下まで降りてくると、着地のポーズだけ完璧に決めた。多分何かしらのプライドなのだろう。
「貴方!」
女はビシリと音がしそうな勢いでコトワリを指さす。
「この怪盗キャットイヤー。次に会った時には容赦しませんわ!」
「やめた方がいいんじゃないでしょうか。窃盗はよろしくないですし」
「冒険者だってダンジョンから盗掘してます!」
「それ言われると弱いんですが」
「価値のあるものは盗みになり、価値のないものは盗みにならないなんておかしいですわ。全部窃盗、オール窃盗、冒険者たちは足並み揃えて怪盗者たちになるべきです」
「窃盗団ではないんですね」
「まぁ破廉恥な」
「何が?」
女は何やら怒りながら自論をぶちまけつつ、縄梯子をクルクルと丸めてしまうと背中に背負っていた袋に収めた。
「もう帰ります!」
「はい、そうしてください」
「皆様もそのうち目覚めますわ。もし喉の乾きを訴える方がいたら、砂糖水を与えて暫く横にしてあげてくださいまし」
「謎に手厚いですね」
「怪盗ですもの」
よく分からない理論だったが、コトワリは指摘しなかった。アヒルも同様なのか、眠そうに欠伸をしている。
怪盗はコトワリの横をすり抜けて出口に向かう。コトワリはその時、女の右足あたりでハロが光っているのを見た。だがその色や形を認識するより先に目を逸らす。外でうっかり見かけた時にうっかり関わってうっかり巻き込まれてしまっては堪らないと思ってのことだった。
「面倒ごとは少ない方が良いですからね」
足元から同意の鳴き声がする。怪盗の足音が小さくなって消えるまで「我関せず」の姿勢は続いた。
【5題企画】噂屋の最後の仕事 - ⑦
2026/03/19 (Thu) 09:42:42
街灯やら広告ディスプレイの灯りで、都心の駅前は充電間際なのに昼間のように明るかった。ある者はそこから去ろうと駅に向かい、それと逆にある者はここを目的地として駅から出てくる。そうした人の動きが騒々しい中、女は待ち合わせ場所として有名な百貨店の前でスマートフォンの画面に目を向けていた。
世界中で使われているソーシャルネットワークサービス。様々なユーザが様々な内容を投稿している。誰かの喜び、誰かの嘆きくらいはまだ良くて、大したことのない誰かの過失を責め立てるものや、関係のない人の価値観に憤ってるものについては苦笑しか出てこない。「同じ部署の先輩が、安いブランドのファンデ使ってるの見て心臓バクバクして止まらない」から始まる意識の高い戯言を、親指で遥か彼方に押し下げる。下へ下へ。すると最新の話題の投稿がピックアップされて表示された。
――怪盗のメッセージについて、これが答えなんじゃないかなと思う
三日前の投稿が関連付けされていた。女はそれをもう何度も目にした。文章はなくて、動画だけ。十五秒程度の短い動画の内容はすっかり記憶してしまっていた。
どこかの地下を歩く誰か。薄闇の中で文字だけが浮かぶ。『怪盗から選ばれたあなたへ』と白い文字が二秒浮かんで消えて、そこから様々な単語が並ぶ。桜の花、会合、あの時間、三人の目撃者。いくつもの単語の裏側で景色は変わる。繁華街のどこか。月。大きな建物。国道。
最後にブラックアウトした画面に『こんにちは』と出て、終わり。
三日前に作られたばかりのアカウントで投稿されたその動画は、投稿されてから半日は誰にも見つからなかった。それが不意に脚光を浴びたのは、ある事件によるものである。その事件のことを調べると、その投稿が検索結果に出るようになっていた。この動画は何だと、憶測が憶測を呼び、今やその考察投稿や動画へのリンクが毎日飛び交うようになっている。
--四年前の未解決事件。詳しくはリンクを見て。全ての単語がこの事件に合致してる。最後の『こんにちは』も……
女はその考察をまともには見なかった。スマートフォンを肩から下げたショルダーバッグに押し込んで歩き始める。駅から離れるように小さな路地を三つほど経由すると、辺りはいつの間にか街灯の数も減って静かになっていた。
雑居ビルの並ぶ中、そのうちひとつに女は入る。狭い階段をカツカツンとヒールを鳴らして登っていき、三階フロアの一部屋に入った。
「所長、起きてますか?」
「起きてるよ」
部屋の中は小綺麗にまとまっている。趣味の良い応接セットと、それとはあまり……お世辞にも趣味がいいとは言いにくいマホガニーのデスク。革張りの椅子に腰掛けた痩せぎすの男は、こんな時間なのにスーツをピシリと着こなして、白いものが混じった頭をきっちりと撫で付けていた。眼窩が少し落窪んで、そのせいで大きな瞳がやたらと目立つ顔立ち。しかも度の強い眼鏡をかけているために余計に強調されている。楕円形のレンズに太い銀縁が部屋の照明に、チラチラ反射していた。
「そろそろ眠る時間かもしれないね」
「日付変わりましたから」
「駅の方はどうだった」
「特に変化はないみたいですよ。最近は皆……全部スマホで用事を済ませますからね。昔みたいになんでも広告ディスプレイに流れるわけじゃないでしょう」
「それでいいんだ。ネットの方は既に仕込みが済んでるからね。そろそろマスコミも動く」
「所長のそういう勘はいつも当たります」
「勘ではない。全ては計算通りだ。この『噂屋』のね」
男は椅子の背もたれに体重を預けて、両手を胸の前で合わせた。煤けた色をした指輪がその右手の薬指に嵌っているのが見える。
「噂を流すには……想像の余地を与えるのが一番だ。そして見るものに見下してもらうこと。見るものが「自分の知力でも理解できる」と思えば、その噂を理解しようとする、否定しようとする。そしてどちらにせよ拡散する」
「でも怪盗なんて、ちょっとわざとらしいのでは」
「そうでもない。現に皆、あの噂に夢中じゃないか」
怪盗からのメッセージ、と呼ばれる動画を投稿したのはこの男だった。表向きは調査会社の看板を掲げているが、その実態は情報操作を専門とした『噂屋』。個人や企業の依頼を受けて、彼らにとって都合の良い噂を流す。去年爆発的に流行った、なんでもないキーホルダーも、曖昧なスキャンダルで芸能界を追われた俳優のことも、元を正せばこの男の流した噂に過ぎない。
「今回のことも、本に載せるつもりですか」
「勿論。秘密は守るけどね」
男は近頃、ある本を出版しようとしていた。仮題は『人間を動かす噂』。噂屋としての情報操作技術を実例を伴い解説した一冊で、男はそれを出して引退しようとしている。
「きっとこの本も、信じたい人と信じたくない人で論争が起きることだろうね。人は自分の価値観が大事だ。どんなに口先で「価値観を変えよう」「常識を疑え」と言っても、結局そこから離れられないのさ。だってそれに素直に従うってことは」
「自我の否定だから」
何回も聞いた男の自論を代わりに口にすれば、男はニヤリと笑った。
「その通りだよ」
「でもそんな本を出して困る人もいるのでは? 例えば……所長の顧客の」
「皆困るだろうね。しかし関係の無いことだ、私には」
「いいえ」
女は否定の言葉と共に、ショルダーバッグに手を入れてすぐ様に引き抜いた。手に握られているのはスマートフォンではなく、サイレンサー付きの銃だった。銃口は男をしっかり捉えている。
「これで貴方に関係が生まれました」
「参ったね、これは」
男は鼻で笑った。その音はすぐに消える。
「誰の指示か聞いてもいいかな?」
「私の口からは。でも任務が与えられたのは二年前です」
「公安かな。いや、あの組織の末端か。まぁそれもいい」
女は銃を構えたまま、此処に潜入してからの二年間を頭の中に想起し、それを次々に切り捨てていた。情などはそこにはない。演技に満ちた二年間が、ただこの瞬間に処分されていく。
「貴方が貴方の仕事を外に公表しないように。それが私の任務です」
「本にされては困るのか。それもそうだね。少なくとも私の本を読んだ誰かは、私の思考を引き継げる」
「貴方の技術は我々が有効活用します」
「それだけの知識を君には与えた。可能だろうね。君が私の継承者だ」
「貴方は強盗に殺されたことにします。犯人となる者も用意してますから、貴方の魂は報われる」
「避けられないか」
「残念なことに」
男はフッと眉の力を抜いた。そして椅子から立ち上がる。
「動かないで」
「抵抗はしない。強盗目的なら、金庫は荒らさないと駄目だろう。私はその点、中途半端なのは嫌なんだ」
男は壁に埋め込まれた金庫の前まで移動して、金庫の扉を開けた。中を見て自嘲気味に笑う。
「銀行にいくつか入れておけばよかったよ」
「そのお金は間違いなく、ご遺族に」
「それは助かるよ」
「何か言い残したことはありますか?」
「最後の仕事がどうなるか、見たかったね」
女は首を左右に振った。その願いを聞きいれるわけにはいかなかった。
「私が確認しておきます」
「なら何よりだ。ついでにもう一つ」
男は金庫の扉に手をかけて、女を見て笑みを見せた。眼鏡の奥の目も不自然なくらいに笑っていた。
「夜道に気をつけるんだね」
女が雑居ビルから出た時は、午前三時を回っていた。ここから二駅離れた場所まで防犯カメラを避けながら進む必要がある。それは大した話ではなかった。銃はショルダーバッグの中にある。明日、然るべき方法で犯人役に引き渡すことになっている。どんな凄惨な事件でも、犯人さえ捕まってしまえば人はそこで安心して興味を失う。これもあの男から学んだことだった。
だが気になるのは男の最後の表情だった。あれは苦し紛れの笑みではなく、そして極限状態から生じる感情の暴発でもなく、純粋な笑みに見えた。もしかすると、自分のことに気がついていたのだろうか。でもそれなら逃げればいい話だし、あんな風に笑う理由にもならない。
心の底に湧く不安を振り払うために足を早めた。しかしそれは次の曲がり角が来る前に終わった。
「すみません、お話しよろしいですか」
女を呼び止めたのは二人の警官だった。どちらも制服を着て、制帽を被っていた。にこやかな笑みを浮かべているのを見て女もそれに応じるように口元を上げる。
「何でしょうか」
「これからお帰りですか」
「えぇ、電車で寝過ごしてしまって」
「そうですか」
警官二人が互いに目配せをする。女は不安になってショルダーバッグの紐を握りしめた。それを見た警官の片方が、バッグの方に手のひらを上にして向ける。
「中を拝見しても」
「えっと、……どうしてですか?」
女は平然と答えた。そのつもりだった。だが警官の態度は変わらない。
「実は、このようなものがありましてね」
バッグを示したのとは別の警官が、スマートフォンを女に見せた。そこには見覚えのあるソーシャルネットワークサービスの画面が映し出されていた。
--彼女が私を消すかもしれません。この投稿が行われたということは、きっと。
そんな文字と一緒に、女の顔写真や事務所の地図が添付されている。投稿は、女が男を殺した直後の時間になっていた。
「最後の仕事……夜道に……」
あれはそういう意味だったのか、と女は理解すると同時に苦笑を零した。それくらいしか出来ない。滑稽で哀れな一人の個体。
意味ありげな言葉と意味深な写真から、その投稿にはいくつもの憶測が紐付けられている。男の『噂屋』としての最後の仕事を、男自身が知ることは永遠にない。だが草葉の陰で満足そうに笑う姿を、女はハッキリ思い浮かべることが出来た。
【5題企画】「ジェーン・ドゥの殺人」-返却 - ⑤
2026/03/21 (Sat) 15:00:54
【十二月十四日 〇二一四時 郷田屋敷 遊戯室】
「――さて」
再び遊戯室に集った俺達――俺と星野さん、それに容疑者の六人を前にした黒滝が口を開いた。『名探偵みなを集めてさてと言い』とは誰の格言か知らないが、上手いこと言ったものである。
「結論から申し上げますと、やはり郷田氏は殺されたのだと私は考えます。根拠は二つ」
黒滝が人差し指と中指を立てる。
「彼のかけていた眼鏡と、落ちていた本です」
「眼鏡と……」
「本?」
絹代が首を傾げ、昭雄が眉を寄せる。他の四人もピンときていないようだった。ちなみに俺も、なぜその二つが自殺ではなく殺人を示すのか分かっていない。
「不自然なのは、郷田氏が老眼鏡をかけていたからです」
「……そりゃ、本を切り抜いて遺書を作ってたからじゃねえのか?」
牛島が怪訝そうに答える。俺もそう考えていたが、黒滝は違ったようだ。
「ええ、私も日下さんに聞いて最初はそう思いました。けれど、そう考えるとおかしな点があります。直前に遺書を作成していたというなら、鋏と糊は、どこへいったのでしょう?」
あ、と俺は声なき声をあげていた。あの部屋には、本を加工するための文房具は一つも置かれていなかったのだ。
「別の場所にあった文房具を拝借して遺書の作成をした後、わざわざ戻した? 今から自殺をする人間がしますかね、そんな面倒なこと。仮にやったとしたら、そこまで細やかな人間が老眼鏡を外さないのもまた、おかしいですね。では彼は事前に遺書を用意していた? だったらどうして老眼鏡をかけているんですか? 今から死ぬだけだというのに。考えられる可能性は一つ。彼はいつも通り執筆作業をする予定で老眼鏡をかけたが、予期せず毒を飲んで死んでしまったからです」
黒滝の上げた可能性を否定する者はいない。
「次に本ですね。これは遺書を作るためのものですが、これを郷田氏が自分で作ったと仮定するとやはりおかしな点があります。『あの本はどうやって持ち込まれたか』、そして『なぜ持ち込む必要があるのか』です」
「どうって……普通に買ったんじゃないんですか?」
戸惑ったように早乙女が答える。だが、答えてすぐに彼女も違和感に気がついたようだ。黒滝が言わんとしていることも。
「……先生の部屋にあった本が使われたわけじゃないんですか?」
「はい。死体のあった部屋の本棚は、あなたが最後に入った時と同様にギッチリと本が詰められていました。もちろん、彼の部屋に元からあった『千冊の罪禍』も同様です。つまりあの本は、外部から新しく持ち込まれたということになりますね。そこで質問です。ここ最近、彼は買い物のために山を降りましたか?」
「い、いえ。必要なものはすべて私が買ってきてました。配送なども特に最近はなかったはずです」
早乙女は首を横に振った。まぁ、そうだろう。自分が飲む水すら家政婦に用意させる男だ。わざわざ時間をかけて山を降りて本を一冊買うくらいなら、自分の部屋にあるものを使うだろう。俺だってそうする。どうせ死ぬんだし。
早乙女の答えに、黒滝は満足したようだった。
「ありがとうございます。ではやはり、あの本は郷田氏以外の人間が持ち込んだと考える方が自然でしょうね」
全員がゆっくりと頷き、左右に視線を走らせる。遺書を作るための本を持ち込み、毒を仕込んだ人間は誰かを探り合うような目つきだった。
「本をどうやって持ち込んだかについては、別に考えなくてもよいでしょう。皆さん、それぞれやりようはある。重要なのは、『なぜ持ち込む必要があったか』です」
「書斎の本を使ったらバレるから……ですか?」
些細な失せ物ですら盗みを疑われた伊庭が、ビクつきながら言う。黒滝は「もちろん、それもあるでしょうね」と頷いた。
「彼の部屋は非常に整理されていましたから。物がなくなっていたらすぐに分かるでしょう。ただ、犯人には別の目的があったと私は思っています」
一拍置いて、黒滝はその目的を告げた。
「時短のため、ですよ。ここが私にも少し不思議なのですが――どうやら犯人は、郷田氏をどうしても自殺に見せたかったようです。となると、悠長にその場で遺書を準備していれば誰かに見咎められる恐れがある。それを避けたかったのでしょう」
廊下で郷田と話していたことを、俺は思い出す。
そうだ、なぜ犯人は郷田を自殺に見せたかったんだ? 今日はジェーン・ドゥという濡れ衣を着せるには格好の犯罪者が来るというのに。
……いや、そもそもどうしてそんな日に事件を起こす必要がある。
ジェーンが来るということは、俺たち警察も押し寄せるというのに。そんな中でリスクを冒してまで郷田を殺す理由はなんなんだ。自殺に見せて殺すのなら、タイミングはいつだってよかったはずだ。
得体の知れない胸騒ぎが俺の中に芽生える。だが、今さら舞台を止めることはできない。
「さて、ではいよいよ大詰めです。そもそもの始まり――郷田氏に毒を盛ったのは誰なのか」
死神のごとく鬱々とした声で、クライマックスの開始が告げられる。
【十二月十四日 〇二二九時 郷田屋敷 遊戯室】
「そもそも、なぜ皆さんが自殺と考えたのか。それはやはり、郷田氏が鍵のかかった密室で死んでいたことが大きいと言えるでしょう」
全員が頷くのを確認して、黒滝は続ける。
「鍵をかけたのが郷田氏本人だとすれば、次に問題となってくるのは犯人はどうやって彼に毒を飲ませたか。より正確に言えば、いつ・どこに毒を仕込んだかが問題となってきます。私が調べたところ、部屋に置かれていたケトルに毒物は残っていないようでした」
直接舐めた、とはさすがの黒滝でも言わなかった。
「なら、一体どこに犯人は毒を仕込んだのかな?」
星野さんが穏やかな声で尋ねる。
黒滝はすぐには答えず、黙祷でもするように少しの間目を閉じた。だが、やがてゆっくりとその目が開かれる。
「いえ、犯人はやはりあのケトルに毒を仕込んでいたのですよ。ただ、毒入りの水を持ち去ったに過ぎない。犯人がやったことは単純です。郷田氏のいない隙にケトルに毒を仕込み、彼が死んだのを見計らって部屋に侵入して毒水を回収。用意していた遺書入りの本を床に置き、毒の小瓶を引き出しに入れる。そして何くわぬ顔で施錠して部屋から出る。《《あの部屋の鍵》》は、室内に置かれていなかった」
「――は?」
何を言ってるんだこの男は。
俺は確かに、デスクの上に鍵が置かれているのを見た。それが部屋の鍵だというのも、しっかり確認したはずだ。
と、そこまで考えて俺の脳内で何かが弾ける。脳天から爪先まで、一気に血液が落ちるような奇妙な感覚。
――俺《《達》》はいつ、机の上の鍵があの部屋のものだと確認したんだったか。
間抜けな声を上げる俺の方を――いや、俺の後方の人物を見据えて黒滝が静かに告げる。
「あの部屋を密室にしたのはあなたです。星野警部」
俺を除いた全員の視線が一人に集まる。俺は、振り返れなかった。
「お見事」
常と変わらぬ穏やかで眠たそうな声が、死神の鎌に切り落とされた。
◆◇◆◇
郷田家の人間は皆、呆気に取られていた。俺だって同じ気分だ。絹代や早乙女みたいに、口に両手を当てて絶句したい。だがしかし、だ。
「ま、待て待て待て! 納得できねえよ! お前、さっき言ってたじゃねえか。物がなくなってたら郷田も気づくはずだって」
「ええ、私は《《なくなっていたら》》、と言ったんです」
落ち着いた声音で黒滝は言った。
「あの部屋にあった鍵は、ありふれたディスクシリンダー。似たような鍵を探すことなんて簡単でしょうね。一瞬騙すだけなら、他の鍵でもこと足ります」
「でも、そんなの郷田だって気がつくんじゃ……」
どこかで間抜けな推理をこの死神が披露してくれるのを期待していなかったといえば嘘になる。けれど自分でも分かるほど、俺の声は上擦っていた。
そんなことはあり得ないと、俺だって理解しているのだ。
狼狽する俺に哀れみの視線を向け、黒滝は「いいえ」と首を横に振った。
「郷田氏は、自分が部屋にいない時は施錠をしませんから。鍵そのものが長時間なくなっていたら気が付くでしょうが、違う鍵にすり替わっていても気が付くとは思いません。それに、これは私の推測ですが――彼は普段は鍵を引き出しに仕舞っていたんじゃないでしょうか。あれだけデスクの上を片付けていたのに、鍵をこれ見よがしに出しておくとは考えがたい。あの鍵は、「鍵が室内にあった」という君の証言を引き出すために置かれていたんですよ」
死神の告発は容赦なく続く。
「最初から星野警部の行動を説明しましょう。夕飯と入浴のために郷田氏が部屋を空け、早乙女さんが水を入れ替えたタイミングで部屋に侵入。そして鍵をすり替え、ケトルに毒を仕込む。郷田氏が毒を飲んだ頃合いを見計らって部屋に再び侵入し、遺書を置いて毒の小瓶を引き出しに入れ、代わりに偽の鍵を机上に出す。この際、ケトルに入った毒水の残りは水筒に入れて持ち去ったんでしょう。内部を拭いて、加湿器の水を代わりにケトルに移せば毒物が検出される可能性はかなり低くなる。
……ここまでの行動は、人の動きにさえ注意していれば誰にも不自然に思われずに行えるでしょうね。何せ彼らは、警備のために屋敷内をいつでも自由に動けるんですから。それに北階段を使えば、二階に行った後にこっそり離れに行くことは可能だ。確か彼は言っていましたね、「ぼくも落ちかけました」と。芹沢さんを呼びに北階段を使った日下さんならともかく、彼が言うには些か不自然です。ああ、芹沢さんを呼びにといえば、その指示をしたのも星野警部でしたか。とにもかくにも、こうして細工をした後は再び鍵を使って施錠して堂々と部屋を出ていく。最後の仕上げに、日下さんと一緒に自らが施錠したドアを白々しく叩き、郷田氏のデスクに載った鍵を目撃させる。――あとは、言わなくても分かりますね? 日下さんに北階段を使うよう指示し、いなくなった隙に部屋に入って鍵を入れ替える。そして玄関ホールまで行きマスターキーを取って、あたかもたった今それを使ったように扉を開けるだけでいい」
一気にそこまで言って、黒滝は「他に何かありますか?」と問いかけた。
分かっている。それが可能なのは星野さんくらいだ。分かっているのに、俺の口からは「でも……」と諦めの悪い言葉がこぼれ出た。
自分が犯罪の片棒を担がされたのがショックだったからではない。もっと別の、自分でも上手く言葉にできない感情――半年間隣に一緒にいて、誰よりも間近に見てきた彼の人となりが俺に否定の言葉を選ばせたのだ。
「でも俺たちが書斎に行ったのは、見張っていたトリックノートがジェーンに盗まれたからだ。いくら屋敷内を怪しまれずにうろつけるといっても、ある程度タイミングを揃える必要がある。それとも、星野さんはジェーンがいつ盗むか分かってたとでもいうのかよ」
「そうですよ」
実にあっさりと黒滝は肯定しやがった。
「そもそも、最初からジェーンは予告状なんて出してません。すべて星野警部のでっち上げです」
「な……でも、確かにトリックノートは」
盗まれたのに、と言う俺の言葉は尻すぼみになって消えていった。
「あんなの、ただの子供騙しですよ」
やれやれと溜息をつき、黒滝はダウンのポケットからメモ帳を取り出した。トリックノートと同じサイズの、黒色無地のものだ。
「この場で再現してみましょう」
黒滝は俺達にも見えるようにメモ帳を掲げ、一番最初のページにペンで大きくバツ印をつける。
「日下さん、確認してください」
挑むようにメモ帳を渡され、俺は渋々最初のページを確認した。もちろん他のページや表紙にも、妙な細工がないかじっくりと眺め回す。
「……何もおかしいところはない」
「では私に返してください。印を一ページ目から消してみせます」
手を出され、俺は乱暴にメモ帳を置く。奴は、さっきの俺と同じようにメモ帳を捲ったりしている。不審なところは見られない。一体どうやって……。
「はい、消えました」
「嘘だろ!?」
俺は思わず叫んでしまった。黒滝は答えず、メモ帳を再び掲げる。
ゆっくりと捲られた最初のページは――白紙だった。
「貸せ!」
再び黒滝からメモ帳を奪い、俺は猛然とページを捲っていく。最初からページを確認していくが、途中にもあのバツ印はない。
俺の指が最後のページにかかり、そこで気がつく。捲るまでもない。裏からうっすらと透けて見えるのは、あのバツ印だ。
俺の動きが止まったのを確認した黒滝が説明を続ける。
「無地のノートですからね。《《上下を返せば》》、最初のページは最終ページにいくんですよ。こうすれば、少なくともあの場は誤魔化せる。仮に君が気づいても、別のところで不審な点があると騒げばとりあえず書斎に向かうという目的は達成できます。あとはどさくさに紛れて最初のページを破き、全てのページを白紙にすればジェーンに盗まれた後のトリックノートの完成です。……元から、《《こちらの》》トリックノートには大した量は書かれていなかったのでしょう」
「でも……予告状は?」
俺にだって分かっている。これが無駄な足掻きだって。勝率で言えば、風車に突撃したドンキ・ホーテの方がまだマシだろう。
「星野警部はジェーン・ドゥの専任捜査官です。予告状の偽造は今まで幾度となく押収した証拠品がある。限りなく本物に近づけて作ることもできるでしょう。あとはそれをバレないようにポストにでも放り込めばいい」
俺はもう何も言えなかった。
「何か訂正箇所はありますか?」
黒滝が、再び星野さんに顔を向ける。
「ないよ。でも一つ聞きたいんだけど、君はどこでぼくが犯人と分かったんだい? けっこう頑張って気配消してたと思うんだけどな」
星野さんが嬉しそうに問いかける。対照的に、黒滝は今までで一番悲しそうな顔をした。捨てられた子犬のような、あるいは――親から手を離された子供みたいな表情だった。
「最初からです。最初から、私はあなた達警察を疑ってました。より正確には、密室を確かめたあなたと日下さんの二人。でも、タイミングから考えると毒を盛って部屋を密室にしたのはあなたしか考えられなかった。だから私は、その確認作業をするだけでよかったんです」
あるいはもしかしたら、黒滝は星野さんが犯人だというのを否定する材料が欲しかったのかもしれない。なんとなく、俺にはそう感じられた。
「なぜ警察を疑ったかということなら……。どうして犯人は、よりによって警察が数多く屋敷をうろつく今夜という日に殺人を犯したのか。私はそれがずっと引っかかっていたんです。だが違った。逆だったんですよ。あなたは、こうでもしないと……警察という立場を利用しないと、郷田氏に近づけなかった」
ジェーン・ドゥの予告状が届いた場合は、どこの国でも対処は同じだ。奴は国際指名手配犯。俺たちインターポールの担当官が現場に向かうことになる。ジェーンのように複数の国を跨いでいる奴なら、その国の担当が。そして日本の担当は星野さんだ。
「ああ、なるほどね。それは確かに盲点だった。けど、それだけはどうしようもなかったからね。他に引っかかったところは?」
「……あなたが部屋の前で日下さんと合流したというのも、タイミングとして気になりました。あの階段を上り下りした上、足の悪い芹沢医師を連れてきた日下さんと同時に着くなんてあり得ないと。一人で部屋に入って疑われたくないという心理があったんじゃないですか?」
黒滝の指摘に、星野さんは「敵わないなぁ」とのんびり言った。悔しそうでもなければ、腹を立てている様子もない。見慣れたいつもの――いつも通りすぎる彼の姿が、そこにはあった。
「なんで……」
気がつけば、俺は呆然と呟いていた。
「星野さんは、なんで……なんで、そこまでして郷田を殺したかったんですか?」
俺の知る限り、この二人に直接の面識はなかったはずだ。むしろミステリ好きの彼は一時期、郷田の著書を何冊も読んでいた。
「そうだねぇ……」
前髪を掻き上げ、星野さんは呟いた。さっきまでと何が変わったというわけではないが、その立ち姿からは妙に目が離せないオーラがある。
彼が言った「気配を消していた」というのはあながち嘘ではなかったのかもしれない。いつの間にか、屋敷の住人達も息を潜めて星野さんの答えを待っている。
「復讐、かなぁ。ミステリ小説なら、犯人の理由としてはありきたりすぎるけどね」
どこまでも穏やかなまま、星野さんは話を始めた。
彼が郷田を殺した理由を。
【十二月十四日 〇三〇二時 郷田屋敷 遊戯室】
「どこから話そうかな……。ああ、そうだ。子供騙しのノートのトリック。あれの説明の時に言っていたよね? こっちのノートには大した量が書かれていなかったって」
「ええ、私の推理が正しければですが――郷田氏があなた達に渡したトリックノートは偽物ですね?」
「うん、そうだよ。だって、ジェーンはいわくつきの本しか盗まない。本来の持ち主が殺されているノートなんて、喜びそうじゃない?」
黒滝が苦い顔をした。
「殺され……!?」
早乙女が慄いたように呟き、絹代が短い悲鳴をあげた。予想はしていたが、俺は確認する。
「だから俺たちにも本物は渡さなかった。急いで偽物をでっち上げたから、中身をあまり見ないように指示したと?」
「そうだよ。あれが本物じゃないってのはすぐに分かったからね。本物のトリックノートは、あんな安っぽい作りじゃない。本と呼ぶに相応しい厚さなんだ」
星野さんは水筒が入っていたのとは逆のポケットから一冊の文庫本を取り出した。いや、それは本ではない。はち切れんばかりに紙を挟まれた、文庫サイズのルーズリーフだった。
黒滝の方を見やり、星野さんは微笑む。
「君が一つだけ見落としたことがあるよ。あの本棚には、一冊だけスペースがあったんだ。このノートが入ってたスペースには外したカバーだけを本棚に入れておいたの。分からなかったでしょう?」
「では、それが……」
「そう、本物のトリックノート。カバーをつけて他の本に紛れさせてたけど、一冊だけやけに使い込まれていたからね。すぐに分かったよ」
日差しの強くないあの部屋で、どうして大判本以外の本には全てカバーがかかっていたのか。トリックノートを紛れさせるためだったのだ。
星野さんが俺にノートを差し出した。受け取り、中を開いてみる。ふわりと、古い紙とインクの匂いが俺の鼻口をくすぐった。ページは隅まで、びっしりと几帳面な文字と図で埋められている――郷田のものとは異なる筆跡だ。
その異常性に俺が顔を上げるのを待っていたかのように、星野さんが言う。
「そのトリックノートはね、ぼくの父親のものなんだよ」
「父親……?」
「そう。ぼくが中学に上がった年だから……もう三十年以上前に殺されちゃってるんだけどね。強盗殺人。その時に持ち物からなくなったものの一つが、そのトリックノートってわけ。ぼくの親父はごく普通の会社員だったけど、一つだけ趣味があってさ。推理小説がめちゃくちゃ好きだったんだよ。部屋にはクイーンやらクリスティやらカーやら、色々と溜めこんでた。それで、いつの間にか自分も書きたくなったんだろうね。今みたいにネット小説なんてなかった時代だし、機械オンチだったからさ。手書きで色々と書いてたよ。だから筆跡を見たらバレると思ったんだろうね、自分のものじゃないと」
俺の手元から視線を外さず、星野さんは続ける。
「ぼくが物心ついた時にはもうあったから、ネタだけはずっと考えてたみたい。トリックだけじゃなく、どこで伏線を張るのがいいかなんていう分析を作品ごとにしてたりさ。けっこう面白かったよ。そんなもんだから、そのノートも肌身離さず持ち歩いてた」
そこで顔を上げた星野さんが芹沢を見た。
「あなた達は、若い頃に色々とヤンチャをしていたそうですね。郷田は昔の仲間に、こんな話をしたことはありませんでしたか? 『俺は人を殺したことがあるぞ』って」
気まずそうに芹沢が目を逸らす。それが何よりの答えだった。昭雄が「なんてこった」と天井を仰いだ。
「お父様の死因は……?」
おずおずと絹代が問うた。
「転落死ですよ」
星野さんが簡潔に答えた。
「三十二年前の十二月十四日。帰りがやけに遅くて、母親と心配してたからはっきり覚えてる。階段から転げ落ちて、頭がぱっくり割れてましてね。現場には空になった財布が放り出されてたから、金銭目的の引ったくり犯と揉み合いでもして階段から落ちたんだろうっていうのが警察の見解。でもね、金以外にもなくなってるものがあったんだ」
それがトリックノート。郷田が文壇に華々しくデビューしたのが三十年ほど前だから、時期としては合致する。引ったくり、と聞いて伊庭が顔を伏せた。
「警察にも言ったけど、まともには取り合ってくれなかったなぁ。まぁ、ただのノート一冊だ、仕方ないよね。そうそう、ぼくが警察になったのも親父の事件を調査したかったからなんだけどさ。あっさり時効成立しちゃった。それに、肉親の事件は関われないしね」
刑事訴訟法の改正で時効がなくなったのは十六年前の二〇一〇年。三十二年前の一九九四年十二月は、時効が成立がするギリギリの時期だ。
その瞬間を、星野さんはどんな気持ちで迎えたのだろうか。
「それじゃあ。あなたはずっと、お父さんの仇を探してたんですか……?」
早乙女が痛ましそうに顔を歪める。だが、星野さんは「まさか」と苦笑して首を横に振った。
「正直、働き出してからは考える余裕もなかったですよ。時の流れというのは残酷ですね。十年、二十年と経つうちに、どんどん遠い記憶になっていきました」
「なら、なんで……?」
戸惑ったように牛島が問う。星野さんの答えは、やはり簡潔だった。
「きっかけはあなたと同じですよ」
「へ?」
「ぼくの父はね、あの男の小説の中で殺されてたんです。それも、ひどく間抜けで滑稽で醜悪な殺人犯として。たまたま――本当に、たまたま帰国した時に流れてきた映画の予告でね、頭のぱっくり割れた男の死体が映って気になったんです。あれ、なんか似てるなぁ……って。それが三年くらい前だったかな」
話を聞いて、流行りものに疎い俺でもピンときた。
映画『千冊の罪禍』――原作は、同題の郷田の小説である。郷田の中でも特に評価の高い一冊で、発売早々にミリオンヒットとなった。
あらすじはこうだ。
ある時、売れない小説家が一冊のノートを拾う。
それは人の殺し方や解体の仕方、そしてそれらをバレないようにするためのトリックがこと細かに書かれていた殺人ノートだった。
小説家はそのノートに書かれたネタを元に大ヒットを飛ばす。ところが実は、そのノートに書かれていたことは只の妄想ではなかった。過去に本当に起こったことだったのだ。このノートの持ち主は、真の猟奇殺人者だったのである。
正義感に燃えた小説家は、ノートを手がかりに過去の事件を暴くことを決意する。だが、事態はそう簡単には進まない。小説家の存在に気がついたノートの真の持ち主が、小説家を葬ろうと数々の妨害をしてくるのだ。
そうして小説家によって暴かれるのは、男の歪んだ性癖やプライドだけが肥大した傲慢さ、そして周囲をかえりみない幼稚な残虐さだ。
そしてラスト、男はついには愛人にも見捨てられ(なお、この愛人は最後に小説家とくっつく)、怒りのままに小説家に襲いかかったところを、階段から足を滑らせて死んでしまう。
確かキャッチコピーは『書かなければ、死ななかったのに』。このキャッチコピーも、郷田が考えたらしい。
星野さんの話を聞いた後だと、この男とノートが誰のことを指していたかは明白である。
「作中で使われているトリックには見覚えがあった。それからだよ、ぼくが彼の本を読むようになったのは」
結果は、言うまでもないのだろう。
「原作を読んだ後は、怒りで頭が真っ白になったけどね。さっきも言ったみたいに、なにぶん時間が経ちすぎていた。殺そう、とまでは思わなかったかな。彼が、少しでも己の行いを悔いているのなら――親父を悼む気持ちが、少しでも残っていたのならぼくは満足だったんだ」
それをどうしても確かめたかった、と星野さんは言った。
「彼に近づく手段にジェーンの名前を使ったのは、それくらいしか思いつかなかったからだよ。普段は日本にいないし、手紙やメールで気軽に出せる話題でもない。それに、ジェーンはいわくつきのものしか盗まない。郷田以外の人間には「どうしてただのノートを?」と思われるかもしれないけど、彼にとっては心当たりがある。内心びくびくしていただろうね。《《このノートの持ち主を自分が殺したことを》》、《《ジェーンは知っているんじゃないか》》、って」
だが彼は、罪がバレることを恐れはしたが、悔いることはなかった。
「日下くんがいない隙に、こっそり聞いてみたんだ。「あなたの持つトリックノートに、何か特別なことはないですか? 例えば、『千冊の罪禍』みたいに本物の犯罪に関わってたり」って冗談めかしてね。そしたら彼、なんて言ったと思う?」
一瞬だけ、いつも通りの穏やかな瞳の奥に冷たい光が宿った。
「『仮にノートが誰かの落とし物だとしても、発表した以上は私のものですよ』と彼は笑ったんだ。『私以上に有効活用できることは無理でしょうから、むしろ私の手に渡ったことを感謝してほしいくらいです』とね」
星野さんは大きく息を吐いて天井を見上げた。
「その時だよ。『殺そう』って思ったのは」
――ああ、そうだった。人が一線を超えるのなんて、タイミングだけの問題なのだ。
「こんな感じかな。しかし君、ぼくが認めなかったらどうするつもりだったんだい? 水筒の水だって捨ててるかもしれないのに」
問われた黒滝は「いえ」と答えた。
「あなたは捨てませんよ。少なくとも、この屋敷内では。ヒュプノキシドの成人致死量はわずか十ミリグラム。何かの間違いで誰かが口に含んだり、目に入るだけで死亡する可能性がある。無関係な人間が傷つくことを、あなたがするはずがない」
星野さんは諦めたように笑った。
「ぼくのこと、買い被りすぎだよ」
ポケットから取り出されたのは、見慣れた小型の水筒だ。差し出された証拠品を受け取ると、実際以上に重く感じた。
「さ、じゃあもういいかな。日下くん、行こう」
まるで昼飯に誘うみたいな気軽さで、星野さんが俺の背中を叩く。すっきりしたように歩き出す彼の背中に、黒滝が「一つだけ」と言葉を投げる。星野さんが足を止めた。
「どうして……どうしてもっと上手い方法を考えなかったんです。あなたならもっと上手い方法を考えついたはずだ。偽のトリックノートを盗んだように見せなくても、日下さんを書斎に誘導できたし……いや、そもそも自殺に見せかける必要だってなかった。もっと単純な殺しでジェーン・ドゥのせいにすればよかったのに……!」
「なんだ名探偵。そんなことも分からないのかい?」
揶揄うように言った星野さんが、顔だけで黒滝の方を振り返る。その表情は、ひどく満足げなものだった。
「ジェーン・ドゥは人を殺さない。これまでも、そしてこれからもだ」
それは捜査中、何度も星野さんが言っていたことだ。黒滝の目が見開かれる。
「盗みの失敗は……うん。私が邪魔してやったから、何度かあるけどね。でも仮にも名前を借りたんだから、そんな不名誉な戦績を追加してやるわけにはいかないだろう?」
「…………納得しましたよ。それから、別に私は探偵じゃありません」
「ははっ、知ってる。――それじゃあね、楽しかったよ」
顔を正面に戻し、再び星野さんは俺を伴って歩き出した。
黒滝からの引き止めは、もうなかった。
【十二月十四日 〇六三二時 郷田屋敷 裏庭】
裏庭に出た俺はずっと詰めていた息を長く吐きだした。凍てつく外気に触れた呼気はすぐに白く凍り、視界を一瞬だけ奪う。
星野さんが自首してからの騒がしさも、ようやく少しは落ち着いた。とはいえ、まだまだ事後処理は山積みだ。俺の前に立っていた、犯罪現場に似つかわしくない背中はもういない。
いつの間にか東の空が白み始めていた。もうすぐ夜が明ける。
屋敷内のどこにもいないから予想はしていたが、裏庭には先客がいた。口元からは気霜とは異なる白い煙が立ち昇っており、やはり東の空を眺めている。
影のように動かない黒づくめの人物に、俺は声をかけた。
「よぉ、ここでの喫煙を許可した覚えはないんだが?」
「いいでしょう、事件はもう解決したんだから」
相変わらずの陰気な声だ。どこか投げやりにも聞こえる。
「ところが、新たな問題が持ち上がってな。郷田が俺らに渡した偽のトリックノートがなくなってるって、現場が騒ぎになってるんだよ」
隣に並び、俺もポケットから取り出した煙草に火をつける。健康に悪い煙を目一杯吸い込むと、肺がニコチンで満たされるのが分かった。ひとしきり満足したところで、煙にのせて問いかける。
「あんただろ」
「おや、よくお分かりで」
隣の人物の左手には、見覚えのあるノートがいつの間にかあった。
「手癖の悪いやつだな」
「あいにくと生来のものでしてね。死ぬまで治りそうにありません」
「だろうな。なんで本物を盗まなかった?」
「あれにはちゃんと相応しい主人がいますから」
「確かにな」
もう一つ煙を吐いて。
「お前がいわくつきの本ばっか盗むのは、それが理由か?」
「ええ。持ち主に愛されない書物なんて可哀想でしょう?」
「情報価値としては、持ち主がどうであろうと変わらんだろ」
「いいえ。彼らが真に愛された時にこそ、刻まれた文字には意味が宿るのですよ」
「はは、変態の理屈すぎて分かんねー」
黒滝が――いや、ジェーン・ドゥが煙を吐きながら俺に視線を流す。今は猫背でないためか、煙は俺の随分と上で空に昇っていった。
「私のこと、なんで分かったんですか?」
「別に。星野さんのことやけに信頼してたみたいだから。俺らの功績なんて、組織としては残っても個人の名前は残らない。だから部外者であの人の能力を一番把握できてたのなんて、ずっと煮湯を飲まされてきた相手くらいだろなって」
「そうですか。少し喋りすぎましたね」
「星野さんに釣られたか?」
揶揄うように言った俺に、ジェーンは顔をしかめた。
「かも、しれません。それも計算してたとしたら、最後まで本当に忌々しい。……後進に託すなんて、らしくないことを」
言葉とは裏腹に、その声はどこか寂しそうだった。ふと、口調を改めて俺に向きなおる。
「もし私がしらばっくれたら、どうするつもりだったんです?」
「その時は、お前に偽のトリックノート探しを手伝わせようと思ってた」
「嫌ですよ。あんなことは一回だけです。次からは、星野警部の代わりにあなたが私の相手なんですからね」
ジェーンが俺の方に顔を向ける。相変わらず覇気のない陰気な顔だ。その中で、二つの瞳だけは俺を値踏みするように底知れぬ光を湛えていた。
「……あの人の後釜は荷が重いんだけどな。ま、せいぜい覚悟しとけよ」
「あまり期待せずに待っていますよ」
呆れたように言って、ジェーンが再び煙を吸い込む。
「そういえば、なんでジェーン・ドゥなのに男なんだ?」
俺の問いに、彼は小さく笑った。ふわり、と白い煙が呼気に合わせて冬の空気を汚す。
「おや、知りませんでしたか? ジェーン・ドゥは人を殺しませんけど、人を騙すのが仕事なんですよ。だから、プロフィールくらいは偽ります。なにせ悪党なのでね」
意地の悪い言い方だった。どうやら俺が、「ジェーンが人を殺さないのは気まぐれだ」と言ったのを根に持っているようである。
「くそっ、次はブロンドの超絶爆乳美女で現れろよな」
「考えておきましょう」
右手の煙草をジェーンが弾き飛ばした。
目で追いかけた俺の前で、小さな火を上げて煙草は燃え尽きる。ああなってはもう、唾液の採取などはできないだろう。
夜明けの空に、白い灰が舞い上がる。
その灰に俺が意識を取られた一瞬に、もう陰気な怪盗の姿はなくなっていた。
――fin.